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20.それはまるで遅れてきた春のようで
しおりを挟むかたかたと、キーボードを叩く音だけが部屋の中に響く。
休日のスタイルなのか、画面を覗く庭野は眼鏡姿だ。普段はセットされている前髪を無造作に散らし、眼鏡越しに真剣にパソコンとにらめっこしている。
邪魔にならないように部屋の隅に収まりながら、丹原はそんな後輩の姿をちらりと盗み見ていた。
あれから。なんとなく庭野の様子が気になって、丹原はおかゆを作るのに使った一式を洗って片付けたり、いくつか置き去りになっていたゴミを片付けたりして過ごしていた。
庭野は慌てたが、「好きにさせるかわりに、好きにさせろって言ったよな?」と睨むと大人しくなった。
そして、資料なのか宝石図鑑やらイラスト集、果ては『ファンタジー魔物事典』などといった丹原がおよそ開いたことのない本を引っ張り出し、時折開いて眺めたりしながら、プロットづくりに取り掛かっている。
軽く胃にものを入れたからだろうか。作業にいそしむ庭野の横顔は、丹原が到着したときよりもずっとマシに見える。それどころか、同室にいる丹原のことも忘れてしまったかのように、どっぷりと創作の世界に浸りきっていて。
(ほんとに、よくやるよな)
物音を立てないように注意しながら、丹原は背後の本棚を振り返る。
片付けが終わりやることがなくなってからは、丹原は適当に本棚の本を借りて、読んで過ごしている。家主には「どれでもお好きにどうぞ」と許可を得済みだ。
物書きなだけあって、庭野の本棚は種類が豊富だ。丹原自身も小説を読むほうだが、冊数だけ見ても庭野が上だろう。それに小説だけではなくて、庭野がいま手元に置いている数冊の他にも、設定資料のために購入したと思しき本がある。
本当に書くのが好きなんだな。当たり前のことを、今更のように思う。
だってそうだろう。誰に頼まれたわけでもない。利益が保証されているわけでもない。なのにせっせと自分の時間を削って、時にはぼろぼろになってでもしがみついて。
(……いや、違うか)
そんな自己犠牲みたいな精神で、庭野は本を書いていない。
彼はただ、楽しいから夢中になっているんだろう。
「ったぁー!! できたー!」
タン、と一際強いキーボード音に次いで、庭野が天井を仰ぐ。
丹原も、膝の上の本をどけて身を乗り出した。
「プロット、完成したのか?」
「ああ、ダメダメ。見せられないよ!」
とっさに覗こうとしてしまった画面を、庭野に抱えられる。考えてみれば、これは出版社に提出するいわば企画書なのだ。いくら創作とは無関係な相手とは言え、ほいほい部外者に見せられないだろう。
悪い。瞬時にそう口走りそうになった丹原だったが、その前に庭野がにっと笑った。
「けど、期待していてください。俺、すっごい名作の予感がするんだ!」
その笑みのあまりの無邪気さに――、まるで、少年が初めてゴールを決めたかのような輝く表情に。丹原はしばし見惚れてしまった。
まるで青春だ。いや。まるで、ではなくて、本当に青い春に庭野は生きているんだろう。
(……うらやましいな)
純粋に、そう思った。
何もかもを忘れて夢中になる。そんな感覚、最後に味わったのはいつだっただろうか。
毎日寝て、起きて。目が覚めたら会社に行って、やらなければならないことをやって、時間になったら上がって。
楽しみがないわけではないけれども、代わり映えのしない毎日を代わり映えなく過ごす。ある意味それが、器用な生き方だから。
だからこそ太陽のような情熱を胸に、自分が心からしたいことに全力で打ち込む。そんな庭野の姿は眩しくて、同時にちょっぴり悔しい。自分にはないものを、まざまざと見せつけられている気分だ。
けれども一方で、なぜだかずっと見ていたい。それはまるで、忘れかけていた宝物をもう一度見つけたかのような感覚で。
(……そうか)
ふっと笑みが漏れてしまう。
「先輩?」と首を傾げる庭野に、丹原は笑って首を振った。
きっと自分も、庭野を通じて青春の影を追いかけているんだろうなと。
「いいか、庭野。ちょっと、そこになおれ」
表情を引き締めて命令すれば、庭野は大人しく背筋を伸ばす。大きな体を縮めてちょこんと正座をする姿は、健気ですらある。
途端に緊張した面持ちになった後輩に向き合って、丹原もぴしりと正座をした。
そして、先輩らしくじっと後輩の顔を見つめる。
「今回のこと。会社と小説のヤマ、急に両方ぶつかってお前も大変だったんだろうけど、社会人としてはいまいちだぞ。副業は届けさえ出せば好き勝手やっていいってものじゃない。本業に支障をきたさないこと。それが第一条件だ。もちろん体調管理も含めてな」
「……すみません」
一瞬だけ庭野は反論したそうな顔をしたが、すぐに反省したように俯いた。庭野自身、色々と詰め込みすぎた自覚はあるんだろう。
だからこそ丹原も、ふっと笑みを漏らして険しい表情を解いた。
「つまりだ。一人で抱え込むくらいなら、人を頼れ。ほかに言える奴がいないなら、俺でもいい。創作の手助けはしてやれないが、飯ぐらいなら作りに来てやる」
「え?」
「その代わり、本を出したらまたサインしてくれ」
急に照れくさくなって、余計な一言を付け足してしまう。けれども庭野は、ぽかんと呆けたままだ。
ややあって庭野はわずかに顔を赤くし、どこか目を彷徨わせながら何かを呟いた。
「やっぱり、先輩ってまさか、あっ……」
「ん? なんか言ったか?」
「――いえ。なんでもありません!」
うまく聞き取れなかったので訊ねたのだが、なぜか庭野は笑って誤魔化した。
すっかりいつもの調子に戻った庭野は、きらきらと目を輝かせる。
「さっそくですけど俺、お腹空きました。終わったら安心しちゃったのかな。なんか急にお腹ぺっこぺこ!」
「は? って、意外ともう夕方なのか。わかった。何が食べたい?」
「カレー!」
間髪入れずに答えた庭野に、丹原は苦笑した。
そういえばそうだった。庭野と言えばカレー。会社裏のカフェだろうと社員食堂だろうと、元気の源はカレーだった。
とはいえ。
「がっつり刺激物じゃないか。胃がやられるぞ」
「大丈夫だよ、お母さん。お昼のおかゆのおかげで、すっかり元気だしっ」
「誰がお母さんだ!」
そんな風に軽口を叩きあいながら、丹原は思った。
もうちょっとだけ彼の『春』を傍で見つめていたい、と。
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