眠らぬ夜空に陰る朧月

叶けい

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第五話 誕生日は特別な日だから

scene5-3※

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-慶一-
オートロックの扉の奥には、見た事のないようなパノラマの夜景が広がっていた。
「すっご……何だこれ」
窓辺に近寄る。高層ビルからこぼれる明かりは、まるで宝石箱を覗いているみたいに綺麗だった。
「まじでここに住んでるの?」
信じられない気持ちで聞くと、はい、とあっさりした返事があった。
「父親の名義ですけどね。このマンション自体、うちの会社の持ち物です」
「まじで」
「少し前まで、関係ない場所に住んでいたんですが。まあ、今は管理も兼ねてここに住んでます」
「へえ。モデルルームみたいな部屋だな」
部屋の中へ目を向ける。一体何人座れるのかというくらいの大きなソファが二つあり、足元には毛足の長いラグが敷かれている。奥にはシステムキッチンがあるが、この男が料理なんてするんだろうか。
「どうですか、夜景は」
「ああ、綺麗だな。毎日こんなところで生活してたら落ち着かなさそうだけど」
「ほとんど寝に帰っているだけなので」
「そう」
もう一度、ガラス窓の向こうを見た。ライトアップされたスカイツリーがすぐ近くに見える。展望台があんな高さに見えるという事は、相当ここの階層が高いという事だろう。前に会社に連れて行かれた時同様、エレベーターの階数表示が省略され過ぎていてここが何階だか分らないが。
―カサ、と紙が擦れあうような音がして振り向いた。
「何、それ」
どこから持ってきたのか、柳さんは真っ赤な薔薇の花束を手にしていた。
「プレゼントです」
「え?」
「今日、誕生日なんでしょう?」
「なんで……」
驚いて聞くと、少し気まずそうな顔をされた。
「ごめんなさい。この間トイレと間違えて、隣の部屋に入ってしまったんです。そしたら、カレンダーに書いてあったから」
「ああ……」
透人の部屋に置かれたままのカレンダーを思い浮かべる。律儀な彼はきっと、新しくカレンダーを買うなりすぐに書き込んでいたんだろう。
彼氏の、誕生日を。
「こんなものしか思いつかなかったんですけど。あなたには、赤い薔薇が似合いそうだと思って」
「いや……ええと」
どうぞ、と差し出されるまま薔薇の花束を受け取った。
「誕生日、おめでとうございます」
かちり、とライターが音を立てる。ソファにもたれて煙草の煙を燻らせる彼を、一瞬だけ見つめた。すぐ目を逸らす。
「……ありがと」
「いえ」
長く息を吐き出す気配を感じながら、そっとガラス窓に指を乗せた。ひんやりとした感触。
「気に入っていただけましたか」
「うん、すごいな」
素直な感想が口をついて出る。改めて、眼前に広がる夜景を見た。
「これを"こんなもの"呼ばわりとは、お前の恋人はどんなすごいプレゼントを貰ってたんだろうな」
一瞬、間が空いた。
「……それは」
「悪い」
言いかけた言葉を遮る。
「今の無し」
いつも彼がポケットに入れている携帯灰皿が、パチンと音を立てて開く気配がした。煙草を押し付けて再び蓋を閉めると、柳さんは俺の隣に立ち、夜空を見上げた。
最初の誕生日は、と低い声で話し始める。
「こんな風に夜景を見せて、花火を上げてもらいました」
「花火ぃ?」
「はい。誕生日を祝う時は、ケーキに花火だって言うから。一緒に花火を見た後で、ホテルのルームサービスで誕生日ケーキを用意しました」
「……それ、何か間違ってない?」
「はい。意味が違ったらしくて、思い切り笑われました」
元恋人の事を思い出したのか、柳さんの表情が柔らかくなる。
「花火とケーキ、と言われて分かります?」
「分かるよ、よくカフェとかでやってるサービスだろ?俺も昔」
言いかけ、透人の顔が浮かんで口をつぐんだ。気づかれたのか、苦笑いをされた。
「慶一さんも、経験があるんですね」
「まあ、な。色々やったよ」
胸に抱いた薔薇の花束に視線を落とす。何気なく本数を数え、真顔になった。
「十二本って。お前、意味分かってんのか?」
「いえ。どういう意味でした?」
「プロポーズの時に贈る本数だろ、これ」
「そうなんですか?」
本当に何も考えていなかったのか、柳さんは驚いた表情をした。
「花束に丁度いい本数と思っただけなんですが、プロポーズですか」
「別れた恋人を忘れられない奴からもらうには、冗談きついプレゼントだな」
脳裏に、会社で見てしまったシルバーのリングが浮かぶ。
一体いつ別れたのか知らないが、リングの裏に刻まれた日付は随分と前だった。
「すみません、無知で」
「いや、いいよ。ありがとう」
柳さんが、小さくため息をついた。
「ほんと、だめですね俺。いつも、肝心なところで格好がつかなくて」
ふ、と思わず笑ってしまう。
「何でもそつなくこなしそうなのに、実は不器用だなんて意外だな」
「あなたこそ。気を許してくれると、そんな優しい表情をするんですね」
言われ、頬が緩んでいたことに気づいて誤魔化すように目を逸らした。眼下に夜の気配を濃くした東京の街並みが見える。
不意に、ムスクの香りが強くなった気がした。
顔を上げたら、随分近い距離で目が合った。キスされる気配を感じて目を閉じる。
もう慣れた、柔らかな感触が唇を塞いでくる。吐息から少し、苦いタバコの香りがした。
いつもならすぐに歯列を割って舌を絡めてくるくせに、何故か今日はそうしてこなかった。
唇を重ねる位置を確かめるかの様に、何度も触れては離れてを繰り返す。
一度深く重ね合わせ、ようやく離れたタイミングで目を開けたら、じっと見つめられていたので戸惑った。
「これ、何のキス?」
探る様に聞くと、いつも何を考えているのか分かりにくい彼の表情に、僅かな変化が見えた。瞳が揺れる。
「……さあ」
「さあ、って。」
「分かりません。ただ、キスがしたくなりました」
「何だよ、それ」
至近距離で見つめられる。何を言っていいのか分からず黙っていると、寝室は奥の部屋です、と掠れた声が振ってきた。

