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第一幕 若き宮廷室内作曲家の誕生

アルミーダ

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 サリエーリはいくつかのオペラを上演したが、結果は思わしくなかった。

「未熟な新人がそう簡単に人気を得られたら苦労はしないぞ。それに今の世の中、悲劇的なイタリア・オペラを書かなければ一人前とは認められないからな」

 そんなサリエーリにガスマンが語る。イタリア・オペラとは、その名の通りイタリア語で歌われるオペラで、その中でも後にオペラ・セーリアと呼ばれる、悲劇を主流とする格調高い貴族向けのものを作らなければオペラ作曲家として認められなかった。喜劇を主流とするコメディ的な作品は、オペラ・ブッファと呼ぼれるようになる。オペラ・セーリアの代表的な台本作家はサリエーリに詩の朗読を教えたメタスタージオだ。

 そのオペラ・セーリアにおいて改革を叫んだのがグルックであり、前述の通り技巧にばかり注力するのではなく劇として物語を伝える事に力を入れるべきだとしたのである。サリエーリはその思想に追従し、当時人気が衰えてきたメタスタージオ風のオペラ・セーリアではなく序盤で内容を先取りする新しいオペラ・セーリアを書くことにした。

 サリエーリが初めて作曲するオペラ・セーリアは、宮廷詩人マルコ・コルテッリーニによる台本の《アルミーダ》だ。この台本の題材となった物語は既に多くの作曲家がオペラ化しており、内容もよく知られている。同じ題材を用いた台本で作曲する事で他の作曲家との違いを示すのにも非常に都合がよかった。

「原作に使われた『解放されたイェルサレム』を読んでいたら、序曲のイメージが沸いてきました」

 サリエーリは物語を先取りした序盤を作るため、騎士ウバルドが魔女アルミーダの島へ渡る神秘的な空気から、島に渡り怪物を退け、断崖の上によじ上った時、静けさと霧の晴れた晴れやかさに包まれるイメージを音楽で表現しようと試みたのだった。

「新しい音楽を書くのは良いが、基本は決して忘れるなよ」

 ガスマンはそう言って釘を刺すが、もう既に一人の作曲家として歩き始めたサリエーリの作曲に横から口を出す事はなかった。出来上がった楽譜を見て指導をするだけに留めるようにしていたのだ。

「ただ物語を先取りするだけではダメだ。魔術的であり、英雄的であり、心を打つ愛情あふれる悲劇にしなくては」

 サリエーリは自分の中でオペラ・セーリアに『愛情あふれる悲劇』というテーマを掲げた。ただ悲しいだけの話ではなく、愛情のアリアを歌い上げるアルミーダの姿を描こうとしたのだ。

 この物語では、騎士リナルドが魔女アルミーダの罠にかかって囚われの身になり、勇敢な騎士ウバルドが助けに来るのだが、アルミーダはリナルドに恋の誘惑をし、島に留めようとしていた。ウバルドによって助け出されたリナルドは再び戦場に立つ事を決意するが、誘惑を拒まれたアルミーダが怒り狂う。

 このアルミーダ役が歌うアリアを、愛情あふれる表現とする事で、魔女をただ恐ろしいだけの存在から悲劇のヒロイン的な側面を持つ複雑な存在へと昇華させる試みを行ったのである。



 一七七一年六月二日。ヴィーンの劇場で行われた《アルミーダ》の初演は大成功を収めた。この日列席したハプスブルク家の高級官吏ヨハン・カール・フォン・ツィンツェンドルフ伯爵はこのオペラを絶賛する。ハプスブルク家は言うまでもなく皇帝ヨーゼフ二世の家系だ。

 次の日、ヨーゼフ二世は「ガスマンの弟子サリエーリが大成功を収めた」という手紙を弟のレーオポルト(トスカーナ大公)に送り、後ほど楽譜を送ると約束した。

 皇帝に認められたオペラ・セーリアは、ヨーロッパ中に広がっていき、その後約三〇年に渡って各地で上演される事になる。

「アントーニオ、まずは成功おめでとう。だが、この楽譜には数多くの欠点がある」

 見事な大成功を収めた《アルミーダ》だが、師ガスマンは楽譜に満足しなかった。様々な欠点を指摘されたサリエーリは、大成功を収め皇帝に認められたものの、まだ充分な自信を持つ事が出来なかった。

「師を満足させられなかった。私はまだまだ未熟だ、もっと研究しないと」

 若きオペラ作曲家は、更に質の高いオペラを書くための研究を続けるのだった。

「……すまないな、お前はもっと高みに至れる才能の持ち主なんだ」

 その夜、厳しい指導を受け落ち込むサリエーリの姿を思い出し、ガスマンは自室で一人呟く。弟子にこの成功で慢心して欲しくなかった彼は、あえて厳しく楽譜をチェックして欠点の指摘をしたのだ。



「成功おめでとう! 次は私の台本で成功させてくれよ」

「やあ、ボッケリーニ。喜んで引き受けさせてもらうよ」

 デビュー時から共に挑戦を続けてきたボッケリーニが、新たな台本を持って現れた。サリエーリは二つ返事でこれを受け取り、今回の教訓を活かした喜歌劇《ヴェネツィアの市》を作曲するのだった。これは《アルミーダ》を遥かにしのぐ大成功を収めることになるのである。
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