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第9話 勘の鋭い同僚
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週明けのオフィスは、いつもの慌ただしさに包まれていた。
カタカタカタ――キーボードを叩く音が、リズミカルに響く。コピー機が紙を吐き出す音と、それを取り出す軽やかな手の動き。
電話のコール音が遠くで鳴り、誰かがすぐに受話器を取った。「はい、辰巳商事でございます」――淡々とした応対の声が流れ、書類をめくる微かな音がそれに続く。
空調の静かな唸り。漂うコーヒーの香り。それらが重なり合い、変わらない日常の風景を作り出していた。
……はずなのに。
私は、どこか落ち着かない気持ちを抱えたまま、仕事に入っていた。
(いつも通り、いつも通り――)
手を動かしながら、心の中で繰り返す。自然に振る舞うこと、それだけを考える。
けれど――。
足音が響くたびに、視線が自分に向けられているような気がする。フロア内を行き交う同僚たちの何気ない会話が、耳に入るたびに胸がざわめく。「ねえねえ、聞いた?」「えっ、マジで?」――そんな言葉を聞くだけで、まるで自分のことを話されているような錯覚に陥る。もちろん、そんなはずはないのに。
――私と九条課長は、契約結婚をすることになった。
だけど、それは誰にも知られてはならない秘密。会社の人間はもちろん、友人にさえも打ち明けるつもりはない。
ただの契約。ただの取り決め。割り切って、淡々と進めていくはずだった。
それなのに――。
無意識のうちに、「周りにバレていないか?」と気にしてしまう。誰かの視線を感じるたび、背筋が強張る。いつも通りに振る舞おうとすればするほど、不自然になってしまいそうで怖い。
(大丈夫、冷静にならなきゃ)
深く息を吸い、静かにパソコンに向き直った――その瞬間。
「ねぇねぇ、佐倉! 」
突然、隣のデスクから勢いよく身を乗り出してくる人影。
「朝から思ってたんだけどさ。なんか今日、機嫌良い?」
予想もしなかった言葉に、一瞬、心臓が跳ねた。指先がぴくりと動き、思わずペンを握り直す。
視線をゆっくり上げると、そこには――。
西村麻美が、にこにことこちらを覗き込んでいた。
ふわりと揺れる肩までの髪。明るい茶色の瞳が、いたずらっぽく細められている。
彼女は私の同期で、社内でも特に仲のいい存在だ。いつも元気で、ちょっとおせっかいなところがあるけれど、気遣いもできるいい友人。ただし、そういう彼女だからこそ、時折こうして鋭い勘を発揮するのが厄介だ。
「そ、そんなことないよ」
慌てて否定する。声が少し裏返りそうになったのを誤魔化すように、咳払いを一つ。
しかし、麻美は「ほんとに~?」と疑わしげな目を向けてきた。
視線が、試すようにこちらを探る。その表情には、明らかに「嘘ついてない?」という気配がにじんでいる。
「いやいや、別にいつも通りだから。普通よ、普通」
できるだけ自然に、苦笑いを浮かべる。それでも、麻美はじっと私を見つめ続けた。
「うーん……でもさぁ~……」
長く伸ばされた語尾。机の上に肘をつき、身を乗り出すようにして、さらに距離を詰めてくる。
「なんか雰囲気違うんだよね。顔色もいいし、なんとなく楽しそうっていうか……」
「気のせいじゃない?」
「気のせい、ねぇ?」
じりじりと迫ってくる麻美に、内心、冷や汗が滲む。
気のせい――そう言い切るには、あまりに鋭すぎる指摘。ごまかすつもりが、かえって疑念を深める結果になっていないか。
――まずい。
「で? この土日、何してたの?」
「えっ?」
反射的に目を見開く。喉の奥がひゅっと縮まり、息が詰まった。
「……特に何も。家でのんびりしてたかな」
できるだけ自然に。できるだけ何でもない風に。
そう意識しながら答えたつもりだったが、麻美は「ふーん?」と含みのある声を漏らした。長いまつげの奥で、目がさらに細められる。
「……なんか怪しい」
「えっ、全然怪しくないよ!?」
思わず声が上ずる。
「いや、怪しいでしょ」
麻美の唇が、わずかに楽しげに弧を描く。
