夏の扉が開かない

穂祥 舞

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1 7月上旬

松脂ぱちぱち②

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 岡本はヴァイオリンやヴィオラのケースの間を縫って、自分の楽器を目指した。ついて来いと言わんばかりに目配せしてくるので、泰生は恐る恐る足を踏み入れる。
 自分のチェロを抱えながら、岡本は眉を上げて見せた。

「それ、一番隅っこのコントラバスが今誰も触ってへんねん、弾いてみそ」

 そう言われることを覚悟していた泰生だが、簡単に首を縦に振るわけにはいかない。

「いや、部員でない人間に簡単に言うな」
「だからお試しやん、楽器の扱い方知ってるんやし初心者の1回生よりはずっと信用してる」

 泰生ははっきり言った。

「触ったら入部せなあかんやろ?」
「は? そんなこと俺言うた?」

 すっとぼける岡本が、ちょっと憎たらしい。泰生はむっとして、ソフトケースに入った大きな楽器に近づいた。ネックをそっと持ち上げ、ボディを立てると、既にその存在感が懐かしかった。
 他の楽器に当たらないよう慎重に運び、楽器庫の外に出ると、岡本はとっとと自分の楽器をケースから出して、弾く準備をしていた。泰生の口調がつい尖る。

「俺、松脂もクロスも何も持ってないんですけど!」
「ヤニも布も貸しますやん」

 へらっと言う岡本に、泰生は呆れた。

「チェロの松脂使ってええんか」
「好ましくはないけど、大丈夫……ちょっとやらかいかな」

 もう、1音でも出さないと帰してもらえそうにない。泰生は諦めて弓と楽器をカバーから出した。しばらく弾かれていない割には、弓がぴんと張り、状態は悪くなかった。
 楽器を立てて抱えながら、岡本から手渡された松脂を、弓に3往復擦りつける。初めての楽器なので、全ての行動に緊張した。
 岡本は椅子に座り、楽器を脚の間に立てて、マイペースに音出しを始めた。まろい豊かな音が室内を満たし、チェロってええ音やなぁと素直に思う。
 じっと観察されるよりはましなので、泰生はどさくさに紛れて自分も弓を弦に当てた。それをすっと引くと、思ったより深い音が出たので驚く。
 この楽器、もしかして上等なんか? 泰生はびびってしまう。まぐれかと思い、解放弦で全ての音を順番に鳴らしてみたが、やはり良い音である。
 岡本は泰生に話しかけもせず、アルペジオの練習を始めた。正確なボーイングで明るい音が繰り出され、弦と弓の間で松脂が擦れる音が微かにした。
 軽いぱちぱちだ。泰生は思う。松脂を塗った弓と弦の間で音が生まれる瞬間に、いつもぱちぱちと何かが弾ける感じがする。松脂が立てる音なのかもしれないし、弦と弓の間で起こる物理的な抵抗に、そんな印象を持っているのかもしれない。
 チェロのぱちぱちは、やっぱりコントラバスより軽い。その発見に気を良くした泰生は、自分もぱちぱちを沢山生み出すべく、アルペジオを弾いてみる。いつもより強い抵抗感に、松脂をつけ過ぎたかもしれないと感じたが、やはり音は前弾いていた楽器よりも深い。
 気持ちいいな。泰生が弓を動かすのに集中し始めたその時、練習場の扉が開いたのが見えた。泰生はどきっとする。
 岡本も驚いたとみえ、音が同時に止まった。2人が視線をやったその先には、ひょろっと背が高い男子が立っていた。
 あっ、と岡本が呟いたのが聞こえた。入り口に立つ男子は、その場から泰生をじっと見つめて、あ然としたまま、ぱちぱちと手を叩いた。
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