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要は『ヒガン考』を読み直す
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「なにをしてるんだ!」
波音にも勝る大声に、要は瞬時に意識を引き戻された。たった今「兄さま」と呼んだ声が語気も荒く叫んでいた。
意識の尾がはるか彼方に取り残されたままで混乱しつつも、要は反射的に振り向いた。声の主は思ったよりも離れていて、要に向かって言ったわけではなさそうだ。海辺に似合わないミニドレスのスカートが風をはらんではためいている。先日部屋に忍び込んでいた死せる者だと遠目にもわかった。
「――蘭子」
ローブを羽織った女と言い争いをしているみたいだが、風向きが変わったのか、その後の声はまるで聞こえなくなった。
女が崩れるように倒れ、要は思わず駆け寄る態勢になった。だが、当然ながら離れている要よりも目の前にいる蘭子の動きの方がはるかに早かった。
蘭子は要に気付いていないらしい。こちらに顔を向けることなく、ぐったりとしている女を抱えて去っていった。
蘭子が人を抱えているのを見かけるのは二度目だ。見覚えのある光景に、はたと気付く。
今のは、あの時の女だ。秋に海で溺れていた女だ。助かったのか。
いや、違う。蘭子と共にいるということは、あの女も死せる者となったのだ。
見ず知らずの人とはいえ、軽くないショックを受ける。生ける者である要としては、やはり人が亡くなるというのは心が沈む。
そういえば、祖父は死せる者になる間もなくいなくなった。命が尽きて、必ずしもみな死せる者になるわけではない。死せる者を経ずに還りし者となる人の方が多いくらいだ。死せる者も四十九日で還りし者となる。
「あれ?」
思わず声が出た。
あの女、とっくに四十九日を過ぎてやしないか? 正確な日付を覚えているわけではないが、季節は秋から冬へと移り変わっている。
寒さのせいとは別の冷えたものが腹の奥に広がる。
あの女もまた、蘭子と同じ終わりなき死せる者なのだろうか。
蘭子という前例があるのだから、今後も同じような者が現れないとは限らないし、既に他にも存在しているのかもしれない。『ヒガン考』には蘭子の例しか記されていなかったけれど、祖父が知らなかっただけという可能性も充分にある。
ただ、要も蘭子の他に死ねない死者を見たことがない。飢えた獣然とした死せる者とは一見しただけで違うから、視ればすぐにわかるはずだ。
還りし者になれない死せる者が生まれる要因とはなんなのだろう。祖父と蘭子に交流があったのなら、そのことについて考察していないはずがない。
要は砂に取られて思うように進まない足を懸命に運んだ。
「あった」
帰宅するなりコートも脱がぬまま『ヒガン考』のページをめくり、該当箇所を見つけた。
表紙をめくるとまず、凡例とも用語説明ともつかないページがある。
祖父から直接聞いた話も多いはずの『ヒガン考』を改めて読み直すことはないと思い、流し読みをしただけだった。ましてや、こんな基本的な項目をわざわざ目を通そうなどとは思いもしなかった。
知っていると思っていることこそ見落としがある。知らないことは情報を得ようとするが、知っているつもりになっていると更に得るべき情報があるとは気付きにくい。そんなことを痛感した。
コン:魂魄の魂。精神を支える気。
ハク:魂魄の魄。肉体を支える気。
シガン:此岸。生ける者の世。
ヒガン:彼岸。死せる者の世。
生ける者:生者。
還りし者:死者のうち、寿命、病などにてハクを失い、コンのみの存在。四十九日の後、輪廻転生の環に還る。
断滅:コンもハクも失い、輪廻転生から解脱した者。
死せる者:死者のうち、事故死または自死した者。本来定められていたハクの存在期間の余剰があるため、コンと共にハクも残っている状態。ハクがあるため、可視者にはその姿を認めることができる。四十九日の後に、還りし者同様、輪廻転生の環に還る。
「死せる者って……僕が見ていた者って……」
死せる者と還りし者の違いに明確な分類はないのだと思っていた。死後も姿が残るのも残らないのも偶発的なものなのだと思っていた。いや、深く考えたことさえなかった。
残された肉体寿命を使い切るための姿だったのだ。もっと生きられるはずだった人たちの姿だったのだ。
ならば、狩りをするのはなぜだ。生への執着なのか。ああ、そうか。肉体が、ハクが欲しているのだ。生きた肉体への未練なのだろう。
待てよ。それでも死因にかかわらず四十九日で輪廻転生に組み込まれるのは同じはずだ。それなのに途方もなく長い歳月を死せる者として存在する条件はなんなのだ?