「だって、いつもなら『ずっと寝てた』とか『録画してたドラマ消化してた』とか言うのに」
言葉を切り、間を持たせる。
「今日はすっごく曖昧なんだもん」
――鋭い。
麻美の言葉に、心臓がひやりと冷える。
このままでは余計な詮索をされてしまう。冗談交じりの会話に見せかけながら、彼女は核心へと迫ろうとしているのだ。
私は、慌てて話をそらそうとする。
「そ、そんなことないってば! ほんとに家でダラダラしてただけ!」
笑顔を取り繕いながら、何でもないように言葉を放つ。だが、自分でもわかる。声がわずかに裏返り、余裕のない笑いになってしまっていることを。
麻美は、肘をついたままじっと私を見つめた。静かな沈黙が、テーブルの上に落ちる。
――やばい。
目を逸らすべきか、それとも平然を装うべきか。
そんな逡巡の最中、不意に麻美がニヤリと意味ありげな笑みを浮かべた。
「ねぇ、彼氏できた?」
「なっ!? そ、そんなわけないでしょ!!」
思わず声が裏返る。驚きと動揺が混じった否定は、まるで狼狽の証拠のように響いてしまった。
予想外の直球に、心臓が跳ね上がる。
麻美の目が、さらに鋭く細められた。
「えー、でもさぁ、その焦り方、絶対なんかあるでしょ?」
「ないないない!」
即座に首を横に振る。だが、動きがあまりにも機敏すぎて、余計に怪しさを醸し出してしまった気がする。
「ほーん?」
麻美は顎に手を当て、どこか楽しげな表情を浮かべる。その目はまるで、逃げ場を探して必死になっている獲物を追い詰める捕食者のようだった。
私は必死に笑顔を作ってみせるが、麻美の疑念は少しも晴れた様子がない。
「ふーん……まぁ、いいけど? 何かあったら正直に言いなよ~?」
茶化すような調子でそう言うと、彼女はひとまず話を終わらせたようだった。だが、私は内心ヒヤヒヤだった。
(なんでこんなに勘が鋭いの!?)
冷や汗を拭いながら、なんとか話題をそらせたことに安堵する。
しかし――こうして周囲に気を遣っている時点で、私はすでに「変化」を意識してしまっているのかもしれない。
契約結婚のはずなのに、普通でいられない――
胸の奥にじわりと広がる違和感を抱えながら、私は静かに深呼吸をした。
カタカタカタ――キーボードを叩く音が、リズミカルに響く。コピー機が紙を吐き出す音と、それを取り出す軽やかな手の動き。
電話のコール音が遠くで鳴り、誰かがすぐに受話器を取った。「はい、辰巳商事でございます」――淡々とした応対の声が流れ、書類をめくる微かな音がそれに続く。
空調の静かな唸り。漂うコーヒーの香り。それらが重なり合い、変わらない日常の風景を作り出していた。
……はずなのに。
私は、どこか落ち着かない気持ちを抱えたまま、仕事に入っていた。
(いつも通り、いつも通り――)
手を動かしながら、心の中で繰り返す。自然に振る舞うこと、それだけを考える。
けれど――。
足音が響くたびに、視線が自分に向けられているような気がする。フロア内を行き交う同僚たちの何気ない会話が、耳に入るたびに胸がざわめく。「ねえねえ、聞いた?」「えっ、マジで?」――そんな言葉を聞くだけで、まるで自分のことを話されているような錯覚に陥る。もちろん、そんなはずはないのに。
――私と九条課長は、契約結婚をすることになった。
だけど、それは誰にも知られてはならない秘密。会社の人間はもちろん、友人にさえも打ち明けるつもりはない。
ただの契約。ただの取り決め。割り切って、淡々と進めていくはずだった。
それなのに――。
無意識のうちに、「周りにバレていないか?」と気にしてしまう。誰かの視線を感じるたび、背筋が強張る。いつも通りに振る舞おうとすればするほど、不自然になってしまいそうで怖い。
(大丈夫、冷静にならなきゃ)
深く息を吸い、静かにパソコンに向き直った――その瞬間。
「ねぇねぇ、佐倉! 」
突然、隣のデスクから勢いよく身を乗り出してくる人影。
「朝から思ってたんだけどさ。なんか今日、機嫌良い?」
予想もしなかった言葉に、一瞬、心臓が跳ねた。指先がぴくりと動き、思わずペンを握り直す。
視線をゆっくり上げると、そこには――。
西村麻美が、にこにことこちらを覗き込んでいた。
