陽の目をみないレクイエム

吉川知美

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第二楽章(後篇)

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                               (3)

    春の訪れと桜の開花は、差はあれど人の心にきらめきをもたらす。けれどもウイルスによる未曾有の状況下で、昨年と同じくこの春も、桜はどこか淋しそうだと思った。
    元々、桜はやわらかに切なさを帯びている。花の咲く間が極めて短いのと、淡い色と、はらはらと散るさまと…。 そして、花を見あげる人の桜への特別な感情が、明るい悲哀をうみだすのだろう。

    勝竜寺城公園へ休日に足を運んだ、そもそもの目的をわきにおいて、私は五分咲きの桜を観賞している。庭園を囲む塀沿いの小道に立ち、桜を横から見て、花びらにそっと手を触れてみる。
    淋しくても、桜はきっと平気なのだと思った。多くの人に愛でられて、放っておかれることはないのだから。いつも、陽の当たる場所にいる桜のことを、少しうらやましく思う。

    春曇りの空から、一陣の風が吹く。
    風に髪をなぶられて、桜から顔を一瞬そむけた時に、また、あの低いうめき声が聞こえたような気がした。声の出る元に、心を同調させていく。
「ジウベ…サマ」
   サマ。様?     誰かに呼びかけているのか。
   声のした右手を見やる。北門手前の、例の石造物群の前に、私と同じくらいの年であろう男性が、何か思案する風に立っている。透けるような白さだと、その横顔を見て思う。すぅっと、目と唇の、美しい線。異性に見惚れているわけではなく、不思議と心が吸い込まれていく感じ。
    その一方で、あ、この人はマスクをしていないんだ、と妙に間の抜けた客観性をもって思った。

    また、風が吹く。
    頭上のケヤキの葉が、サワサワと鳴る。
「ジュウ…ベエ…」
「えっ?」
    思わず大きな声を出してしまったと、マスクの上から手で口をおさえるのと同時に、色白の彼がこちらを向いた。
    顔を見合わせる。何か、言わないと。
「あの、いま、そこの辺りから声がしませんでした?」
    石造物群の向かいにある石垣を指差しながら、変な具合に私は彼に問いかけた。
    少しの間なのに、とても長く感じた沈黙の後。
「十兵衛様、と?」
    この人にも聞こえていたのだと、小さくない驚きをもって、うなずく。
「わたしの風貌が、明智光秀に似ているのかもしれません」
    涼やかに微笑んで彼は言うけれど、私の頭の中にはクエスチョンマークが数多くうまれ出て、どう捉え、何を発すればいいのか、まるで分からない。
    とりあえず、そういえば、勝龍寺城にゆかりのある明智光秀公の字(あざな)は十兵衛であったと、スロウに合点した。

                           (4)

    人の知能、そして感性にはキャパシティがあり、人によってその大きさは違う。
    知能をもっと働かせるべきなのか。それとも、感性をより膨らませて?    例のエンパシーというもので?
    目の前に立つ、この男性はどうだろう。何もかもを分かっているみたいな。
    ぐるぐる、ぐるぐる。
    どう受け止めるべきか戸惑い、軽くめまいを覚える私。そんな私をも理解する風に、彼は優しく穏やかな顔で、石垣に歩み寄る。少しかがんで、石垣の隙間に指を伸べ、すくっと直立して私を見る彼が、その手に持っているものは。

    遠慮がちに、今度は私が、彼のそばに歩みゆく。私の胸の高さで広げられた、彼の手の平にある小さなものを、じっと見つめる。
    永年、そこに在ったのだろう、土と苔が付着し染み込んで、元が何であったのかを悟れない。
「ほら、両方に小さな穴があいている。ひもを通す穴で、これは、ロザリオの珠(たま)だと思います」
    元々私のもつ強い好奇心が、何にも勝り、揺らぐ感情を押しやって、珠を凝視し、彼の言葉に耳を向ける。
「石垣の下の方は、明智の頃のままだから、彼を慕う誰かのロザリオの一部が、ここにずっと、こうして遺ったんです」
    話す彼の表情が、少し曇る。
「そのロザリオに込められた誰かの想いが、声になって、聞こえたってことですか」
    消化のできないことだけれど、目の前の不可思議な事実を、一応、心に留める。
    彼は私に言葉を返さず、やはり淋しそうな微笑みを見せてから、その珠を、石造物群の手前の方に置く。そして、祈りの姿勢をとった。私も慌てて目を閉じ、祈りを捧げた。
    
    どちらが勧めたというわけではなく、何となく、そばにあるベンチに2人腰かけて、少し話をした。
    全く違う人間のようであって、どことなく、彼と自分とが似ているようにも思えた。心にまとうもの、というか、背に負うもの、というか。そういうものが。
    前にも同じような事があったのを、何日か前に思い出して、その事も彼に話した。彼はきっと何でも知っているのだと、まるで先生に話すみたいに。
    前に働いていたサロンは、中書島駅の近くにあった。今と同じように、時間のあるときは、近辺をよく歩いた。足をのばして御香宮神社を訪れたことが一度だけあった。そこでも不思議な声を聞いた。
    鳥羽伏見の戦いに敗れた会津藩兵の声だろう、と彼は言った。彼の推測が正しいのかどうかは、どちらでも良い気がした。彼がそうだと思って話しているのだから、彼と私にとっては、あいまいな対象も不思議と真実になっていくような気がした。

    彼が立ち去る少し前に、彼が私に話した言葉は、最も真実に近いように思われた。
    世の中には、誰かの、誰かに届けられなかった想いが、後悔と共にあふれている。でもその後悔は悲しいものではない。相手を深く思えばこその、後悔なのだから。
    いわば、この世界には、誰彼の優しい想いが多く浮遊しているのだと、彼はとつとつ語った。   
    私の目には涙があふれ、今にもこぼれ落ちそうだった。2年前に亡くした大切な人の心に、そして私の思いにも、一条の光が、優しく差し込むような、そんな救いが少し見えたから。
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