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第10話 冷徹なエリート上司の変化

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 夕方。

 オフィスの空気が、少しずつ変わり始める時間帯。

 日中の喧騒が落ち着き、窓の外では夕日が高層ビルの間に沈みかけている。オレンジ色の光が窓際のデスクに差し込み、書類の影を長く伸ばしていた。コピー機の低い駆動音が時折響き、タイピングのリズムが一定のテンポで刻まれる。

 社員たちはそれぞれの業務を終え、片付けを始める者、明日の準備をする者、コーヒー片手に一息つく者など様々だ。

 九条課長が一時的に席を外していることもあってか、どことなく弛緩した空気が漂っている。

 私もデスクに残り、残務処理を進めながら、時折課長のことを考えてしまう。

 ――九条玲司。

 直属の上司であり、課長。

 日中はデスクに座り、まっすぐな姿勢のまま書類に目を通していた。アイロンの効いたシャツ、ネクタイの結び目も完璧で、スーツはシワひとつない。ボールペンを持つ指の動きは滑らかで、几帳面な字が白い紙の上に次々と並んでいく。

 その姿を見ただけで気が引き締まってしまうのは、もはや条件反射だと言っていいだろう。

 九条課長は、いつも冷静沈着。無駄な言葉を嫌い、必要なことだけを簡潔に伝える。

 ――そんな彼の仕事のスタイルは、変わらないはずだった。

 けれど。

 今日の彼は、どこか違って見えた。

 例えば、部下の報告に耳を傾けるとき。

「なるほど。順調のようだな」

 軽く頷く。

 例えば、提案された資料の改善点を指摘するとき。

「次回はもう少し具体的なデータを加えるといい」

 言い方が、いつもより柔らかい。

 ……なんだろう、この違和感。

 これまでの彼なら、もっと端的に「了解した」「データ不足だ。あとで補足しておくように」とでも言っていたはず。それが、今日は。

 言葉の選び方が、微妙に違う。

 たったそれだけのことなのに、妙に引っかかった。

 いや、正確には違和感だけじゃない。妙な居心地の悪さすら覚える。何かが変わり始めているのに、それが何なのか分からない、そんな感覚だ。

「……」

 私はしばらくパソコンの画面を見つめ、軽く肩を回す。エクセルのセルに入力した数値が、ぼんやりと滲んで見える気がした。

 気のせい、か?

 いや、そうでもないらしい。

 近くのデスクから、何気ない雑談が耳に届く。

「ねえ、なんかさ。今日、課長の雰囲気が違ってたと思わない?」

 パソコンのキーボードを打つ音、コーヒーをすする音、コピー機の稼働音。オフィスの喧騒の中、ふと耳に届いたその言葉に、私は思わず手を止めた。

 変わった? 課長が?

 意識しないようにしながらも、つい聞き耳を立ててしまう。

「え、やっぱりそう思います?」

 麻美が興味津々といった様子で、ひそひそと応じている。彼女は総務の同期で、おしゃべり好きな性格だ。

「前はもっと冷たかったっていうか、無駄な会話ゼロって感じだったじゃん? でもなんか最近、ちょっとだけ柔らかくなった気がする」

「確かに」

 別の社員が頷く。

「前は、指示もめちゃくちゃ端的で、業務以外の会話なんて一切なかったよね。ちょっとでもミスしようものなら、理詰めで怒られるし」

「そうそう! 『これ、何の意図?』とか『理由は?』とか、詰問みたいに言われてさ……正直、怖かった」

「でしょ? でも今日は、言い方が少し優しくなっているような……」

「丸くなったってこと……?」

 ふと、誰かが冗談めかして口にする。

 その言葉に、周囲の空気が一瞬ふわりと緩んだ。

「まさか、彼女できたとか?」

 ――ビクッ。

 心臓が跳ねた。

 同時に、肩もわずかに揺れる。

(ちょ、ちょっと待って……! いきなりそんな話になる!?)

 呼吸が乱れそうになるのを必死でこらえ、動揺を悟られないように表情を整える。

 大丈夫。冷静になれ。顔に出してはいけない。

 そっと視線を落とし、何気なく書類をめくるフリをする。

 幸い、すぐに別の社員が笑いながら否定した。

「いやいや、課長に限ってそれはないでしょ」

 軽い笑い声が、オフィスの空気を和らげる。

「そうそう、あの人、恋愛とか興味なさそうだし、仕事命って感じじゃん」

「わかる。絶対、プライベートとか謎のままだよね」

「ていうか、そもそも課長に好きなタイプとかあるの?」

「えー、それ気になる!」

 賑やかに盛り上がる会話。

 私は、ホッとしたような、でもどこか釈然としない気持ちで、そっと視線を前に戻した。

 ――日中の九条課長。淡々と仕事をしていた。落ち着いた口調。的確な指示。無駄のない動き。まるで、いつもと何も変わらないように見えた。

 ――でも。やっぱり、どこか違った。言葉の端々に、態度の細部に、以前にはなかった「余裕」があった。冷たさだけではない。そこに、柔らかなものが混じっている気がするのだ。

(……気のせい?)

 そう思いかけたけれど、ふと、昨日のことを思い出した。

 ――詩織、愛しているぞ

 心臓が、一瞬だけ跳ねた。

 熱がこみ上げる。

 慌てて目を伏せる。

 ……ダメだ。こんなところで思い出すなんて。

(本当に、恋愛に興味ない人、なのかな?)

 胸の奥がざわつく。

 理屈では説明できない違和感。ただの思い込み? それとも――。

 いつの間にか、周囲の雑談が遠のいていた。

 ふと顔を上げると、九条課長がデスクに戻っていた。

 彼はいつも通り、淡々と業務をこなしている。けれど、一瞬だけ、彼の指先がわずかに動いた。

 それは、ただの仕草に過ぎないのかもしれない。

 でも、そのわずかな動きが、なぜか視線を引き寄せた。まるで、何かを伝えようとしているようにも見えたのだ。

(……そんなわけないよね)

 そう思おうとする。

 けれど、その瞬間。

 九条課長が、ごく自然な動作で視線をこちらに向けた。

 長いまつげの奥に潜む、静かな眼差し。感情を読み取ることはできない。

 けれど――確かに、私を見ていた。

 次の瞬間、彼はまた何事もなかったように視線を戻し、資料を捲る。

 それだけのこと。

 でも、私はもう、気づいてしまった。

 この違和感の正体に。

 オフィスの空調が静かに唸る音が、やけに大きく聞こえた。
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