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EX-延長戦

幾千万もの言葉より-前編-

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 きっかけは些細なことだった。

 取るに足らない諍いから始まった師弟の口喧嘩は、次第にヒートアップし苛烈を極めた。

 もはや何が原因で争っていたかも忘れてしまうくらいがなり合った後、吐き捨てるようにお互いが相手を罵る。

「あなたのそういうところ、大っ嫌い!」
「お前も本当に進歩がないな、ナメクジですらもう少し学習能力があるぞ」

 下等生物にも劣ると言われ、一気に頭に血がのぼった少女はオズワルドの家を飛び出した。

「×××××!!」

 ニチカが出て行った後、最後に扉の外から捨て台詞らしきものが飛んできたがなぜか聞き取れず男は少しだけ眉を潜める。

 だが追いかけることはせず、ふてくされたかのようにソファに身を沈めるとそのまま目を閉じた。

 うす雲の広がる、爽やかな陽気の日の事である。

***

 天気とは裏腹にニチカの心は大荒れだった。
 天界へ向かうポータルに飛び込みながら叩きつけるように足元を踏み荒らす。

「もうほんっと嫌い! 何よチビって! 身体的特徴をいじるんじゃないわよっ!! 子供の喧嘩か!」

 見た目を引き合いに出されてはこちらから言い返せる部分が一つもないのが悔しかった。いっそハゲてしまえと心にもない呪詛を呟く。

 移動の青い光が収まり、視界の向こうに驚いた顔のシャルロッテが現れる。大声で叫んでいたのが恥ずかしくなり、聞こえてしまっただろうかと不安になったニチカは苦笑いを浮かべた。

