死ねない死者は夜に生きる

霜月透子

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要は記憶を保有する

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      ♧

 要には、しばしば胸を去来する光景がある。幼い頃から見る光景だったが、ずっと夢の記憶だと思っていた。その割には何度も同じ夢を見るなんて、実は夢ではなく記憶なのではないかと思ったりもした。

 生まれ変わり。輪廻転生。

 だが、祖父から死せる者が生まれ変わるという話を聞いたことはなかった。その手のことに精通している祖父が触れないのなら、生まれ変わりなどというものはヒガンとシガンで構成されたこの世界には存在しない現象なのだと思っていた。

 だから、初めて『ヒガン考』を読んだ時には驚いた。生ける者が命を失うと死せる者か還りし者になるとの記載があったのだ。

 生ける者はいずれ誰しも死ぬ。その死に方によって死せる者か還りし者かに振り分けられるのだという。一旦は死せる者になっても一定期間を経て還りし者になることもあるそうだ。そうやって魂魄のコンは巡る。

 なぜ祖父がそのことを話してくれなかったのかはわからない。要自身も夢のようなその光景のことを祖父に話したことがあったかどうか定かではない。そのくらい些細なものだったのだ。今までは。

 最近になってその光景を思い出すことが増えてきた。しかも、記憶ならば薄れていきそうなものだが、ここにきてその光景は徐々に鮮やかに甦ってくる。祖父の家に滞在していることが影響しているのだろうか。あるいは、その光景の記憶が意味するところを確かめたくて祖父の家に来ることを選んだ気もする。なにしろその光景は、祖父の家からほど近い浜辺なのだ。

 風に舞う花びらが指先の小さな風に煽られて掴めないようなもどかしさを解消したくて、要は今夜も海に向かう。


 国道を渡るまでは風を感じなかったのに、階段を下りて砂浜に足を踏み入れると海から冷たい風が吹いていた。手袋をしてこなかったことを後悔しながら、両手をコートのポケットに突っ込んだ。
 砂に足を取られて歩みは重い。歩きやすさを求めて波打ち際の濡れた砂の上を歩く。
 気温が低いせいか、磯の香りは強くない。けして芳しい香りとはいえないのに、どこか懐かしさを覚える。海に親しんで育ったわけでもないのに。

 要の住んでいた街は海から遠く、幼い頃に海水浴に行った思い出しかない。ましてや夜の海なんてここで暮らすまで見たこともなかった。闇の中で聞く波音は光のもとでのそれよりも大きく響き、荒々しい。慣れるまでは巨大な怪物が海の底から現れるかのような恐怖を感じた。けれども、もちろんそんなことがあるはずもなく、普段はいかに視覚のみに意識が偏っているのかを自覚するのだった。

 波打ち際で足を止め、黒い海を眺める。時折、大きな波が打ち寄せてきて、そのたびに要は後退る。
 凍てつく潮風に身を縮こませながらも、冬の浜辺に重なるのは夏の光景だった。


 波打ち際に少女と並んで立っている。要の視界は今の背丈よりも十センチ以上高いところにある。冬の硬質な潮の香りとは異なる、柔らかく様々な匂いが混ざり合った潮の香りがする。

 毎年夏になると家族そろってこの海辺の別荘で過ごした。別荘は部屋数が多く、夜に妹と共に抜け出しても両親に気付かれることはなかった。
 妹とは歳が離れていたこともあり、ただただ愛くるしいだけの存在で、兄妹喧嘩どころか小さな諍いさえしたことがなかった。

「兄さま、星は見えませんね」

 空一面に雲がかかっていた。月明りもおぼろで、それが恐ろしいのか、妹にシャツの裾を強く握られた。こんな夜に連れ出してしまったことを申し訳なく思いながら、少しでも楽しい夜の散歩にしようと海の向こうを指さした。

「星なら、ほら、あそこに」

 夜の海と空はどちらも黒くて境界が曖昧だったが、一本の横線を這うように対岸の町の明かりが並んでいる。

「あれは町の明かりでしょう?」
「おっと。騙されなかったな」
「それくらいわかります。子供だと思って馬鹿にしないでくださいな」
「それはすまなかった。では、どこの町かわかるかい?」

 妹は大きな目を更に見開いている。よく見たところで妹の知っている町ではないのに。そんなふうに何にでも懸命になる妹を見るのが好きだった。

「さあ。どこかしら」
「ここは大きな湾なんだよ。あちらは半島になっていてね、その町の明かりが見えているんだよ」
「近いの?」
「いや。鉄道で行ってもだいぶかかるだろうね」
「でもすぐに辿り着けそうに見えるわ」

 届きそうなほど近くに見えたのか、妹は手を伸ばす。当然夜風を掴んだだけだった。

「届くわけないだろう」

 思わず笑うと、妹は上目遣いに睨みつけてきた。

「笑うなんてひどいわ、兄さま」

 機嫌を損ねる様も愛らしいが、頭を優しく撫でて謝った。

「いやいや、悪かったよ。機嫌を直しておくれ」

 そして、名を呼ぶ。

 なあ――、
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