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第五部(最終)
第二十六章 時代、胎動す 其の六
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◆◇◆
静が祈願文を納める半月ほど前、小正月の日の江戸城の広間は朝から騒々しかった。
秀忠の主催で、大姥局の長寿の祝いが開かれるためであった。
昼近く、次々と人が集まってくる。
「お婆さまが下がるとは、まことか。」
「よう上様が許されたの。」
「『来年の米寿まで待て』と引き留められたそうじゃがの。」
「では、八十七! いやはや、あやかりとうござる。」
「まことじゃな。」
のっそりと割って入ってきた老人を見て、皆が一斉に平伏した。
「これは、大御所様!」
「よいよい。今日は儂も婆様を祝いたい客じゃ。」
いつの間にか、広間は男も女も身分の上下も関係なく、ぎっしりの人で埋まっている。
しずしずと入ってきた大姥局が胸を熱くした。
「みなさま、こんな婆のために、ようお集まりいただきました。もう、思い残すことはござりませぬ。」
「らしゅうありませぬな。『時々は見に来るゆえ、しかと働け』と言うていただきませぬと。」
ニヤリとしながら大声を出したのは、最前列にいた利勝である。
「そうじゃ、そうじゃ。」
部屋のあちこちから声がかかる。
大姥局の目が部屋をぐるりと見渡す。目があったものが次々と頷き、秀忠も江も頷いた。
大姥局が微笑んで、ピンと背筋を伸ばす。
「このような婆の檄がないと働けぬとは、なんと、お情けない。婆の言葉に先んじて、しかとご用にお励みなされませ。」
皆をキッと見据え、キリリとした顔の老女は、往年の大姥局のままであった。
「はっ。」
返事と共に、パチパチと手を叩く音がする。
「それでこそ大姥様じゃ。」
内藤政吉の豪快な声が響いた。
大姥局が皺を深めて微笑む。
「皆々様、上様を、徳川を頼みまするぞ。」
「ははっ。」
大姥局のピシリとした礼に、臣下のものたちも頭を下げた。
「よし、あとは無礼講じゃ。存分に楽しむがよい。」
秀忠が杯を捧げ、明るく声をかけた。
「上様、かたじけのうござりまする。」
大姥局が涙をにじませ、秀忠に礼をした。
「言うたではないか。そなたは母じゃ。幼いときに母上を亡くした私にとって、母上より母であった。よう私を育ててくれた。」
秀忠は大姥局を安心させるように微笑んで感謝を伝える。
「上様。」
「もう案ずるな。ようようそなたの言うことを守っていくゆえ。」
淋しげな老乳母の肩に手を置き、秀忠はきっぱりと誓った。
「はい。いつまでも見守っておりまする。」
大姥局も頷き、微笑んで養い子を見つめる。老女の目も、側にいた御台所の目も潤んでいた。
「ばばさま~。」
松姫がとことこと近づいてきた。
「これはこれは松姫様。いつまでもお健やかに。」
大姥局が幼い姫を抱き寄せ、頬擦りした。「うふふ」と松姫が笑う。
緋色の打掛けを初々しく着た勝姫も側にやってきて座る。
「私の輿入れまでおってくれればよかったに。」
可愛らしい唇を少し尖らせる様子は、若い頃の江によく似ていた。
「勝姫様。申し訳ございませぬ。」
「そなたの部屋子が、嫁入りの着物をたんと縫うてくれたと聞いた。礼を言うておいてくれ。」
少し寂しそうに、それでも姉姫らしく、勝姫は大姥局に伝える。
「ありがとうございまする。必ず伝えましょう。」
大姥局が深く頷き、約束した。寂しそうな顔のまま「うん。」と少し微笑んだ勝姫の白く美しい手を、皺だった手が包む。
「姫様、そのように下の者を思いやる心、お忘れなきよう。そのお気持ちがあれば、きっとよきお方様になれましょう。お幸せになられませ。」
すべすべした手を、大姥局がそっとさすった。
「わかった。」