***
寝に帰っているだけ、と言う割には立派過ぎるキングサイズのベッドに、深く体が沈み込む。
ひんやりとしたシーツの端を強く握りしめる。たちまち皺が寄っていく。その上に、青く血管の浮いた大きな手が覆い被さってくる。
シーツを握っていた指をほどかれ、代わりにしっかりと関節の太い指が絡んできた。
詰めていた息を吐き、強張っていた腿の力を抜く。途端に体の重みを感じて、堪え切れず喉の奥から声が漏れた。
「慶一さん……」
何故か、苦しげな声で名前を呼ばれた。きつく瞑っていた瞼を開く。
「なに?」
返事をしたら驚いたような顔で見てきたから、別に意味は無かったのかと思い、再び目を閉じた。
耳元に顔を寄せてきたと思ったら、また名前を呼ばれた。何度も、ほとんど息だけの声で、何かを堪えるように。
何だっけ、この人の名前。……ああ、そうだ。
「まさ、たか……?」
呼ぶと、筋肉質な腕で強く抱き締められた。汗ばんだ首筋に触れてみる。顔を上げて、目が合ったと思ったら柔らかく唇を塞がれた。
―いつもは、ただひたすらするべき事をしているだけのくせに。
そんな切なげな目で見つめて、大事なものに触れるような手つきで、髪を梳いて。
今更、感触を確かめるみたいに、何度も角度を変えながら唇を重ねては離して。
忘れられないくせに。いつまでも引き出しの中に、元恋人との思い出をしまったまま、本当は今でもその人の事を想っているくせに。
こんな風に優しく扱われたら、まるで恋人同士の睦事みたいじゃないか―……。
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