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第五章 覚醒める拳士
第十三節 攻 防
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「……もう一度、訊く」
雅人と桃城との間には、数メートルの空間があった。
空手や総合格闘技の試合よりも、二人の距離は離れていた。
あれでは、ヘヴィ級ボクサーでも、相手を射程に捉えるには一歩踏み出す事が必要になる。
「貴様は一体、何の目的で、会長に用があるんだ」
二人とも、構えは採っていなかった。両脚を自然に開き、両手を自然に垂らしている。互いの間合いに入っていないのだから自然体も変ではないように思われるが、それにしては二人の間には、ひりひりとする空気が流れていた。
「金か? 渋江杏子に、幾ら積まれた。若し、お前が望むのなら、それ以上の札束をトランクに詰めてくれてやっても良い」
「お前さん、本気でそんな事を言っているのかい」
雅人は鼻で笑った。
「言ったろ、俺は女を虐める奴を放って置けない性質なんだ」
「それだけか」
「俺は俺より強い奴と戦いたい――とも、言った筈だぜ」
「何の為に?」
「強くなりたい……」
雅人は、数分も経たない内に、同じ空間にいる少年と同じ言葉を、その口から吐き出した。
「それ以上の理由が必要なのか」
「――やはり、話しても無駄なようだ」
桃城達也は、じろりと雅人の全身を見据えた。時でもない時に向けられれば、それだけで小便を漏らしてしまいそうな、冷たい眼付きだった。視線が刃物となって、お腹に潜り込むようだ。
「お前のその軽口を黙らせるには、拳を口の中に放り込んでやるしかないみたいだな」
そう言うと桃城は、左足から踏み出して行った。
歩くように足を出すと、刹那、右の手が嚆矢のように奔った。
桃城の右手は、二本貫手――人差し指と中指を揃えて突き出す形――をしており、眼にも止まらぬ速さで雅人の咽喉元目掛けて繰り出された。
雅人はこれを、左手で弾いた。
弾きざまに、雅人の右拳が唸りを上げて、桃城の胴体に喰い込んでゆく。
しかし桃城にとっても、二本貫手はブラフであった。
突き出した右手の陰から、右脚がぽーんと跳ね上がって、雅人のこめかみを狙っている。
雅人は頭を斜め前に下げて、桃城の蹴りを回避しながら、パンチの勢いを加えて、跳んだ。
雅人の巨体が空気を巻き込みながら、斜め方向に回転する。
この時、雅人の丸太のような右脚が空中を翻り、踵が桃城の頭上に落とされる所であった。
桃城は脚を引き戻しながら左側に回転し、雅人の身体をやり過ごす。
雅人は雅人で、両手を地面に突いて倒立し、前転をして立ち上がりながら振り向いた。
立ち位置が入れ替わっている。
「狡いなぁ、拳でやるんじゃなかったのか」
「お前も、図体ばかりではないのだな、驚いた」
二人は言い合うと、今度は構えた。
雅人は左を前にした半身になり、右手を引いて顎の前で拳を作った。相手に向けて突き出した左手は、手刀を作っている。
桃城は右足を前に出していた。ゆるりと両手を胸の高さまで持ち上げ、手首から先を幽霊のように脱力させている。
「――うしゅっ」
桃城の唇が尖り、鋭い息を吐いた。それと共に垂らした右腕は蛇のようにしなって、雅人の顔を狙った。
雅人は左手で払った。だがすぐに、桃城の左手が同じように蛇の軌道を描いた。
ぱちん、と、激しい音がした。
雅人の掌に、桃城の眼打ちが炸裂したのだ。
眼打ちは少林寺拳法の護身技の内、簡単な技の一つである。指先まで脱力した手を、手首のスナップで相手の急所に叩き付ける事で、相手の意識を逸らす牽制技だ。
