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第三幕 苦悩の日々と友の急死
ピアノ・コンチェルト
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モーツァルトは頻繁に宮廷図書館を訪れては過去の様々な楽譜を見ていた。彼は様々な楽譜を見ながら頭の中で演奏していく。そして毎回必ず、ある二つの曲を最後にじっと見つめて物思いにふけるのだ。
「熱心に見ているな。君のような天才が、一体誰の曲をそんなに気に入ったんだい?」
ある日、サリエーリはそんなモーツァルトの背中に話しかけた。モーツァルトは振り返らずに答える。
「……ピアノ協奏曲。一七七三年に作られた曲で、作曲者はアントーニオ・サリエーリ」
「……あれか」
多くを語らずとも、サリエーリにはモーツァルトがなぜその二曲に注目したのかが分かった。そして、次にこの男が口にするだろう言葉も。
「……なんでピアノ協奏曲を書かなくなったの?」
「私はその直後に宮廷室内作曲家兼イタリア・オペラ指揮者になった。私に求められる音楽は、皇帝や貴族が楽しむ舞踏曲や歌劇だ。彼等を喜ばせるのが私の役目だからな」
この時代、一流の作曲家は王侯貴族のためのオペラを作るものだった。特に、オペラを作れないボンノが宮廷楽長である以上ヨーゼフ二世が好むオペラはサリエーリが作曲しなくてはならない。彼は作曲に数ヶ月かかるオペラを生涯で実に四一曲も作っている。ピアノ協奏曲のような曲を作っている暇はなかったのである。
「宮廷楽長になったら、協奏曲も書かせて貰えないの? ……一〇年以上も前に、僕が目指す音楽の高みにいたのに!」
振り返り、訴えかけるように声を荒げて語りかけるモーツァルトの目には、形容しがたい複雑な気持ちが見て取れた。
サリエーリが一七七三年に書いた二つのピアノ協奏曲には、装飾豊かで歌うように軽やかな旋律――音符が多いフレーズ――が見られる。後世においてモーツァルトの曲との類似性が指摘される部分だ。
「これは私がオペラを求められなかった年に、とある女性のために書いた楽譜でね。……たぶん、女性を想って天にも昇る気持ちで書いた事で、空を舞うような旋律を生み出す事が出来たんだろう。あの時の私は、自然な感情に身を任せていた……モーツァルトのように」
昔を懐かしむように語るサリエーリに、モーツァルトは食ってかかる。
「それなのに、やめてしまった! ヨーゼフ二世が好まないから、貴族が喜ばないから。音楽の高みを目指して羽ばたかず、地を這うような退屈な音楽を作る事ばかりに夢中になってしまったのか!」
「それは違う!!」
初めて、サリエーリが声を荒げた。胸倉をつかまんばかりに詰め寄ったモーツァルトは、彼の一喝に気勢を削がれて言葉を失う。
「モーツァルト、よく聞きなさい。音楽は全てが素晴らしいものだ。そして、音楽は人を楽しませるためのものだ。世の中には君が退屈だという、牧歌的で優雅な曲を好む人たちが大勢いる。その人たちに『これが素晴らしいんだ』と変化に富んだ軽やかな旋律を聴かせても、それはただの独りよがりに過ぎないんだよ」
口を閉じたモーツァルトに微笑みかけ、穏やかな口調で語りかけるサリエーリ。相手の肩に手を乗せ、更に言葉を続けた。
「君の作る曲がどれだけ素晴らしいか、私にはわかる。ハイドン先生も理解してくださった。でもね、どんなに素晴らしくても相手が求めているものでなければ、受け入れられないんだよ。……私は酒を飲まない。そんな私に最高級のワインを勧められても、ただ困るだけだ。無理矢理勧められれば怒り出すかもしれない。本当に素晴らしいワインなのにね。……君は私に甘くて美味しいお菓子をプレゼントしてくれたね、本当に美味しかったよ。それは何故だい?」
「……パパ・サリエーリは甘いものが好きだから」
しっかりとサリエーリの目を見つめ、モーツァルトは答えた。その目は、何か新しい事を思いついたように歓喜の色をたたえていた。
「そういうことだ。それに、今私がピアノ協奏曲を作ったとしても、到底モーツァルトには敵わないだろう。人には向き不向きというものがあるのだよ」
モーツァルトはサリエーリの言葉を聞きながら、自分たち二人を取り巻く数々の噂を思い浮かべていた。
曰く、モーツァルトは大変な陰謀に巻き込まれている。それはサリエーリの一派によって行われる数々の妨害工作である。
曰く、サリエーリは自分の愛人であるカヴァリエーリだけをスターにしたいと考えている。
だが、それは根も葉もない勘繰りだという事をモーツァルトは知っていた。一時は自分も信じかけていた悪意ある噂。それを何故信じたのか。噂が真実であれば、気分が楽だからだ。そして噂が広まるのは人々がその噂を語るのを楽しんでいるからだ。
人は、自分の求めるものを受け入れる。それが真実である必要はないのである。
自分がサリエーリほど人気がない理由を、陰謀のせいにしてしまえば、自分には才能がないからだと思わずに済んだから。
だが、今彼は実に納得のいく答えを手に入れたのだった。