花のように勝姫が微笑む。
「おちあわせになぁれませ。」
姉と老婆のやり取りを、じっと見ていた松姫が、大姥局の言葉を、大姥局に向かってあどけなく真似をした。
その様子に、周りがドッと笑う。松姫も何かわからないままに「エヘヘ」と笑った。
大姥局がおかしさと嬉しさの涙を擦りながら、また松姫を抱き寄せる。
「ちい姫様。婆はこの上のう幸せにござりまするぞ。」
「うん!」
松姫のあどけない笑顔に、皆が笑っていた。
祝いは夜更けまで続いた。大姥局は一人一人と言葉を交わし続ける。
何人かには言葉を交わしながら、「後日、改めて」と約束をしていた。
祝いが終わったあとも、大姥局にはいくらかの仕事が残っていた。
徳川のしきたりなどについて、今一度、民部卿と確認をし、福と清には乳母の役割と兄弟それぞれの役割をくどいほど言い聞かせた。
そのような仕事も一つずつ片付き、如月になって下がる日を迎えた。
大姥局が最後の挨拶をするため、江の居間へと向かう。
艶やかな葡萄色の打掛け姿の江が、脇息を横に、きちんと座していた。横で控える民部卿はもう涙ぐんでいる。
「御台様、長らくお世話になりました。」
「なにをいう、世話してもろうたのは私じゃ。」
「ほほ、数々のご無礼、お許しくださりませ。」
江の脳裏に、江戸へ来た頃のことが思い出された。
「ほんにそなたにはいろいろ教えてもろうた。子ができたときには、少しは動かねばならぬことなどもの。」
『ご寝所はお方様が整えなさいませ。』と掃除を仕込まれた日々を思い出し、江はいたずらっぽく微笑んだ。
大姥局が「ほほほ」と笑い、民部卿も「ふふ」と苦笑いする。
「まこと、ご立派な御台様になられました。私も安堵して下がれまする。」
ホッと一息つくと、御台所をじっと見、心底から肩の荷を下ろしたように微笑んで、大姥局がしみじみとした。
シンと静かな静寂が一瞬訪れる。
微笑んでいた江の眥から、ついと一筋の涙が流れた。
「御台様…?」
江の突然の涙に、民部卿が心配そうな顔をする。
そっと涙を指で取り、江は嬉しそうに微笑んだ。
「嬉しいのじゃ。やっと大姥に褒めてもろうた。」
そしてまた、そっと目に指をやる。民部卿が横でうんうんと嬉しそうに頷いている。
大姥局は御台所を慈しみ深く見ていた。
江の気持ちが落ち着いた頃を見計らって、再び、大姥局がハタと江を見、ゆっくりと口を開く。
「わずかな心残りは、竹千代さまのこと。」
大姥局の言葉に、江の眉間に皺が寄った。大姥局は、そのようなことはお構いなしににっこりと笑う。
「竹千代さまは、上様のお小さい頃によう似ておられまする。 」
思わず「ふふ」と思い出し笑いをする老乳母に、江が思わず、「上様の?」とおうむ返しをする。
「はい。お体が弱く、どことなくお気も弱く、お気持ちを内へ内へと溜め込むお子様でした。弟君はお健やかで利発で……」
一つづつ思い出すように、大姥局が語る。その穏やかな微笑みに、大姥局の秀忠への愛が溢れていた。
「……そうなのか?」
はじめて聞いたのであろう、江は目を丸くしている。
確かに今の、いや、江を娶とった頃の秀忠からでさえ、考えづらいものである。
(しかし…いや、だから竹千代の気持ちがわかるのだろうか……)
江は、頭の中でぼんやりと考え込んでいた。
大姥局が御台所の様子に微笑んだ。
「お二人は、まことよう似てございます。その頃、私はなんとかしようと一心にお仕えいたしました。……福もさようなのでございましょう。」
江が困ったような、何かを言いたそうな顔をしている。
「御台様、いくら一心に仕えても乳母は乳母。母にはかないませぬ。」
「したが秀忠様は…」
静かに、ほんのりと寂しそうに告げた大姥局に、江が口を挟んだ。
秀忠が大姥局に「母上より母親であった」と礼を述べているのを江は見ていた。
「上様のお母上はもうおられぬゆえ、そう仰せになったのです。」
