拝啓、隣の作者さま

枢 呂紅

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2.推し作家の晴れやかな日

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 丹原千秋、29歳。独身。

 涼しげな眼差しにすっと通った鼻筋。清潔感のある黒髪の下に覗くのは細面であり、手足もすらりと長いモデル体型。いわゆるイケメン、それも正統派の部類であり、隙がなく、会社の信頼もひどく厚い『出来る男』。

 そんな、Mr.パーフェクトな彼が最近どハマりしているもの。

 それが、ネット小説漁りである。

(いやいやいやいや。ここにきて両片想いとか尊すぎるでしょ。なんなの。読者殺す気なの。死す? 死すの??)

 真顔で画面をタップする丹原が、内心で悶え死んでいることなど、外から見ている限りでは誰にも気付きようがない。

 ちなみに推しジャンルは異世界恋愛。兼ねてより萌え語り仲間である姉に勧められた結果、あっさり沼った。

(はーぁ。次の更新が待ちきれない……!)

 二度三度繰り返し読んで堪能してから、丹原は溢れるパッションを逃すために深く息を吐き出した。

 ちなみに近くのテーブルにいた同僚に「なんだろ、株が落ちたのかな」「いや、世の中を憂いてるんだろ」と適当な分析をされたが、丹原の耳には届かなかった。

 いま丹原が読んでいたのは現在進行形で連載中の作品だ。作者は「ポニー」さん。ネット小説を読み始めた頃に偶然見つけた人で、丹原の推し作家さんだ。

 他にもいくつか追いかけている作品があるが、やはり一番楽しみなのはポニーさんのもの。

 どれも丹原好みのむずきゅんカップルもので、職場と家を行き来するだけの毎日に潤いを与えてくれる。こまめに毎日更新してくれるのもポイントが高い。

 ポニーさんの作品を追いかけるのが、丹原の元気の源になっているといっても過言ではなかった。
 
 だから今日は、丹原にとっても特別な日だ。

 昼休みを終えて午後の就業に戻った丹原は、いつにも増してテキパキと仕事を片付ける。取引先に電話をかけ、上司に確認を行い、後輩を指導し。そうやって順調に時間は過ぎゆき、あっという間に定時となった。

(……大丈夫そうか?)

 そわそわしているのが悟られないよう注意しつつ、そっと周囲を窺う。--幸い、他にも締め作業に移っている同僚が、チラホラと見える。

 朝一でトラブルが発生した時はどうなることかとヒヤヒヤしたが、今日一日で収束の目処も立っている。あとは月曜日、約束の時間を待つばかりだ。おかげで、第一グループに流れる雰囲気は、普段通りの平穏なものだ。

 イケる。帰れる。そう確信した彼は、あくまで涼しい表情で画面を切り、手早く荷物をまとめて立ち上がった。

「お先に失礼します」

「おう。今日はありがとな。お疲れさん」

 さらりと挨拶すれば、部長もひらりと手を振ってくれる。

 丹原を止める者はいない。丹原の仕事が順調であることは今更確認するまでもないことだし、ここで誰かに呼び止められることがないように、今日はいろいろと前倒しに調整して仕事を済ませてきたのだ。

 そうして彼は、目論見どおり会社を脱出した。

 駅前の本屋へと急ぎながらSNSを開く。

 目当ての相手は、やはり投稿していた。

『仕事終わったので本屋さん巡りします! ドキドキする~!』

 投稿したアカウント名は「ポニー」。丹原一推しのネット作家さんのSNSアカウントだ。デフォルメされた馬のアイコンを見た途端、丹原の頬も緩んでしまう。

 流れるように「いいね」を押してから、丹原はうきうきと駅ビルの中へ急いだ。

 今日は記念すべきポニーさんの作品の発売日。連載開始から応援してきた『転生聖女さまの恋わずらい』が、めでたく書籍化を果たしたのだ。

「あの。ネットで予約をしたものですが」

「お名前よろしいですか?」

 スマートフォンを握りしめてカウンターに声をかければ、お姉さんがにこやかに案内してくれる。

 もちろんここでも抜かりはない。予約をしたのは確実に本を手に入れるためというのと、予約で書籍を取り寄せた方が作者の応援に繋がると小耳に挟んだためだ。

(ポニーさんの書籍デビュー、ファンとして最大限に盛り上げなければならないからな!)