護身教室などでは、女性でも簡単に使え、実際に不審者に近付かれた時には眼を打って怯ませている間にその場を全力で逃げるような教え方がされる。
だが雅人が感じた掌の痺れからすると、桃城の眼打ちは護身用ではない。牽制技ではあるのだが、眼球を直撃すればそれ一発で失明や眼底骨折の危険を感じさせた。
桃城達也は手首だけでなく、肘、肩、腕の関節全てを使用して、二の腕を鞭のようにしならせ、雅人の全身を狙った。
眼。
耳。
鼻。
口。
歯。
顎。
咽喉。
頸。
鎖骨。
肋骨。
金的。
空気を無数の蛇が切り裂き、肉の裂ける音がこだまする。
だが、腕を素早く動かしているのは桃城達也ばかりではない。明石雅人もその掌で空間を撫で回していた。桃城の鉄の如き指鞭を全て、雅人の硬質ゴムタイヤのような掌が払っているのだ。
いずみには、二人がどのような攻防をしているのか分からない。ただ、その場で立ち止まって滅茶苦茶に両手を振り回し合っているようにしか見えなかった。その手と手がぶつかり合う音を聞く事は出来ても、目視する事は能わない。
治郎でさえ、腫れ上がった瞼の下の狭い視界に、指と掌が激突して減速する一瞬をどうにか捉える事が精いっぱいであった。
速い――
余りにも速い攻防だった。
だのに桃城も雅人も、平気な顔で手を繰り出し合っている。雅人に関しては笑みさえ浮かべていた。
突然、桃城が下がった。
雅人が前に踏み込んでゆく。
桃城の右足が、左側から右へ向かって円を描いて繰り出される。
勇み足気味に前に出た雅人は、スウェーバックで躱すものの、その顎に風圧が裂け目を入れる。
桃城の足は雅人の肩の角度で翻り、爪先で左の鎖骨の窪みを貫こうと落下した。
雅人は両腕を交差して、振り下ろされる桃城の足首を受け止めた。十字受けだ。
雅人の右脇腹が、がら空きになった。
桃城は雅人に受けられた蹴り足を軸に、左足を宙に浮かせ、爪先を脇腹にねじ込んでゆく。
雅人と桃城との間には、数メートルの空間があった。
空手や総合格闘技の試合よりも、二人の距離は離れていた。
あれでは、ヘヴィ級ボクサーでも、相手を射程に捉えるには一歩踏み出す事が必要になる。
「貴様は一体、何の目的で、会長に用があるんだ」
二人とも、構えは採っていなかった。両脚を自然に開き、両手を自然に垂らしている。互いの間合いに入っていないのだから自然体も変ではないように思われるが、それにしては二人の間には、ひりひりとする空気が流れていた。
「金か? 渋江杏子に、幾ら積まれた。若し、お前が望むのなら、それ以上の札束をトランクに詰めてくれてやっても良い」
「お前さん、本気でそんな事を言っているのかい」
雅人は鼻で笑った。
「言ったろ、俺は女を虐める奴を放って置けない性質なんだ」
「それだけか」
「俺は俺より強い奴と戦いたい――とも、言った筈だぜ」
「何の為に?」
「強くなりたい……」
雅人は、数分も経たない内に、同じ空間にいる少年と同じ言葉を、その口から吐き出した。
「それ以上の理由が必要なのか」
「――やはり、話しても無駄なようだ」
桃城達也は、じろりと雅人の全身を見据えた。時でもない時に向けられれば、それだけで小便を漏らしてしまいそうな、冷たい眼付きだった。視線が刃物となって、お腹に潜り込むようだ。
「お前のその軽口を黙らせるには、拳を口の中に放り込んでやるしかないみたいだな」
そう言うと桃城は、左足から踏み出して行った。
歩くように足を出すと、刹那、右の手が嚆矢のように奔った。
桃城の右手は、二本貫手――人差し指と中指を揃えて突き出す形――をしており、眼にも止まらぬ速さで雅人の咽喉元目掛けて繰り出された。
