遠くて近い世界で

司書Y

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Internally Flawless

幕間 ある朝の出来事 1

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 ◆冬生◆

 すごくいい匂いがする。

 目覚めて一番に思ったのはそんなことだった。いや、完全に目覚めたわけではない。ゆったりとした、心地いいまどろみの中で、鼻腔をくすぐるいい匂いに、これは夢なのだと思う。

 バターで玉子を焼くにおい。
 コンソメの玉ねぎたっぷりのスープのにおい。
 トーストの焼けるにおい。
 それから、コーヒーのにおい。

 次第に頭が覚醒してくる。でも、その夢は覚めることがなかった。

 目を開けると、もちろん。そこは自分の部屋だった。ユキは気に入ったものはたとえ壊れて使えなくなっても捨てられない。だから、掃除はしているし、汚いというほどでもないけれど、物がたくさん溢れて、雑然とした部屋だ。

 昨夜は兄と喧嘩、と言うよりも一方的に怒って口もきかずに部屋に籠った。
 機嫌最悪のお姫様のお相手を散々させられて疲れ切っているところに、兄の明らかにご機嫌な顔を見て、ついキレてしまった。けれど、それは仕方ないことだと、ユキは思う。すぐに分かるくらいに兄の表情は明るかった。表情を隠すのには長けた兄のことだ、他の人にはわからないかもしれない。けれど、ユキにはわかる。兄が愛しい人に会ってきただろうこと。しかも、多分、その人が兄を受け入れたのだと言うこと。

 ユキには分かっている。この苛立ちはただの嫉妬だ。ユキは兄が羨ましくてならないのだ。それは、ユキ自身も認めている。
 スイはおそらく、いや、間違いなく、ユキが望めば、受け入れてくれると思う。今みたいに大変な時でも、抱きたいと言えば、笑顔で『いいよ』と、言ってくれる。もしかしたら、喜んでくれさえするかもしれない。でも、それをしないのはスイのせいでも、兄のせいでもない。踏み出せないのは自分の方だとユキは自覚している。
 けれど、いや。だから、兄が羨ましい。
 全部かなぐり捨てて、その人がほしいと言える兄が羨ましい。

 そんなことを考えてから、ユキははっとした。
 夢だと思っていた匂いが消えていない。しかも、今兄は仕事中だ。いるはずがない。

 慌てて上着を羽織って事務所に出ると、リビングへのドアが少しだけ開いていた。匂いはそこから漏れてくる。
 まさかと思って、リビングへの扉を開けると、そこにスイいた。
 いつもの特別製のヘッドホンを付けて、いつもするように彼は料理をしていた。ユキには気付いていないようで、僅かに鼻歌を歌っている。

 あれ? まだ、夢見てんのかな?

 ユキは思う。
 スイの表情は柔らかい。少し微笑んでいるように見える。でも、昨夜兄と会っていたからなのか、すごく綺麗で。切なくなる。
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