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第8話 詩織

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 思考がまとまらない。九条課長の返事が、予想外だったからだ。

 絶対、理路整然とクールに反論を続けると思っていた。なのに、彼はあっさりと真一郎氏の言葉を受け入れた。

「これまでの縁談について、無理を言って断ってきた自覚はあります」

 玲司課長の低い声が、部屋の中に響く。

「佐倉――いえ、詩織が俺の伴侶として相応しいと、この場で証明してみせましょう」

 私は反射的に彼の横顔を見上げた。

「……えっと……あの……?」

 動揺を隠せない。まさか、こんな展開になるなんて。

 ――というか、今"詩織"って呼んだ?

 九条課長に下の名前で呼ばれるのは、初めてだ。普段の職場では、どれだけ親しい間柄でも、彼が人を下の名前で呼ぶところを見たことがない。冷静で、一線を引いた態度を崩さない彼が――どうして今、こんなふうに?

 真一郎氏の前、私たちの関係を取り繕うため? それとも、ひょっとして私だけが特別……?

 ――いや、こんなことを考えている場合じゃない!

「俺たちの愛を見せます」 

 愛を……見せる? ちょっと待って、それってどういう意味? 契約結婚なんだから、そんなもの最初から存在しないはず――

「愛って……その……?」

 自分でも意味のわからない言葉が口からこぼれる。

 玲司課長が、静かに私の方へと向き直る。

 そして――

「お前はこれから、俺の妻になる。当然のことをするだけだ」

 スッ――

 課長の指が伸び、そっと私の顎を持ち上げた。

「えっ……?」

 息が詰まる。すぐ目の前にある彼の顔。

 課長は微動だにせず、迷いも見せない。まるで、これが最初から決まっていたことのように。

 距離が近すぎる。こんなに近くで彼の顔を見たのは、初めてだった。

 涼しげな目元。きっちりと整えられた眉。そして、彼の瞳に映る私――。

「ちょっ、待っ……」

 私の言葉を遮るように、玲司課長はゆっくりと口を開いた。
 
「詩織、愛しているぞ」

「……っ!!」

 その言葉が脳に届いた瞬間、時間が止まったように感じた。

 九条課長が、私に――"愛している"? 契約結婚なのに?

「おいおい……」

 不意に、真一郎氏が静かに笑った。

「お前がそこまで言うとはな。確かに、お互いに愛はあるようだ」

「俺の言葉に嘘はありませんから」

 九条課長は、一切の動揺を見せなかった。彼の声はいつも通り低く、冷静だ。

 わけがわからない。課長が私を……本当に? それとも、この場を取り繕うための芝居?

 でも、彼の指先は確かに私の肌に触れていて、その力加減は優しくも、決して揺るがないものだった。

 あんなに顔を近づけられて、キスされるかと思った――。

 心臓の音がうるさい。

「……では、結構」

 真一郎氏の声が響いた。

 私は弾かれたように顔を上げる。

「え?」

「お前たちが互いに愛し合っていると示せたのならば、もはやこの話に異論はない」

 そう言って、彼はゆっくりと湯呑みを持ち上げ、まるで何事もなかったかのように一口含んだ。

(ちょっと待って、これで納得されるの?)

 私は困惑のあまり、隣に座る九条課長を見る。

 しかし、彼は表情を崩さないまま、ただ静かに深く頭を下げた。

「ありがとうございます、父上」

「ふむ……」

 真一郎氏は九条課長の姿を見据え、一瞬、何か考えるような素振りを見せた。

 しかし、それ以上何も言うことはなく、ただ穏やかに頷いた。

「……食事の席を用意させる。今日はゆっくりしていくといい」

「はい」

 九条課長が落ち着いた声で返事をする。

 私はまだ頭がついていかなかったが、次の瞬間、使用人たちが静かに動き出し、部屋の空気が一気に和らぐのを感じた。まるで、さっきまでの緊張が嘘だったかのように。

 ――終わったの?

 そう思った途端、全身の力が抜けそうになる。

 背筋を張っていたのが急に苦しくなって、息を整えようと小さく深呼吸する。

(……なんとか乗り切った?)

 でも、本当にこれでよかったのだろうか。

 九条課長は「愛している」なんて言葉を口にした。それは、九条家の当主である真一郎氏を納得させるための、ただの演技だったのかもしれない。

 だけど――。

 私は、さっきの彼の表情を思い出してしまう。

 迷いなく、確信に満ちたまなざし。私の顎を支える指先の温もり。揺るぎなく告げられた、「愛しているぞ」という言葉――。

(本当に芝居だったの? それとも……)

 自分でも答えの出ない疑問に、胸の奥がざわつく。

 気づかないふりをしたいのに、耳の奥でドクドクとうるさく響く心臓の音が、それを許してくれなかった。

 私だけが、意識しすぎているんだろうか。

 ちらりと玲司課長を見ると、彼は何事もなかったかのように落ち着いた顔をしていた。まるで、さっきのことなんて気にも留めていないかのように――。

「詩織」

 名前を呼ばれて、思わず肩が跳ねる。

「……はい?」

「行くぞ」

 九条課長は、静かに立ち上がり、私へと手を差し出した。

 その仕草は自然で、"夫婦"としての演技なのか、それとも――。

 私は、戸惑いながらもその手を取った。

 心臓の音が、まだうるさい。

 ――本当に、これは"契約結婚"なの?
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