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第五部(最終)

第二十六章 時代、胎動す 其の七

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◇◆

 大姥局が辞す日、秀忠は、「今日は夜まで奥には戻らぬ」と告げ、朝早くに政務の場に出掛けた。 
 今日も朝から利勝と政務に勤しんでいる。
 昼が過ぎ、八つを知らせる太鼓が鳴った。 

「そろそろでございますな。」 
「うん?」 
「婆様の下がられる刻限にございまする。」 
「そうじゃな。」 
「見送らなくてよろしいのですか?」 
「よい。大姥も望まぬ。」 
「さようにございますか。」 
 淡々とした秀忠の中に、利勝には泣いている長丸ながまるを見ていた。 
 (御台様が先にみまかられたら、どうなるのじゃろう……。長生きしていただかねば……) 
 火鉢の火を整えながら、泣き虫長丸のこれからを利勝は早くも心配していた。 

◆◇◆

 大姥局が拝領屋敷へ下がり、桜のつぼみが膨らみ始めた頃、静もそこへ移った。 
 部屋子達と再会を喜び合い、静はまた、大姥局のもとで楽しそうに働き始めた。 
「静、またそのように。」 
 カタパタと雑巾がけをしている静に、大姥局がしかめっ面で声をかける。 
「大事のうございまする。赤子ややも喜んでおりますれば。」 
 静がにっこり笑った。近くにいた蕗が「ふふっ。」と笑う。 
「お蕗様?」 
「旦那様、御台様にも雑巾がけを教えておられましたなぁ。『御寝所は御自分で』というて。」 
 大姥局が罰悪そうに微笑みながら、 
「御台様は、『子を宿したときは少し動かねばならぬことを教えてもろうた』とゆうてくだされたぞ。」 
 と、にんまりする。 
 静は改めて、自分の主人がどのような人物かを知った。 
 (本来なら、私なぞお近づきになれない方……) 
 そのようなお方が、自分に目をかけてくださる。そして、自分のために大切な上様から離れられた。
 静は有り難さに身が震える。感謝の言葉の代わりに、静は、すっかり優しげな老女となった大姥局にえくぼを返した。
 

「ようやっと、大姥殿との茶飲み話が叶うた。」 
 見性院は、今までの穴埋めをするように、三日と開けず顔を見せる。 
「見性院さま、私が出掛けて参りまする。」 
「大姥殿、そなたはもはや天下の乳母殿ではありませぬか。」 
「そのお役目はもう辞しました。」 
「ならば、私もいまや武田の姫ではありませぬ。年下のものが年上のものを伺うのが礼儀。」 
「見性院さま。」 
「静と、赤子ややに会いたいのじゃ。」 
 大姥局が恐縮し、見性院は「クスッ」と、上品な顔立ちに可愛らしい笑顔を作った。 

 拝領屋敷では、もはや上下の区別なく、お茶を飲み、語り、笑いあって過ごしている。 
 時々お腹を抱えて、「よいしょ。」と体を動かす静に見性院も微笑む。 
「静、先のことも、なにも案ずることはないぞ。この見性院の元で武田の子として育てればよい。」 
「見性院さま。」 
 その慈しみ深い声に、静は胸が一杯になる。赤子もグニョウニョと嬉しそうに動いた。 
「いや、こちらからお願いしたいくらいじゃ。武田の子として育てさせてくれ。の。」 
 武田の姫はそう言い、来る度に静のお腹を触る。 
「これは頭じゃな。」 
「今日は足を突っ張っておるの。」 
 見性院だけでなく、みながお腹を触り、触っては微笑む。 
 静の周りは、穏やかであった。 
 大御所と秀頼の対面、主上おかみの譲位も聞こえてきたが、それらで生活が変わるわけでも、心を煩わせるわけでもなかった。 

◆◇◆
  
「御譲位される主上おかみには父上が関白としてお仕えなさいました。御譲位前に父上に代わり、主上にご挨拶をしとうございます。 そのついでに御義祖父様おじいさまにお会いいたします。」 
 大坂城で秀頼は、ピリピリした母をそう説得した。 
 「大御所」ではなく、あくまでも「義理のおじいさま」。その立場として挨拶にいくのだと。 
 秀忠から忠栄ただひでを通じての案であり、淀の方を説得するにあたっては忠栄も直接援護した。

「そうあらしゃりませ。なんというても、豊家ほうけは摂家でおじゃります。主上しゅじょうに礼を尽くすが道でおじゃりましょう。 
 主上の覚えもめでとうならしゃりますし、公家たちに豊家の御加護を思い出させます。豊家の御為おんためにならしゃいますえ。 
 大御所さんとて、主上のお膝元で騒ぎを起こすほど考えなしではござしゃりませんでしょう。 なんなら、この麿がついていきますえ。」 
と柔らかな胸を叩いた。 
 熱心な二人に淀の方が折れ、秀頼が出向く形での大御所と秀頼の対面が叶った。 
 秀頼の手をしっかり握って見送った千は、夫が帰ってくるまでに、花を活けて心を落ち着ける。

 
 その頃、江戸城では秀忠が竹千代と共に西の丸の庭にいた。

  とりあえず、大御所おやぢの願いは叶えた。
 だからといって、これで親父が納得するわけでもなかろう。
 さて、どういう目が出るか……

 竹千代と汗を流しながら、秀忠は考えている。
 弥生の庭は色とりどりの落ち椿が、地面を彩っていた。
  

[第二十六章 時代とき、胎動す 了] 
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