陽の目をみないレクイエム

吉川知美

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第二楽章(前篇)

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                               (1)
    
    ほろ甘くて優しくて、それでいて、というより、それゆえに、とめどなく悲しい夢を見た。目の覚める直前まで、懐かしい幸福感で温かな心地だったのに、覚めた瞬間、幸せがはがれ落ち、涙が頬を伝い流れた。

    振り返るのは残酷だと知っていても、ぼんやりとした幸福の軌跡を辿ってみたくなる。
    夏の夜の、むんとした匂い。屋台に並ぶ、赤と青の風車。人は皆、同じ方へぞろぞろ歩いている。祭りのようであっても、にぎやかさは無く、しんとしていた。
    私は幸せで、笑みをこぼしていた。左隣に、あの人がいたから。手を握り合い、並んで歩いていた。段差があると、転ぶことのないよう、彼らしく気遣ってくれた。

    途中から私は、これは夢なのだと気づき、どうか覚めないようにと願いながら、握る手に力を込めていた。
    彼の気配が消えて、はっきり夢だと分かったとき、握りこぶしの中の空(くう)が、たまらなく痛かった。

    目をつむり、同じ情景を浮かべ、手の中に彼の手の感触を取り戻そうとしたけれど、悲しみで冴えてしまい、枕元の置き時計を見る。
    午前6時。そろそろ、階下の両親が起きる時間。朝早くにゴトゴト物音を立てると、彼らの心配を増大させるかもしれない。
    まだ私は、『悲しみの中に在る人間』と周囲から定義づけられている。
    気を遣われることにも、気を遣うことにも、ほとほと疲れている自分がいる。
    自分の心に、もやの払拭された部分を見出だし、屈託なく笑ってみせても、向こうには哀れむ目があって。
    一度深い悲しみに陥った者にとって、この社会は、なかなかに厄介なものだと思う。

   しばらく目を閉じて、小鳥のさえずりや、緑のサワサワと心地の良い音を聴いていた。
    やがて、階下で日常が動き出す。
    私もむくりと体を起こし、ドア横のドレッサーに座る。
    東京のインテリアショップで一目惚れし、それを知っていた彼が、密かに購入して新居に置いていた。これには驚かされた。一生モノだと思った、マホガニー材のドレッサー。
    だからこれだけは、長距離をわざわざ運んでもらった。彼の優しい思いが詰まっているから。
    そのドレッサーに腰かけて、肩まで伸びた髪をとかし、一つにまとめる。そして、開けようとするだけで、今でも感情が乱れて苦しくなる一番下の引き出しに、手をかける。
    指先が、震える。
    引くと、そこには、何通かの手紙と、ハンカチと、ネクタイと。何のために、とってあるんだろう。苦しむために、悲しむために?
    ドレッサーにしても、語りかけてくるのは、彼の優しさよりも悲しみなのだから、運んで良かったのか、よく分からない。

                               (2)

    自分の選択が正解だったのか、大きくうなずける事は、そう多くはないけれど、セラピストの仕事を始めたのは、大正解だと思う。
    ゆっくりと深く息を吐きながら、腰から背中、肩へと長いストロークでリンパ液を流す。女性客は、母をいたわるように、男性客は、息子を思う母の気持ちを持って。
    内から優しい感情が自然と涌き出て、あっ、私の心は乾いていないんだ、と小さな驚きと喜びを抱く。
    『悲しい』というのは、カラカラになっているわけではない。悲しむことで潤む場所が心に在るのだと、セラピストになって、初めてその場所を確認した。

    男性の広い背中を施術していると、時折、懐かしい彼の背中と重なり思い出す。そこに、性的な感情は一切なく。
    まるで、それは海のような。
    海を泳ぐみたいにストロークしながら、私の心は包まれ癒される。
    癒しながら、癒されていく。身をもって知った、小さな心の法則。

    男性客へのロングタイムの施術を終え、体が楽になったと嬉しそうにサロンを出る客を、笑顔で見送った。
    夢のあと静かに泣いた、今朝の悲しみが、人との優しい関わりで、そっと霧散している。

    2階の施術ベッドのタオルシーツを替えたり、1階シャワールームを掃除したりと、階段を何度か往復して片付けをする。
   ひと段落して、1 階の施術部屋へ、押入れの私物を取りに入る。私より1時間ほど前に、客を見送り片付けを終えた宮原さんが、施術マットの横で、うつぶせになりスマホを見ている。
    入ると同時に「お疲れさまです」と私が口にして、宮原さんはスマホに目を落としたまま、小さく返す。

「白川さん、接客のあと、こころ疲へいしません?」
    私物ボックスの中を探っていた私は、「えっ?」と振り返る。
 「病院でもいるじゃないですか。心も治療の一環って感じで、患者とかかわり過ぎな医者。あれって、どうなんですかねぇ。他の患者の待ちが長くなるし、かかわられて迷惑する患者もいるんじゃないかな」
    スマホをわきに置き、寛いだ感じで座る宮原さんが、なるべく角が立たないように努めた口調で、問いかけてくる。
「ここは病院じゃないし。心の癒しもセラピストの大切な仕事やと思うけど」
    私の顔、情けない感じになってるだろうな、と思った。せっかく、施術で笑顔になってもらえて、自然と嬉しくなっていたのに、なぜ、こんな風につついてくるんだろう。

「責めてるわけじゃないんです。ただ、ちょっと心配になって」
    眉を和らげて、先月30になったばかりの、私より若い宮原さんは、少し口調を優しくして続ける。
「セラピストとして、感情を共有するシンパシーまでは、大切なことやと思います。でも、それを超えて、お客さんにエンパシーの領域で接すると、毎回共感し過ぎて、白川さんの心がしんどくなるんじゃないかなって」
    エンパシー。初めて耳にした言葉を頭の中でくり返しながら、宮原さんを、しっかりした人だな、と思った。ショートヘアが似合うキリリとした顔立ちで、性格と顔はやはり深く関係しているのだと、心の中でうなずく。
    でも、自分の接客姿勢をばっさりと否定されたようで、ムカついてもいた。そんな自分も悲しくなるから、なるべく上品に、そしてぎこちなくムカついている。
「確かに、お客さんの心に入り込むのは、よくないと思う。わたしは疲れてないし、エンパシー?の領域には入ってないよ。心配してくれてありがとう」
    私物ボックスに入れてあったポーチを手にして、なるべく穏和な空気を残し、2階に戻る。

「エンパシー、エンパシー」と呟きながら、ネットで新しく知った言葉について調べる。
    エンパシーは、悪いことではない。深く深く、相手に心を添わせ、見えてくるものがあるはず。共感により、救える心がある。
    共感力について考えていたら、ふと、1か月前の、勝竜寺城公園での不思議な出来事がよみがえった。あれはつまり、まだ会ってもいない、誰かの心を汲み取ったゆえの声、なのだろうか。
    あれから1か月、公園へ足を運んでいない。1か月前のことだから、行っても仕方がない。頭を振って、あいまいな出来事を追いやろうとしたけれど、その一方で、早くまたあの場所へ行かなければいけないと、心がはやった。
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