雅人はこれを、左手で弾いた。
弾きざまに、雅人の右拳が唸りを上げて、桃城の胴体に喰い込んでゆく。
しかし桃城にとっても、二本貫手はブラフであった。
突き出した右手の陰から、右脚がぽーんと跳ね上がって、雅人のこめかみを狙っている。
雅人は頭を斜め前に下げて、桃城の蹴りを回避しながら、パンチの勢いを加えて、跳んだ。
雅人の巨体が空気を巻き込みながら、斜め方向に回転する。
この時、雅人の丸太のような右脚が空中を翻り、踵が桃城の頭上に落とされる所であった。
桃城は脚を引き戻しながら左側に回転し、雅人の身体をやり過ごす。
雅人は雅人で、両手を地面に突いて倒立し、前転をして立ち上がりながら振り向いた。
立ち位置が入れ替わっている。
「狡いなぁ、拳でやるんじゃなかったのか」
「お前も、図体ばかりではないのだな、驚いた」
二人は言い合うと、今度は構えた。
雅人は左を前にした半身になり、右手を引いて顎の前で拳を作った。相手に向けて突き出した左手は、手刀を作っている。
桃城は右足を前に出していた。ゆるりと両手を胸の高さまで持ち上げ、手首から先を幽霊のように脱力させている。
「――うしゅっ」
桃城の唇が尖り、鋭い息を吐いた。それと共に垂らした右腕は蛇のようにしなって、雅人の顔を狙った。
雅人は左手で払った。だがすぐに、桃城の左手が同じように蛇の軌道を描いた。
ぱちん、と、激しい音がした。
雅人の掌に、桃城の眼打ちが炸裂したのだ。
眼打ちは少林寺拳法の護身技の内、簡単な技の一つである。指先まで脱力した手を、手首のスナップで相手の急所に叩き付ける事で、相手の意識を逸らす牽制技だ。
護身教室などでは、女性でも簡単に使え、実際に不審者に近付かれた時には眼を打って怯ませている間にその場を全力で逃げるような教え方がされる。
だが雅人が感じた掌の痺れからすると、桃城の眼打ちは護身用ではない。牽制技ではあるのだが、眼球を直撃すればそれ一発で失明や眼底骨折の危険を感じさせた。
桃城達也は手首だけでなく、肘、肩、腕の関節全てを使用して、二の腕を鞭のようにしならせ、雅人の全身を狙った。
眼。
耳。
鼻。
口。
歯。
顎。
咽喉。
頸。
鎖骨。
肋骨。
金的。
空気を無数の蛇が切り裂き、肉の裂ける音がこだまする。
だが、腕を素早く動かしているのは桃城達也ばかりではない。明石雅人もその掌で空間を撫で回していた。桃城の鉄の如き指鞭を全て、雅人の硬質ゴムタイヤのような掌が払っているのだ。
いずみには、二人がどのような攻防をしているのか分からない。ただ、その場で立ち止まって滅茶苦茶に両手を振り回し合っているようにしか見えなかった。その手と手がぶつかり合う音を聞く事は出来ても、目視する事は能わない。
治郎でさえ、腫れ上がった瞼の下の狭い視界に、指と掌が激突して減速する一瞬をどうにか捉える事が精いっぱいであった。
速い――
余りにも速い攻防だった。
だのに桃城も雅人も、平気な顔で手を繰り出し合っている。雅人に関しては笑みさえ浮かべていた。
突然、桃城が下がった。
雅人が前に踏み込んでゆく。
桃城の右足が、左側から右へ向かって円を描いて繰り出される。
勇み足気味に前に出た雅人は、スウェーバックで躱すものの、その顎に風圧が裂け目を入れる。
桃城の足は雅人の肩の角度で翻り、爪先で左の鎖骨の窪みを貫こうと落下した。
雅人は両腕を交差して、振り下ろされる桃城の足首を受け止めた。十字受けだ。
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