静かに、優しく、ゆっくりと、大姥局は江を諭す。
「上様のお母上、西郷局様はお目が悪うございました。それゆえ、『私は子供たちのことを見てやれぬ』とよう嘆いておられました。けれど、私はきちんと見ていらしたと存じます。」
大姥局が言葉を切り、江の目をジッと見た。そして、キリリと続ける。
「見えぬ分、心でしっかりと。」
江も大姥局の目をしっかり見つめている。
大姥局が、スッと息を吸い、手を前についた。
「親が子を諦めてはなりませぬ。見えることだけに頼ってはなりませぬ。聞こえることだけが真ではありませぬ。どうぞ心で見て、聞いてさしあげてくださいまし。 ……御台様は、それができる御方。」
「大姥。」
「なんというても大御所様のお目にかなった姫様です。上様、いえ、若様のお心を溶かした姫様でございますもの。」
老乳母の最後の必死の訴えに、江は黙り込んでいる。
「大殿様と若様の間を結べるのも御台様だけ。」
大姥局があえて、大殿様と若様という使い方をしている。江には痛いほど、その意味がわかった。
「御台様にもお辛いことも多うございますのに、大きな願いを残していきますこと、お許しくださいませ。では、これにて。」
大姥局が一度背筋をシャンと伸ばすと、丁寧な丁寧な礼をした。大姥局が頭をあげると江が微笑む。
「大姥。」
そう声をかけると、御台所は老乳母に向かって、それは美しい長い礼をした。
「御台様……」
虚をつかれた大姥局の声が、涙声に変わっている。江がゆっくりと体を起こした。
「長に渡りご苦労でした。あとはゆるりと暮らすがよい。」
「はい。御台様も御達者でお過ごしくださいませ。民部殿も。」
江がゆっくりと頷き、民部卿は、涙をこらえるためおかしな顔で何度も頷いている。
「息災でな。」
「はい。これにて失礼つかまつりまする。」
江の言葉に老乳母は今一度、軽く礼をすると、静かに立ち上がり静かに去っていった。
*******
【小正月】1月15日 。太陽暦ではこの年は2月28日
【葡萄色】山ぶどうのような赤みの強い紫色。
静が祈願文を納める半月ほど前、小正月の日の江戸城の広間は朝から騒々しかった。
秀忠の主催で、大姥局の長寿の祝いが開かれるためであった。
昼近く、次々と人が集まってくる。
「お婆さまが下がるとは、まことか。」
「よう上様が許されたの。」
「『来年の米寿まで待て』と引き留められたそうじゃがの。」
「では、八十七! いやはや、あやかりとうござる。」
「まことじゃな。」
のっそりと割って入ってきた老人を見て、皆が一斉に平伏した。
「これは、大御所様!」
「よいよい。今日は儂も婆様を祝いたい客じゃ。」
いつの間にか、広間は男も女も身分の上下も関係なく、ぎっしりの人で埋まっている。
しずしずと入ってきた大姥局が胸を熱くした。
「みなさま、こんな婆のために、ようお集まりいただきました。もう、思い残すことはござりませぬ。」
「らしゅうありませぬな。『時々は見に来るゆえ、しかと働け』と言うていただきませぬと。」
ニヤリとしながら大声を出したのは、最前列にいた利勝である。
「そうじゃ、そうじゃ。」
部屋のあちこちから声がかかる。
大姥局の目が部屋をぐるりと見渡す。目があったものが次々と頷き、秀忠も江も頷いた。
大姥局が微笑んで、ピンと背筋を伸ばす。
「このような婆の檄がないと働けぬとは、なんと、お情けない。婆の言葉に先んじて、しかとご用にお励みなされませ。」
皆をキッと見据え、キリリとした顔の老女は、往年の大姥局のままであった。
「はっ。」
返事と共に、パチパチと手を叩く音がする。
「それでこそ大姥様じゃ。」
内藤政吉の豪快な声が響いた。
大姥局が皺を深めて微笑む。
「皆々様、上様を、徳川を頼みまするぞ。」
「ははっ。」
大姥局のピシリとした礼に、臣下のものたちも頭を下げた。
