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第11話 気のせい?

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 定時まで、あと一時間。

 私はモニターに映る数字の羅列を確認しながら、ふと視線をずらした。壁掛けの時計が、静かに秒針を刻んでいる。針の動きが妙に遅く感じられた。あと一時間で、今日の業務も終わる。何事もなく一日を終えられそう――そう思った、その瞬間。

「佐倉」

 ――っ!

 名前を呼ばれた瞬間、指が止まる。喉の奥が小さく鳴った。低く響くその声には、否応なく背筋が伸びる。

 九条課長――このオフィスで誰もが一目置く男。冷静沈着で隙のない仕事ぶり、端正な顔立ちと鋭い眼差し。彼の一言には、理由もなく人を緊張させる力がある。

 私は無意識に息を詰めた。デスクに向かっていた顔を上げる前に、一度だけ心の中で唱える。

(……落ち着いて。いつも通り、いつも通り……!)

 そうして、ゆっくりと振り向いた。

 九条課長は、すぐそばに立っていた。クールな表情を崩さず、淡々とした佇まい。その鋭い眼差しはどこまでも冷静で――いつも通りのはずなのに、なぜか違和感がある。

「少し時間あるか?」

 その一言が、静かなオフィスの空気を微かに揺らした。

 いつもなら、「佐倉、ちょっと」。それだけで済むのに、今日は違う。たった一言の違いなのに、胸の奥にかすかな波紋が広がる。

 私は、まばたきをひとつ。

 彼の声音は、穏やかだった。気のせいだろうか。いや、そんなはずはない。九条課長は、いつも変わらない人だ。誰に対しても公正で、冷静で、決して感情を露わにしない。

 わずかに息を整えてから、私は言葉を返す。

「……はい」

 自分の声が、ほんの少し上ずっていた気がした。

 彼は頷くと、そのまますぐに本題へと入る。

「仕事の話だ」

 その言葉に、私は小さく肩の力を抜く。

 新しいプロジェクトの進行状況についての確認。特に変わった内容ではない。むしろ、いつものように冷静で、必要最低限の言葉で進められる業務連絡。彼の口調も、表情も、まるで氷のように整っている。

 それなのに――

(……どうして、こんなにも心を乱されているんだろう。)

 彼の言葉が、妙に耳に残る。普段なら気にも留めないトーンの違いが、胸の奥で小さく反響する。

 私は、そっと指を組み替えた。冷えた指先が、ほんのわずかに震えている気がする。

(やっぱり、ちょっと優しくなってる?)

 自分の考えに、すぐさま首を振りたくなった。そんなはずはない。彼はいつも通りだ。私が勝手に、違う何かを見ようとしているだけだ。

 それでも、違和感が消えない。

 言葉の端々。声の抑揚。わずかな目の動き。普段なら気にならなかったことが、ひどく引っかかる。まるで、そこに何かの意図が隠されているかのように。

 そんなはずはないのに。

 話の途中、彼の視線がふと、私の手元へと向けられた。

(え……?)

 一瞬。ほんの一瞬だけ、彼の瞳が私の指先を捉えた気がした。

 だが、それは本当に一瞬のことで、次の瞬間には何事もなかったかのように、彼は再び視線を戻し、淡々と話を続ける。まるで、何も見なかったかのように。

 私は指先をそっと握りしめた。

 特に変わったことはしていないはず。ネイルも派手ではないし、指輪なんてもちろんつけていない。ただ、いつも通り、仕事のメモを取っていただけ。なのに――なぜ?

(……気のせい?)

 思わず、もう一度そっと手元を見る。

 細身のボールペンを握る自分の指。書き連ねられた端正な文字。机の端には、先ほど飲みかけたコーヒーの紙カップ。何の変哲もない、いつもの光景。

 なのに、確かに彼の視線はそこへ落ちた。

 ほんのわずかな違和感が、胸の奥に静かに沈殿する。

 だが、確証が持てないまま、会話は終わりを迎えた。

「頼んだぞ」

 短く、いつも通りの声音。

 それだけを残して、九条課長は踵を返す。

 私は、ふっと息を吐いた。無意識に強張っていた肩が、わずかに緩む。

 彼の背中を、ぼんやりと目で追った。

 すらりとした長身。引き締まった肩。迷いのない歩調。端正なスーツのラインが、歩くたびに自然に揺れる。

 いつもと同じはずなのに――

 なぜか今日は違う。

(この変化……私のせい……?)

 そんな考えが、ふと頭をよぎる。

 次の瞬間、自分で自分に驚いた。

(何を考えてるの、私。)

 慌てて頭を振る。

(違う違う! あれはただの契約だし! あんなことで、九条課長が変わったりするはずない!)

 強く否定する。何か勘違いしているだけ。彼が私に特別な感情を抱く理由なんて、どこにもない。

 そう――どこにも。

 それなのに。

 胸の奥に生まれた違和感は、消えるどころか、ますます深く沈殿していくようだった。
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