夏の扉が開かない

穂祥 舞

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1 7月上旬

長い人生、気を散らしてなんぼ①

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 詰んだ、と泰生は昨日の音楽練習場での出来事を思い返しては悔やんでいた。
 初めて弾かせてもらった楽器につい夢中になりかけていると、管弦楽団の2回生が現れた。彼は小林こばやしと名乗ったが、こともあろうにコントラバスパートだった。前日に楽譜を譜面台に忘れ、取りに来ると音練場の鍵が出払っていて、まあそれ自体は不審なことではないが、部屋を覗くと見知らぬ奴がチェロの先輩と微妙な距離感で並んで、空いている楽器をぶりぶりいわせていた……ということだった。
 岡本もさすがに軽く焦った様子で、泰生を体験入部者だと紹介した。小林が岡本に敬語を使うので後輩だと察した泰生は、岡本の顔をこの場で潰すのは良くないと思って、肯定しなかったが否定もしなかった。愚かな態度を取ったと今は思う。
 小林は経営学部に所属していると泰生に自己紹介した。

「今パートリーダーのミムラさんが就活で部活に来はらへんので、初心者の1回生と僕の2人で寂しく練習してるんです……そやし、今からでも入ってきてくれはったら、めちゃ嬉しいですぅ」

 刈り上げた髪にくりくりした目の小林は、そう言って泰生に抱きつかんばかりで、岡本まで苦笑していた。
 三村という4回生は、自分が抜けた後に、コントラバスパートに最上級生がいなくなることをやや憂いていると、岡本は帰り道にさりげなく説明してくる。長谷川が来てくれたらみんな嬉しいんやけどなぁ、と、泰生との別れ際に優しい捨て台詞を吐いていた。

「ではみんなレポートちゃんと出してくれたから、今日はこれで終わります」

 ゼミの担当教官の声に、泰生は我に返る。2限の終了予定の20分前で、ゼミ生たちは夏休みの宿題を与えられてうんざりする気持ちと、前期の授業がこれで終わるという嬉しさの双方を抱えている様子である。
 おつかれ、と間延びした挨拶が交わされ、学生たちが教室を出ていく。泰生も鞄を肩にかけたが、担当教官の塚﨑つかさき教授に呼び止められた。

「長谷川、ちょい待ち」
「えっ」

 泰生は初老の教授を振り返る。彼は泰生の提出したレポートの紙束を、顔の横に掲げていた。

「学籍番号入ってへんで」

 泰生は咄嗟に、すみません、と言った。この授業はレポートのデータだけでなく、プリントアウトしたものの提出も求められるので、昨夜ざっと目を通した。なのにまさか表紙からそんなミスをするとは。
 塚﨑は笑いながら、手書きしておくように泰生に求めた。

「今日は何かずっと気が散ってるみたいやな、何かあったんか?」

 そんな風に言われて、恥ずかしくなった。昨日の音楽練習場での一連の出来事は、確かに泰生の気持ちの平穏を乱していた。
 泰生はボールペンを取り出して、レポートの表紙に印刷された自分の名前の上に、学籍番号を書き込む。


 
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