「よし、あとは無礼講じゃ。存分に楽しむがよい。」
秀忠が杯を捧げ、明るく声をかけた。
「上様、かたじけのうござりまする。」
大姥局が涙をにじませ、秀忠に礼をした。
「言うたではないか。そなたは母じゃ。幼いときに母上を亡くした私にとって、母上より母であった。よう私を育ててくれた。」
秀忠は大姥局を安心させるように微笑んで感謝を伝える。
「上様。」
「もう案ずるな。ようようそなたの言うことを守っていくゆえ。」
淋しげな老乳母の肩に手を置き、秀忠はきっぱりと誓った。
「はい。いつまでも見守っておりまする。」
大姥局も頷き、微笑んで養い子を見つめる。老女の目も、側にいた御台所の目も潤んでいた。
「ばばさま~。」
松姫がとことこと近づいてきた。
「これはこれは松姫様。いつまでもお健やかに。」
大姥局が幼い姫を抱き寄せ、頬擦りした。「うふふ」と松姫が笑う。
緋色の打掛けを初々しく着た勝姫も側にやってきて座る。
「私の輿入れまでおってくれればよかったに。」
可愛らしい唇を少し尖らせる様子は、若い頃の江によく似ていた。
「勝姫様。申し訳ございませぬ。」
「そなたの部屋子が、嫁入りの着物をたんと縫うてくれたと聞いた。礼を言うておいてくれ。」
少し寂しそうに、それでも姉姫らしく、勝姫は大姥局に伝える。
「ありがとうございまする。必ず伝えましょう。」
大姥局が深く頷き、約束した。寂しそうな顔のまま「うん。」と少し微笑んだ勝姫の白く美しい手を、皺だった手が包む。
「姫様、そのように下の者を思いやる心、お忘れなきよう。そのお気持ちがあれば、きっとよきお方様になれましょう。お幸せになられませ。」
すべすべした手を、大姥局がそっとさすった。
「わかった。」
花のように勝姫が微笑む。
「おちあわせになぁれませ。」
姉と老婆のやり取りを、じっと見ていた松姫が、大姥局の言葉を、大姥局に向かってあどけなく真似をした。
その様子に、周りがドッと笑う。松姫も何かわからないままに「エヘヘ」と笑った。
大姥局がおかしさと嬉しさの涙を擦りながら、また松姫を抱き寄せる。
「ちい姫様。婆はこの上のう幸せにござりまするぞ。」
「うん!」
松姫のあどけない笑顔に、皆が笑っていた。
祝いは夜更けまで続いた。大姥局は一人一人と言葉を交わし続ける。
何人かには言葉を交わしながら、「後日、改めて」と約束をしていた。
祝いが終わったあとも、大姥局にはいくらかの仕事が残っていた。
徳川のしきたりなどについて、今一度、民部卿と確認をし、福と清には乳母の役割と兄弟それぞれの役割をくどいほど言い聞かせた。
そのような仕事も一つずつ片付き、如月になって下がる日を迎えた。
大姥局が最後の挨拶をするため、江の居間へと向かう。
艶やかな葡萄色の打掛け姿の江が、脇息を横に、きちんと座していた。横で控える民部卿はもう涙ぐんでいる。
「御台様、長らくお世話になりました。」
「なにをいう、世話してもろうたのは私じゃ。」
「ほほ、数々のご無礼、お許しくださりませ。」
江の脳裏に、江戸へ来た頃のことが思い出された。
「ほんにそなたにはいろいろ教えてもろうた。子ができたときには、少しは動かねばならぬことなどもの。」
『ご寝所はお方様が整えなさいませ。』と掃除を仕込まれた日々を思い出し、江はいたずらっぽく微笑んだ。
大姥局が「ほほほ」と笑い、民部卿も「ふふ」と苦笑いする。
「まこと、ご立派な御台様になられました。私も安堵して下がれまする。」
ホッと一息つくと、御台所をじっと見、心底から肩の荷を下ろしたように微笑んで、大姥局がしみじみとした。
シンと静かな静寂が一瞬訪れる。
微笑んでいた江の眥から、ついと一筋の涙が流れた。
「御台様…?」
江の突然の涙に、民部卿が心配そうな顔をする。
そっと涙を指で取り、江は嬉しそうに微笑んだ。