「あ……っと、ごめんなさい。聞こえちゃいました?」

 大量の紙束を抱えるシャルロッテは長いまつげをふるわせ、二、三度瞬く。首を傾げた彼女は口を開いた。

「ルト、アールニムエッソ?」
「へっ?」
「テティウ、ソルノイアルキトロ」

 シャルロッテはいつも通りだ。金の巻き毛にキラキラとした緑の瞳、ふしぎそうな整った顔立ち。

 だがその口から飛び出ている言語だけがいつもと違った。まるで聞き覚えのない言葉の羅列にニチカはクラリとし、慌てて彼女の肩を掴む。

「どうしたんですか? 私の言ってること分かります?」
「ユノ? ハーウェイニチカ」

 かろうじて自分の名だけは聞き取れたが、その他がまるで意味がわからない。

 必死にジェスチャーを繰り返すと、まったく疎通が取れていないということが判明した。向こうの言葉がわからなければこちらの言葉もまるで伝わっていないようだ。

「なんでぇっ!?」

 慌てて彼女の手をひっぱりユーナの執務室に飛び込む。栄養ドリンクをがぶ呑みしていた女神は目を丸くしてこちらを見た。

「ユーナ様! 大変なんです、なんかシャルロッテさんがいきなりヘンな言葉を話し出して――」
「ブプルノッキンエイ アー――」

 お前もか、と絶望しかけた次の瞬間、ピンと来た様子のユーナの口からようやく理解できる声が発せられた。

「もしかして日本語でしゃべってる? うっわ懐かしっ!!」
「あぁぁぁやっと通じた!」

 ほっとして涙がこみ上げそうになる。

 だが、はて?と首を傾げる。日本語で喋っているのかとユーナは問いかけた。それはおかしい、先ほどまでシャルロッテを含めた全員が日本語を喋っていたはずだ。

 ユーナは理解不能な宇宙語で、傍らのシャルロッテと話し出したかと思うと「あー……」とこめかみを押さえた。

「あのねニチカ」
「はい?」
「ヘンなのはシャルちんじゃなくて、どうやら君っぽい」
「……ん?」

 どういうことか分からず、口角を上げたまま瞬く。

「シャルちんからすると、昨日まで普通に話していた君が、いきなりワケのわからん言葉を喋りだしてるんだと」
「ワケのわからん?」

 つまり、先ほどまで自分もあの理解不能な言語を発していたということだろうか。
 ありえない。

「そんなことないですよ、だってこの世界に落ちたときからみんな日本語で喋ってましたよ?」
「ニエルノー」

 ユーナが指示を出すと、心配そうにこちらを見ながらもシャルロッテが部屋を出て行く。

 厄介そうに頭を掻いたユーナは、真っ白い革張りの椅子に座りなおして言った。

「これはまぁーじでチョベリバだよ」
「ちょべ……え?」

 昨今なかなか聞かない言葉に反応が遅れる。
 あれ?と女神は顔をあげ目を細めた。

「チョベリバだよ、ちょーベリーバッドの略。言わない?」
「いや、かなり古いっていうか、平たく言うと死語っていうか……」
「そう? 僕もこっちの言語使うのウン百年ぶりだからなぁ」
「あの、ユーナ様っていったいどの年代からこの世界に――」

 素朴な疑問をぶつけると、彼女は慌てたように手を振った。

「いやいやいや! 誤解せんといて! 僕まだまだ若いからね! ナウなヤングだよ!」
「ナウなヤング……」
「ほら、わけワカメな事言ってないで君の言語問題だろ!」
「わけワカメ……」

 死語の連発に何とも言えない気分になっていると、ユーナは自分のケースを話し出した。

「僕の場合、召還されてまず真っ先に行ったのがこの世界の言語を習得することだったんだ。そりゃ必死にもなったよ、最初に覚えたのが『元の世界に帰せよ、毟るぞ』だったから」
「それが最初の言葉ってのはどうかと……じゃあ最初から意思疎通が出来たわけじゃなかったんですか?」
「あたり前田のクラッカー。異世界だよ? 日本語なんてありえないって」

 まずそこから違う。自分が最初に出会ったのはウルフィだが、普通に日本語で会話をしていた……というか自分は日本語のつもりだった。

 少し考えたニチカは可能性の一つを上げてみた。

「私をこの世界に召還したのはイニだった、彼が通訳するような魔法でもかけてくれたのかな」
「それだ!」

 パチンと指を鳴らしたユーナは「どっこいしょういち」と呟きながら立ち上がると、イニをいつも設置してある台座に向かい――

「あ」

 動きを止めた。
 本来そこに鎮座しているはずのクリスタルはもぬけの殻だった。くぼみだけを残し赤いクッションだけが置かれている。

「しまった、あんまりうるさいから捨てたんだった」
「捨て……っ」

 神なのに、恋人なのに。そんな「場所とるから燃えるゴミの日に出しちゃった」のノリで言われても。

 人格を疑うような視線を感じたのだろう。女神は弁明するように苦笑いした。

「あ、あー、平気平気! 捨てたって言うかウルっちにあげただけだもん」
「ウルフィに?」

 満面の笑みで尻尾を振る茶色のオオカミを思い浮かべる。そういえばここ数日やたらとご機嫌だった気がする。ユーナ様にいいもの貰ったんだ!とも

「いやぁーあの子ホント可愛いわ。純粋だしモフモフだしモフモフだし」
「じゃあイニは今ウルフィが持ってるんですね?」

 コクンと頷いたユーナは立ち上がり出かける準備を始める。いつもの白いローブを羽織るとボタンを留めながら尋ねた。

「今日ウルっちはどこに?」
「確かテイル村まで行くとか言ってたような」
「あぅ、よりによってポータルが無いところに」

 窓を開け放った女神は、短くピュイッと指笛を吹いたかと思うと窓枠にヒラリと飛び乗った。すぐに飛んできた黒竜にまたがりながら短くこちらに指示を出す。

「僕はヴニで飛んでいくから、君は一応オズワルドのとこに居ないか確認してきて。解決策が見つかったら魔導球に連絡いれるから」

 じゃあ、と軽く手を上げて彼女は行ってしまった。

 一人残されたニチカは窓を閉め、舞い上がった書類をかき集めてから少しだけため息をついた。

「飛び出してきた手前、気まずいなぁ……」
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