これまでの色々な事に納得をしたモーツァルトだが、新たなわだかまりが生まれた事に、彼自身もまだ気付いていなかったのである。
まだ言葉にならないその思いは、これから訪れる二人の直接対決を経て顕在化していく事になる。
「熱心に見ているな。君のような天才が、一体誰の曲をそんなに気に入ったんだい?」
ある日、サリエーリはそんなモーツァルトの背中に話しかけた。モーツァルトは振り返らずに答える。
「……ピアノ協奏曲。一七七三年に作られた曲で、作曲者はアントーニオ・サリエーリ」
「……あれか」
多くを語らずとも、サリエーリにはモーツァルトがなぜその二曲に注目したのかが分かった。そして、次にこの男が口にするだろう言葉も。
「……なんでピアノ協奏曲を書かなくなったの?」
「私はその直後に宮廷室内作曲家兼イタリア・オペラ指揮者になった。私に求められる音楽は、皇帝や貴族が楽しむ舞踏曲や歌劇だ。彼等を喜ばせるのが私の役目だからな」
この時代、一流の作曲家は王侯貴族のためのオペラを作るものだった。特に、オペラを作れないボンノが宮廷楽長である以上ヨーゼフ二世が好むオペラはサリエーリが作曲しなくてはならない。彼は作曲に数ヶ月かかるオペラを生涯で実に四一曲も作っている。ピアノ協奏曲のような曲を作っている暇はなかったのである。
「宮廷楽長になったら、協奏曲も書かせて貰えないの? ……一〇年以上も前に、僕が目指す音楽の高みにいたのに!」
振り返り、訴えかけるように声を荒げて語りかけるモーツァルトの目には、形容しがたい複雑な気持ちが見て取れた。
サリエーリが一七七三年に書いた二つのピアノ協奏曲には、装飾豊かで歌うように軽やかな旋律――音符が多いフレーズ――が見られる。後世においてモーツァルトの曲との類似性が指摘される部分だ。
「これは私がオペラを求められなかった年に、とある女性のために書いた楽譜でね。……たぶん、女性を想って天にも昇る気持ちで書いた事で、空を舞うような旋律を生み出す事が出来たんだろう。あの時の私は、自然な感情に身を任せていた……モーツァルトのように」
昔を懐かしむように語るサリエーリに、モーツァルトは食ってかかる。
「それなのに、やめてしまった! ヨーゼフ二世が好まないから、貴族が喜ばないから。音楽の高みを目指して羽ばたかず、地を這うような退屈な音楽を作る事ばかりに夢中になってしまったのか!」
「それは違う!!」
初めて、サリエーリが声を荒げた。胸倉をつかまんばかりに詰め寄ったモーツァルトは、彼の一喝に気勢を削がれて言葉を失う。
「モーツァルト、よく聞きなさい。音楽は全てが素晴らしいものだ。そして、音楽は人を楽しませるためのものだ。世の中には君が退屈だという、牧歌的で優雅な曲を好む人たちが大勢いる。その人たちに『これが素晴らしいんだ』と変化に富んだ軽やかな旋律を聴かせても、それはただの独りよがりに過ぎないんだよ」
口を閉じたモーツァルトに微笑みかけ、穏やかな口調で語りかけるサリエーリ。相手の肩に手を乗せ、更に言葉を続けた。
「君の作る曲がどれだけ素晴らしいか、私にはわかる。ハイドン先生も理解してくださった。でもね、どんなに素晴らしくても相手が求めているものでなければ、受け入れられないんだよ。……私は酒を飲まない。そんな私に最高級のワインを勧められても、ただ困るだけだ。無理矢理勧められれば怒り出すかもしれない。本当に素晴らしいワインなのにね。……君は私に甘くて美味しいお菓子をプレゼントしてくれたね、本当に美味しかったよ。それは何故だい?」
「……パパ・サリエーリは甘いものが好きだから」
しっかりとサリエーリの目を見つめ、モーツァルトは答えた。その目は、何か新しい事を思いついたように歓喜の色をたたえていた。
「そういうことだ。それに、今私がピアノ協奏曲を作ったとしても、到底モーツァルトには敵わないだろう。人には向き不向きというものがあるのだよ」
モーツァルトはサリエーリの言葉を聞きながら、自分たち二人を取り巻く数々の噂を思い浮かべていた。
曰く、モーツァルトは大変な陰謀に巻き込まれている。それはサリエーリの一派によって行われる数々の妨害工作である。
曰く、サリエーリは自分の愛人であるカヴァリエーリだけをスターにしたいと考えている。
だが、それは根も葉もない勘繰りだという事をモーツァルトは知っていた。一時は自分も信じかけていた悪意ある噂。それを何故信じたのか。噂が真実であれば、気分が楽だからだ。そして噂が広まるのは人々がその噂を語るのを楽しんでいるからだ。
人は、自分の求めるものを受け入れる。それが真実である必要はないのである。
自分がサリエーリほど人気がない理由を、陰謀のせいにしてしまえば、自分には才能がないからだと思わずに済んだから。
だが、今彼は実に納得のいく答えを手に入れたのだった。
これまでの色々な事に納得をしたモーツァルトだが、新たなわだかまりが生まれた事に、彼自身もまだ気付いていなかったのである。
まだ言葉にならないその思いは、これから訪れる二人の直接対決を経て顕在化していく事になる。
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