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第二幕 かつて神童と呼ばれた男
一日成金
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パリで成功を収めたサリエーリは、ヴィーンで新作オペラに取り掛かる。実は作曲は既に終わっていた。サリエーリは台本が出来上がるとすぐに作曲を終えていたのだ。だが《ダナオスの娘たち》の上演が控えていたので《一日成金》の上演は後回しにした。これが良くない結果につながったと、後にダ・ポンテが語る。
「苦労をかけてすまないな。どうしてもこの話でやりたかったんだ」
サリエーリは舞台向きじゃない原作の台本化に悪戦苦闘するダ・ポンテに労いと励ましの言葉をかける。ダ・ポンテは台本作りには苦労するが、この件に関してサリエーリの事は非常に好意的に見ていた。
「サリエーリが励ましてくれたおかげでこの難題にも諦めずに取り組めたのだ」
台本の出来上がりには一年以上かけてしまったが、何とか形になった《一日成金》は、《ダナオスの娘たち》の後サリエーリがヴィーンに戻ってすぐに準備をして上演をしようと計画していたが、一七八四年八月ニ三日にヴィーンで初演されたジョヴァンニ・バッティスタ・カスティ台本、ジョヴァンニ・パイジエッロ作曲の《ヴェネツィアのテオドーロ王》が大成功していたために上演時期をずらす事になったのだった。
「《ヴェネツィアのテオドーロ王》が大成功している間に新作を初演するのは具合が悪い。初演は十二月にしよう」
だが、ここで不幸な事が起こる。主役を予定していた歌手が病気で降板してしまい、あまり実力のない歌手が代役を務めたのだ。
かくして一七八四年十二月六日、ダ・ポンテの台本作家デビュー作となる《一日成金》がブルク劇場で初演された。結果は失敗である。
「サリエーリとダ・ポンテのオペラがやっと初演されるのか。僕の番が回ってくると良いんだけど」
モーツァルトは敵情視察のつもりでこのオペラを聴きに来ていた。この頃の彼は《ハイドン・セット》の後半三曲を作曲するなど、非常に精力的に作曲活動をしていたのである。
モーツァルトの目に映る光景は、観客ががっかりした様子でため息をつき、拍手もまばらな客席だった。失敗の舞台である。
だが、耳に届く音楽は全く違う印象だ。彼の脳内に鮮烈な映像が浮かんでくる。
「なんて激しいアリアだ。見える……僕の脳内にははっきりと悪魔が現れる様子が見えるぞ!」
顔をしかめる観客をよそに、モーツァルトは更なる興奮を覚えた。劇が進み、フィナーレに先立つエミーリアのアリア〈アモル、慈悲深き愛神よ〉が歌われた時、そのフレーズが彼の脳に焼き付いていくような衝撃に襲われたのだった。
「なんだこのアリアは……これだよ! これこそが僕が表現したいと思っていた音楽だ!」
一人興奮するモーツァルトは、観客の冷めた様子に強い疑問を持った。
「え……? なんでこのオペラにみんな大喝采を送らないの? 信じられない!」
密かに観にきていた彼は喝采を送る事ができないが、他の観客が喝采を送らない事が信じられなかった。会場を出て家路につくモーツァルトの頭には、先程聞いたアリアのフレーズが繰り返し浮かんで離れられない。
後に彼が作曲する名曲の数々にはこのアリアに見られた特徴が多く現れる事になるのだった。
「ああ、残念だ。サリエーリはフランスにかぶれてイタリア・オペラの素晴らしさをセーヌ川に捨ててしまった」
オペラの失敗を嘆くダ・ポンテに、新しいアリアのテキストを貰いに来たモーツァルトは、やや冷たい目を向ける。
「……ダ・ポンテさんもそう思うんだ?」
目の前にいる人気詩人も、あの音楽の素晴らしさを理解できないのかとがっかりしていた。
「そうです、以前の彼ならもっと純朴で美しい旋律を作り上げていたのに。フランスの華美で騒がしい音楽に変わってしまった」
「それって、音符が多いから?」
かねてより、モーツァルトが周囲の貴族たちから指摘されていた事だった。
「ああ、それだ!」
「……なるほどね。それで、僕にくれる詩は?」
モーツァルトは、年明けの一月に、音楽協会から三月の慈善演奏会で演奏するオラトリオの作曲依頼を受けていた。これにダ・ポンテ作詞の|《悔悟するダヴィデ》を提出するつもりなのだ。
(そうか、僕が求める音楽はまだ誰にも評価されない……ただ一人を除いて)
「愛するお父さん」
「え?」
「いや、何でもない」
そして一七八五年三月。一三日と一五日にこのオラトリオが演奏される。指揮者はサリエーリが行う事になっていた。
「ねえ、それ僕が指揮したいんだけど」
「私の指揮じゃ不満か?」
モーツァルトはサリエーリの指揮を拒否し、自分で指揮をする事になった。サリエーリは困った顔をするが、いつものモーツァルトのワガママだろうと思って好きにさせる。
(父親に変な事を吹き込まれているせいで、私を敵視しているのか。困ったものだ)
どうやってこの天才をなだめ、宮廷の評価を上げて自信を持たせてやろうかと考え、ため息をつくサリエーリだったが、モーツァルトはそんな彼を愛おしそうに見つめる。
(そうじゃない……リーバー・パパに僕の曲を聴いて欲しいんだ)
サリエーリとモーツァルトの二人は、この年の後半頃から特に仲良くしている様子が見られると弟子などから多く証言されている。