「嬉しいのじゃ。やっと大姥に褒めてもろうた。」
そしてまた、そっと目に指をやる。民部卿が横でうんうんと嬉しそうに頷いている。
大姥局は御台所を慈しみ深く見ていた。
江の気持ちが落ち着いた頃を見計らって、再び、大姥局がハタと江を見、ゆっくりと口を開く。
「わずかな心残りは、竹千代さまのこと。」
大姥局の言葉に、江の眉間に皺が寄った。大姥局は、そのようなことはお構いなしににっこりと笑う。
「竹千代さまは、上様のお小さい頃によう似ておられまする。 」
思わず「ふふ」と思い出し笑いをする老乳母に、江が思わず、「上様の?」とおうむ返しをする。
「はい。お体が弱く、どことなくお気も弱く、お気持ちを内へ内へと溜め込むお子様でした。弟君はお健やかで利発で……」
一つづつ思い出すように、大姥局が語る。その穏やかな微笑みに、大姥局の秀忠への愛が溢れていた。
「……そうなのか?」
はじめて聞いたのであろう、江は目を丸くしている。
確かに今の、いや、江を娶とった頃の秀忠からでさえ、考えづらいものである。
(しかし…いや、だから竹千代の気持ちがわかるのだろうか……)
江は、頭の中でぼんやりと考え込んでいた。
大姥局が御台所の様子に微笑んだ。
「お二人は、まことよう似てございます。その頃、私はなんとかしようと一心にお仕えいたしました。……福もさようなのでございましょう。」
江が困ったような、何かを言いたそうな顔をしている。
「御台様、いくら一心に仕えても乳母は乳母。母にはかないませぬ。」
「したが秀忠様は…」
静かに、ほんのりと寂しそうに告げた大姥局に、江が口を挟んだ。
秀忠が大姥局に「母上より母親であった」と礼を述べているのを江は見ていた。
「上様のお母上はもうおられぬゆえ、そう仰せになったのです。」
静かに、優しく、ゆっくりと、大姥局は江を諭す。
「上様のお母上、西郷局様はお目が悪うございました。それゆえ、『私は子供たちのことを見てやれぬ』とよう嘆いておられました。けれど、私はきちんと見ていらしたと存じます。」
大姥局が言葉を切り、江の目をジッと見た。そして、キリリと続ける。
「見えぬ分、心でしっかりと。」
江も大姥局の目をしっかり見つめている。
大姥局が、スッと息を吸い、手を前についた。
「親が子を諦めてはなりませぬ。見えることだけに頼ってはなりませぬ。聞こえることだけが真ではありませぬ。どうぞ心で見て、聞いてさしあげてくださいまし。 ……御台様は、それができる御方。」
「大姥。」
「なんというても大御所様のお目にかなった姫様です。上様、いえ、若様のお心を溶かした姫様でございますもの。」
老乳母の最後の必死の訴えに、江は黙り込んでいる。
「大殿様と若様の間を結べるのも御台様だけ。」
大姥局があえて、大殿様と若様という使い方をしている。江には痛いほど、その意味がわかった。
「御台様にもお辛いことも多うございますのに、大きな願いを残していきますこと、お許しくださいませ。では、これにて。」
大姥局が一度背筋をシャンと伸ばすと、丁寧な丁寧な礼をした。大姥局が頭をあげると江が微笑む。
「大姥。」
そう声をかけると、御台所は老乳母に向かって、それは美しい長い礼をした。
「御台様……」
虚をつかれた大姥局の声が、涙声に変わっている。江がゆっくりと体を起こした。
「長に渡りご苦労でした。あとはゆるりと暮らすがよい。」
「はい。御台様も御達者でお過ごしくださいませ。民部殿も。」
江がゆっくりと頷き、民部卿は、涙をこらえるためおかしな顔で何度も頷いている。
「息災でな。」
「はい。これにて失礼つかまつりまする。」
江の言葉に老乳母は今一度、軽く礼をすると、静かに立ち上がり静かに去っていった。
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