死ねない死者は夜に生きる

霜月透子

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サキは激しく動揺する

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 サキは走った。今しがた飛び出してきたあのマンションから、少しでも遠く離れたかった。

 匂いにつられ、本能のままに狩りを行った。獲物の味が口腔内に残る。
 あの、マンションの五階の部屋での出来事が、身体中を駆け巡る。

 どうしよう。どうしよう。飲み込んでしまった。あの人の、血を。肉を。命の一部を。

 これが獲物であれば満たされただろう。いや、獲物には違いない。食欲をそそる獲物だったはずなのだ。生ける者であった頃のことは忘れたはずではなかったのか。

 ――忘却って、私たちに残された貴重な能力だと思うのよね。

 いつぞやランコが呟いた言葉が脳裏に響く。消えたはずの記憶が甦るとは。

 匂いだ。あの、匂いのせいだ。
 嗅覚は脳に直接働きかけるという。しかしだ。死せる者の脳は生ける者のそれと同様に機能しているのだろうか。ヒガンではシガンのような研究が行われているとは到底思えないから、それを知ることは不可能だろう。死してなお思考できるということは、生前の機能が甦っていると仮定してもよいのかもしれない。

 死せる者について考えを巡らせると、いつも混沌に溺れてしまう。生と死の境界が曖昧になる。棲む世界が異なること以外にどんな差があるというのだろう。鋭敏な感覚と、高い身体能力を得た代わりに、失うのは記憶と感情のはず。それがどうだ。私は今、その記憶と感情が再び息づいてくるのを感じている。まさに死の淵から死せる者として甦った肉体のように。

 サキは、ランコとはぐれたコンビニ脇の路地で足を止めた。街灯は先ほどと変わらずチカチカと点滅を繰り返している。

 ヒガンに来てから一度も体験したことのない身体感覚が襲い来る。サキは道端に膝をつき、身をかがめた。咆哮のような声が出た。しかし出るのは声だけで、体内に取り込んだ血肉は排出される気配すらない。それでもなお、存在が判然としない内臓のすべてが蠕動運動を繰り返している気がしてならない。

 なかったことにできないのなら、この甦った記憶と感情を早急に奪ってほしかった。

 終わらせよう。死せる者としてあるのを終わらせ、還りし者となろう。

 海へ向かう。浜でローブを脱ぎ捨て、月の光を浴びる。力が蒸発するように失われていくのを感じる。

「なにをしてるんだ!」

 怒鳴り声と同時に頭から黒いものを被せられた。闇に包まれる。捨てたはずのローブだ。

 ランコの姿が視界に入った。サキはランコの小さな体に抱き着いた。湿度と温度のない肌が触れ合い、カサカサとこわばった音を立てた。

「お願い……もう死なせて……」

 サキの懇願に、ランコは首を横に振った。

「もう、死んでいるじゃないか」
「そうじゃなくて。このまま死せる者でいるなんて無理。終わりにしたいの」
「まだヒガンに来たばかりじゃないか。そのうち慣れる」
「慣れないわ。慣れるどころか、戻っていくわ。だって、だって! 失われたはずの記憶が甦ったのよ!」

 サキは、ヒガンでの恋人を襲ってしまったことを話すしかなかったが、口を開くと言葉を発するよりも先に嗚咽が漏れた。

 ランコは説明を求めるでもなく慰めるでもなく無表情を貫いている。思えば、ランコの表情が変化するところを見たことがない。死せる者の特徴のひとつなのかもしれない。だが、もはやそのようなことはサキには関係ない。

 再度ローブを脱ごうとしたところを、ランコに抑えられる。サキが逆らえないほどの強い力だった。

 ランコは言う。

「――無駄だ」

 ランコを振りほどこうなんて無駄だということだろうか。

「そんなことない!」

 叫んでもがくサキを、ランコはさらに強く拘束した。

「そういうことじゃない!」

「じゃあ、どういう……」

 ランコは初めて苦しそうな表情を見せた。絞り出すようなひび割れた呻き声を発したのち、意を決したらしく、人形みたいな大きな瞳がサキの視線を真っ直ぐに捉えた。

「なれないんだ……サキは、還りし者にはなれない! どれだけ時が経とうとも、永遠に死せる者のままなんだ!」

 その理由を聞く前に、サキは崩れ落ちた。
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