ふわりと揺れる肩までの髪。明るい茶色の瞳が、いたずらっぽく細められている。
彼女は私の同期で、社内でも特に仲のいい存在だ。いつも元気で、ちょっとおせっかいなところがあるけれど、気遣いもできるいい友人。ただし、そういう彼女だからこそ、時折こうして鋭い勘を発揮するのが厄介だ。
「そ、そんなことないよ」
慌てて否定する。声が少し裏返りそうになったのを誤魔化すように、咳払いを一つ。
しかし、麻美は「ほんとに~?」と疑わしげな目を向けてきた。
視線が、試すようにこちらを探る。その表情には、明らかに「嘘ついてない?」という気配がにじんでいる。
「いやいや、別にいつも通りだから。普通よ、普通」
できるだけ自然に、苦笑いを浮かべる。それでも、麻美はじっと私を見つめ続けた。
「うーん……でもさぁ~……」
長く伸ばされた語尾。机の上に肘をつき、身を乗り出すようにして、さらに距離を詰めてくる。
「なんか雰囲気違うんだよね。顔色もいいし、なんとなく楽しそうっていうか……」
「気のせいじゃない?」
「気のせい、ねぇ?」
じりじりと迫ってくる麻美に、内心、冷や汗が滲む。
気のせい――そう言い切るには、あまりに鋭すぎる指摘。ごまかすつもりが、かえって疑念を深める結果になっていないか。
――まずい。
「で? この土日、何してたの?」
「えっ?」
反射的に目を見開く。喉の奥がひゅっと縮まり、息が詰まった。
「……特に何も。家でのんびりしてたかな」
できるだけ自然に。できるだけ何でもない風に。
そう意識しながら答えたつもりだったが、麻美は「ふーん?」と含みのある声を漏らした。長いまつげの奥で、目がさらに細められる。
「……なんか怪しい」
「えっ、全然怪しくないよ!?」
思わず声が上ずる。
「いや、怪しいでしょ」
麻美の唇が、わずかに楽しげに弧を描く。
「だって、いつもなら『ずっと寝てた』とか『録画してたドラマ消化してた』とか言うのに」
言葉を切り、間を持たせる。
「今日はすっごく曖昧なんだもん」
――鋭い。
麻美の言葉に、心臓がひやりと冷える。
このままでは余計な詮索をされてしまう。冗談交じりの会話に見せかけながら、彼女は核心へと迫ろうとしているのだ。
私は、慌てて話をそらそうとする。
「そ、そんなことないってば! ほんとに家でダラダラしてただけ!」
笑顔を取り繕いながら、何でもないように言葉を放つ。だが、自分でもわかる。声がわずかに裏返り、余裕のない笑いになってしまっていることを。
麻美は、肘をついたままじっと私を見つめた。静かな沈黙が、テーブルの上に落ちる。
――やばい。
目を逸らすべきか、それとも平然を装うべきか。
そんな逡巡の最中、不意に麻美がニヤリと意味ありげな笑みを浮かべた。
「ねぇ、彼氏できた?」
「なっ!? そ、そんなわけないでしょ!!」
思わず声が裏返る。驚きと動揺が混じった否定は、まるで狼狽の証拠のように響いてしまった。
予想外の直球に、心臓が跳ね上がる。
麻美の目が、さらに鋭く細められた。
「えー、でもさぁ、その焦り方、絶対なんかあるでしょ?」
「ないないない!」
即座に首を横に振る。だが、動きがあまりにも機敏すぎて、余計に怪しさを醸し出してしまった気がする。
「ほーん?」
麻美は顎に手を当て、どこか楽しげな表情を浮かべる。その目はまるで、逃げ場を探して必死になっている獲物を追い詰める捕食者のようだった。
私は必死に笑顔を作ってみせるが、麻美の疑念は少しも晴れた様子がない。
「ふーん……まぁ、いいけど? 何かあったら正直に言いなよ~?」
茶化すような調子でそう言うと、彼女はひとまず話を終わらせたようだった。だが、私は内心ヒヤヒヤだった。
(なんでこんなに勘が鋭いの!?)
冷や汗を拭いながら、なんとか話題をそらせたことに安堵する。
しかし――こうして周囲に気を遣っている時点で、私はすでに「変化」を意識してしまっているのかもしれない。
契約結婚のはずなのに、普通でいられない――
胸の奥にじわりと広がる違和感を抱えながら、私は静かに深呼吸をした。
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