要は『ヒガン考』のページを繰り、その条件を知る。
生ける者を狩る際に血気を摂取しすぎると、その生ける者は死せる者となる。血気とはすなわち寿命。命をいただくわけだ。余命をすべて摂取されてしまえば、その獲物はシガンでの生存期間を使い切ったことになり、ヒガンの住人となる。
そしてここからは非常に確率の低いケースになる。
死せる者は生ける者しか狩らない。しかし、命が尽きたばかりの者は生の残り香をまとっているため、まれに死せる者に襲われることがあるという。死せる者となったはずなのに血気を奪われたら、次の生に繋ぐべきコンが不足する。それは永遠に死せる者として居続けるしかなくなるということ。
祖父によれば、それが蘭子だという。
――兄さま。
要の記憶が蘇る。前の世の。
――兄さま。
西洋人形のように愛らしい、僕の妹……蘭子。
波音にも勝る大声に、要は瞬時に意識を引き戻された。たった今「兄さま」と呼んだ声が語気も荒く叫んでいた。
意識の尾がはるか彼方に取り残されたままで混乱しつつも、要は反射的に振り向いた。声の主は思ったよりも離れていて、要に向かって言ったわけではなさそうだ。海辺に似合わないミニドレスのスカートが風をはらんではためいている。先日部屋に忍び込んでいた死せる者だと遠目にもわかった。
「――蘭子」
ローブを羽織った女と言い争いをしているみたいだが、風向きが変わったのか、その後の声はまるで聞こえなくなった。
女が崩れるように倒れ、要は思わず駆け寄る態勢になった。だが、当然ながら離れている要よりも目の前にいる蘭子の動きの方がはるかに早かった。
蘭子は要に気付いていないらしい。こちらに顔を向けることなく、ぐったりとしている女を抱えて去っていった。
蘭子が人を抱えているのを見かけるのは二度目だ。見覚えのある光景に、はたと気付く。
今のは、あの時の女だ。秋に海で溺れていた女だ。助かったのか。
いや、違う。蘭子と共にいるということは、あの女も死せる者となったのだ。
見ず知らずの人とはいえ、軽くないショックを受ける。生ける者である要としては、やはり人が亡くなるというのは心が沈む。
そういえば、祖父は死せる者になる間もなくいなくなった。命が尽きて、必ずしもみな死せる者になるわけではない。死せる者を経ずに還りし者となる人の方が多いくらいだ。死せる者も四十九日で還りし者となる。
「あれ?」
思わず声が出た。
あの女、とっくに四十九日を過ぎてやしないか? 正確な日付を覚えているわけではないが、季節は秋から冬へと移り変わっている。
寒さのせいとは別の冷えたものが腹の奥に広がる。
あの女もまた、蘭子と同じ終わりなき死せる者なのだろうか。
蘭子という前例があるのだから、今後も同じような者が現れないとは限らないし、既に他にも存在しているのかもしれない。『ヒガン考』には蘭子の例しか記されていなかったけれど、祖父が知らなかっただけという可能性も充分にある。
ただ、要も蘭子の他に死ねない死者を見たことがない。飢えた獣然とした死せる者とは一見しただけで違うから、視ればすぐにわかるはずだ。
還りし者になれない死せる者が生まれる要因とはなんなのだろう。祖父と蘭子に交流があったのなら、そのことについて考察していないはずがない。
要は砂に取られて思うように進まない足を懸命に運んだ。
「あった」
帰宅するなりコートも脱がぬまま『ヒガン考』のページをめくり、該当箇所を見つけた。
表紙をめくるとまず、凡例とも用語説明ともつかないページがある。
祖父から直接聞いた話も多いはずの『ヒガン考』を改めて読み直すことはないと思い、流し読みをしただけだった。ましてや、こんな基本的な項目をわざわざ目を通そうなどとは思いもしなかった。
知っていると思っていることこそ見落としがある。知らないことは情報を得ようとするが、知っているつもりになっていると更に得るべき情報があるとは気付きにくい。そんなことを痛感した。
コン:魂魄の魂。精神を支える気。
ハク:魂魄の魄。肉体を支える気。
シガン:此岸。生ける者の世。
ヒガン:彼岸。死せる者の世。
生ける者:生者。
還りし者:死者のうち、寿命、病などにてハクを失い、コンのみの存在。四十九日の後、輪廻転生の環に還る。
断滅:コンもハクも失い、輪廻転生から解脱した者。
死せる者:死者のうち、事故死または自死した者。本来定められていたハクの存在期間の余剰があるため、コンと共にハクも残っている状態。ハクがあるため、可視者にはその姿を認めることができる。四十九日の後に、還りし者同様、輪廻転生の環に還る。
「死せる者って……僕が見ていた者って……」
死せる者と還りし者の違いに明確な分類はないのだと思っていた。死後も姿が残るのも残らないのも偶発的なものなのだと思っていた。いや、深く考えたことさえなかった。
残された肉体寿命を使い切るための姿だったのだ。もっと生きられるはずだった人たちの姿だったのだ。
ならば、狩りをするのはなぜだ。生への執着なのか。ああ、そうか。肉体が、ハクが欲しているのだ。生きた肉体への未練なのだろう。
待てよ。それでも死因にかかわらず四十九日で輪廻転生に組み込まれるのは同じはずだ。それなのに途方もなく長い歳月を死せる者として存在する条件はなんなのだ?
要は『ヒガン考』のページを繰り、その条件を知る。
生ける者を狩る際に血気を摂取しすぎると、その生ける者は死せる者となる。血気とはすなわち寿命。命をいただくわけだ。余命をすべて摂取されてしまえば、その獲物はシガンでの生存期間を使い切ったことになり、ヒガンの住人となる。
そしてここからは非常に確率の低いケースになる。
死せる者は生ける者しか狩らない。しかし、命が尽きたばかりの者は生の残り香をまとっているため、まれに死せる者に襲われることがあるという。死せる者となったはずなのに血気を奪われたら、次の生に繋ぐべきコンが不足する。それは永遠に死せる者として居続けるしかなくなるということ。
祖父によれば、それが蘭子だという。
――兄さま。
要の記憶が蘇る。前の世の。
――兄さま。
西洋人形のように愛らしい、僕の妹……蘭子。
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