以前にも増してモーツァルトはサリエーリを訪ね、宮廷図書館の古い楽譜を見せてもらうようにねだるようになり、またスヴィーテン男爵が日曜に開く音楽会には二人とも常連となっていて、共に演奏し、歌い、笑いあったとサリエーリの弟子ヴァイグルが後に語るのであった。
「苦労をかけてすまないな。どうしてもこの話でやりたかったんだ」
サリエーリは舞台向きじゃない原作の台本化に悪戦苦闘するダ・ポンテに労いと励ましの言葉をかける。ダ・ポンテは台本作りには苦労するが、この件に関してサリエーリの事は非常に好意的に見ていた。
「サリエーリが励ましてくれたおかげでこの難題にも諦めずに取り組めたのだ」
台本の出来上がりには一年以上かけてしまったが、何とか形になった《一日成金》は、《ダナオスの娘たち》の後サリエーリがヴィーンに戻ってすぐに準備をして上演をしようと計画していたが、一七八四年八月ニ三日にヴィーンで初演されたジョヴァンニ・バッティスタ・カスティ台本、ジョヴァンニ・パイジエッロ作曲の《ヴェネツィアのテオドーロ王》が大成功していたために上演時期をずらす事になったのだった。
「《ヴェネツィアのテオドーロ王》が大成功している間に新作を初演するのは具合が悪い。初演は十二月にしよう」
だが、ここで不幸な事が起こる。主役を予定していた歌手が病気で降板してしまい、あまり実力のない歌手が代役を務めたのだ。
かくして一七八四年十二月六日、ダ・ポンテの台本作家デビュー作となる《一日成金》がブルク劇場で初演された。結果は失敗である。
「サリエーリとダ・ポンテのオペラがやっと初演されるのか。僕の番が回ってくると良いんだけど」
モーツァルトは敵情視察のつもりでこのオペラを聴きに来ていた。この頃の彼は《ハイドン・セット》の後半三曲を作曲するなど、非常に精力的に作曲活動をしていたのである。
モーツァルトの目に映る光景は、観客ががっかりした様子でため息をつき、拍手もまばらな客席だった。失敗の舞台である。
だが、耳に届く音楽は全く違う印象だ。彼の脳内に鮮烈な映像が浮かんでくる。
「なんて激しいアリアだ。見える……僕の脳内にははっきりと悪魔が現れる様子が見えるぞ!」
顔をしかめる観客をよそに、モーツァルトは更なる興奮を覚えた。劇が進み、フィナーレに先立つエミーリアのアリア〈アモル、慈悲深き愛神よ〉が歌われた時、そのフレーズが彼の脳に焼き付いていくような衝撃に襲われたのだった。
「なんだこのアリアは……これだよ! これこそが僕が表現したいと思っていた音楽だ!」
一人興奮するモーツァルトは、観客の冷めた様子に強い疑問を持った。
「え……? なんでこのオペラにみんな大喝采を送らないの? 信じられない!」
密かに観にきていた彼は喝采を送る事ができないが、他の観客が喝采を送らない事が信じられなかった。会場を出て家路につくモーツァルトの頭には、先程聞いたアリアのフレーズが繰り返し浮かんで離れられない。
後に彼が作曲する名曲の数々にはこのアリアに見られた特徴が多く現れる事になるのだった。
「ああ、残念だ。サリエーリはフランスにかぶれてイタリア・オペラの素晴らしさをセーヌ川に捨ててしまった」
オペラの失敗を嘆くダ・ポンテに、新しいアリアのテキストを貰いに来たモーツァルトは、やや冷たい目を向ける。
「……ダ・ポンテさんもそう思うんだ?」
目の前にいる人気詩人も、あの音楽の素晴らしさを理解できないのかとがっかりしていた。
「そうです、以前の彼ならもっと純朴で美しい旋律を作り上げていたのに。フランスの華美で騒がしい音楽に変わってしまった」
「それって、音符が多いから?」
かねてより、モーツァルトが周囲の貴族たちから指摘されていた事だった。
「ああ、それだ!」
「……なるほどね。それで、僕にくれる詩は?」
モーツァルトは、年明けの一月に、音楽協会から三月の慈善演奏会で演奏するオラトリオの作曲依頼を受けていた。これにダ・ポンテ作詞の|《悔悟するダヴィデ》を提出するつもりなのだ。
(そうか、僕が求める音楽はまだ誰にも評価されない……ただ一人を除いて)
「愛するお父さん」
「え?」
「いや、何でもない」
そして一七八五年三月。一三日と一五日にこのオラトリオが演奏される。指揮者はサリエーリが行う事になっていた。
「ねえ、それ僕が指揮したいんだけど」
「私の指揮じゃ不満か?」
モーツァルトはサリエーリの指揮を拒否し、自分で指揮をする事になった。サリエーリは困った顔をするが、いつものモーツァルトのワガママだろうと思って好きにさせる。
(父親に変な事を吹き込まれているせいで、私を敵視しているのか。困ったものだ)
どうやってこの天才をなだめ、宮廷の評価を上げて自信を持たせてやろうかと考え、ため息をつくサリエーリだったが、モーツァルトはそんな彼を愛おしそうに見つめる。
(そうじゃない……リーバー・パパに僕の曲を聴いて欲しいんだ)
サリエーリとモーツァルトの二人は、この年の後半頃から特に仲良くしている様子が見られると弟子などから多く証言されている。
以前にも増してモーツァルトはサリエーリを訪ね、宮廷図書館の古い楽譜を見せてもらうようにねだるようになり、またスヴィーテン男爵が日曜に開く音楽会には二人とも常連となっていて、共に演奏し、歌い、笑いあったとサリエーリの弟子ヴァイグルが後に語るのであった。
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