 誰に宣言するでもなく、丹原はぐっと手を握りしめる。

 その間に、お姉さんが目当てのものを持ってきてくれた。

「お待たせいたしました。カバーはおつけしますか?」

「っ、いえ。大丈夫です」

 受け取った重みにむずむずと感動が駆け巡った。

 指に馴染むさらりとした質感。デザインの関係で、ところどころキラキラ輝いている。

 表紙に描かれているのは、イメージぴったりの主人公とヒーロー。予約サイトやSNS告知でも目にしていたが、実際に手にすると喜びもひとしおだ。

 そして、作者名として印字された「ポニー」。

 見知った名前がとても誇らしげに見えた。

(あ、あ、あ……っ。おめでとうございます……!)
 
 感極まって、思わず本を抱き締める。

 作者の顔も知らないくせに大袈裟なと思うかもしれない。けれども侮ることなかれ。毎日毎日、今のように人気になる前からずっと、丹原はこの作品を応援してきたのだ。

 例えるなら、気分は近所のおじさんだ。いつも家の前で遊んでいた近所の子供が、いつのまにか小学生になっていたような。ランドセルを背負う立派な背中に、勝手にうるうるしているかのような。

 ああ。はやく戦利品を開き、あますことなく本の世界に浸りたい。その一心で、顔がにやけてしまう。

(帰ったらまずはざっと一周。それからゆっくりと。ああ。けど、先に書き下ろし部分に手をつけるのも捨てがたい……!)

 お姉さんにお礼を言いつつ、踵を返す。

 ポニーさんのSNSによれば、書籍化にあたって書き下ろした短編も収録されているはずだ。それと書籍購入特典としてショートストーリーも封入されている。

 幸い今日は金曜日。土日と休みなので、堪能する時間はたんまりある。

 楽しい時間に想いを馳せ、丹原は家路を急ごうとした。

 ――が。

(……なんだ?)

 耳に飛び込んできた喧騒に、思わず足を止めてしまう。

「一枚でいいんです。写真、撮らせてもらえませんか?」

「えっと……?」

 必死に頼み込む若い男と、そんな客に戸惑う女の店員。

 変質者だろうか。だとしたら警備員を呼ぶべきか。一瞬、そんな風に警戒したが、客が写真を撮りたがっているのは店員ではなく本棚であるらしい。

「どういった理由でしょうか?」

 やはり「はい、どうぞ」というわけにはいかないのだろう。店員が訝しげに尋ねる。

 すると客の男は言いづらそうに目を泳がせた。

「うまく言えないんですけど、記念……?」

「はい?」

 いよいよ店員が首を傾げる。

 丹原まで眉根を寄せたその時、ふと彼は気づいた。

 すらりとした細身のスーツ姿。会社員にしては明るい、柔らかそうな髪。横から見てもわかる人懐っこい顔。

「…………庭野?」

 考えるより先に、ぽろっと口からこぼれてしまう。声が聞こえたのだろう。相手もぱちくりとこちらを見て、丹原を見つけると目を丸くした。

「丹原先輩!? こんなところで何を……?」

 同じ部署の後輩、庭野拓馬。丹原と同じく会社帰りと思しき彼の目が、吸い寄せられるように一点に留まる。

 庭野の視線が丹原の手に向けられていることに気づくと、丹原は文字通りひゅっと声にならない悲鳴を上げた。

(ポニーさんの本、手に持ったままだったー!)

 重ねていうが『転生聖女さまの恋わずらい』のジャンルは異世界恋愛。表紙にはキラキラと輝くヒロイン・ヒーローが描かれている。

 ファンとしては誇らしく胸に掲げて生きていきたいが、アラサーサラリーマンが手に持つには少し照れる。しかも同じ部署の、それも後輩に見られるのはちときまずい。

「こ、これはだな! その!」

 別に聞かれたわけでもないのに、勝手に言い訳が飛び出そうになる。

 けれどもその前に、なぜか足早に庭野がこちらに向かってくる。

 そして、とっさに本を隠そうとした丹原の手を、ぱしりと庭野の手が掴んだ。

「お買い上げありがとうございます!!」

「は?」

「俺……その本の作者なんです!!!!」

「…………は?」

 感極まったようにきらきらと輝く純真な瞳が、まっすぐにこちらを見つめている。

「はあ!?」

 冗談を言っているわけではなさそうな後輩の眼差しに、丹原は改めて叫んだのであった。
 
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