夏の扉が開かない

穂祥 舞

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1 7月上旬

蚊が飛ぶ教室にて②

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 その時、右耳の傍でぷうん、と嫌な音がした。泰生は首を右に振り向け、後頭部の辺りから黒い小さなものがふわっと飛んだのを確認した。

「蚊がおるわ、そっち行ったで……あっ」

 泰生が岡本のほうを向くと、蚊はサンドウィッチを持つ岡本の手の甲に止まろうとしていた。反射的に泰生は腕を伸ばし、岡本の右手を叩く。ぺちっと軽い音がしたのと、ひえっと岡本が叫んだのがほぼ同時だった。

「怖いって!」
「ごめん、思いきりしばいた」

 岡本は辛うじてサンドウィッチを取り落とさず堪えていた。泰生の攻撃を逃れた細い足を持つ虫は、今度はこちらに向かって飛んでくる。泰生は蚊を視界から外さないよう、その姿に集中した。

「ちょ、真剣過ぎひんか」

 岡本が言い終わらないうちに、泰生は飛来してきたものを両手で思いきり挟んだ。ぱん! と高い音が鳴り、教室の中にいた他の学生が一斉にこちらを見た。
 泰生が合わせた手を開くと、蚊は右手の手根部でぺったんこになっていた。誰の血も吸っていない。よっしゃ、と満足感から思わず呟くと、岡本がぷっと笑った。

「集中力と反応すごいな、何かスポーツしてたん?」

 泰生は購買部でもらった紙ナプキンで、蚊の死骸を拭き取った。こんなことで持ち上げられると、照れくさいというか、ほとんど居たたまれない。

「ううん、俺は運動音痴……最近まで楽器やってたけど」
「楽器?」

 岡本はサンドウィッチを頬張りながら、明らかに興味を示してきた。うっかり口にしてしまったものの、楽器の話はあまりしたくないので、泰生はうどんを啜ってごまかそうとした。自分が麺をずるずる言わせる音だけがして、微妙に気まずい。

「……何?」
「え? 何やってたんかなぁと思ってる……」

 岡本の探るような視線に、まあ当たり前か、とも思う。楽器に触っている人間の割合なんて、この大学の中で、いや、日本社会全体を見てもそんなに多くはない。音楽に興味が無くても、楽器をやっていると相手が口にすれば、何をやっているんですかと社交辞令的に問うだろう。

「あー、吹部でコントラバス弾いてた」

 泰生がそう答えて、空になったプラスチックの容器を机に置いた時、岡本がにたりと笑ったような気がした。ちらっと目だけで彼を窺うと、ペットボトルの紅茶をぐびぐび飲んで、何となくニヤついている。
 キモいなと泰生が思った時、岡本は口を開いた。

「キャンパス変わったから吹部辞めたっちゅうこと?」
「……そうや、移動すんのしんどかったし」

 泰生が警戒しつつ言うと、ははーん、と岡本はよくわからない声を上げてから、晴れやかな笑顔になって泰生を見た。

「あのな、俺チェロ弾きなんやけど」
「は?」
「オケで弾かへん? 練習すぐそこでやってんで」

 岡本の言葉に泰生は固まった。その時感じたものは、絶望に近かった。
 楽器やってる人間、近いとこにおった。しかも俺と同じく、デカい弦楽器。……これ、詰むやつか。
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