上 下
7 / 8
第一章 悩める大人たちの狂騒曲

夜明け前の大騒ぎ(2)

しおりを挟む
 街は、ほぼ廃墟である。まともな家は、一軒もない。壁には穴、屋根は半壊。窓ガラスは割れている。何とか立っている家ですら、まるで戦闘か災害にでもあったかのような崩壊ぶりだ。
「ここまでとはねぇ…」
 大地に立って、周りを見渡す中年の男がそうつぶやくと、二十歳になったばかりの青年が、草もほとんど生えてないですねとあたりに目を凝らす。大地はひび割れている。ただ、山の方だけが不自然なほど木々に覆われており、青年は首を傾げた。
「何であんなに山だけ茂りまくってるんですか?所長」
「鉱山があるからだ。石が緑を繁栄させる。掘りつくされていても、魔法石の鉱山は死なないからな。やがては復活すると聞いたことがあるが…そのために魔力の強い人間を生贄にしたという言い伝えもある…」
 青年はへぇと言いながら、あり得ない話でもないと思っていた。

「よくもまあ、ここまで破壊しつくしたもんだな」
 荷馬車の御者台からたくましい体の男が呟く。幌の上から、小柄な女性が苦虫を噛んだような顔で言った。
「王家は何を企んでるのかしらね。ドラグーンはある意味でこの国にとっては要のはずだけど…」
「どういう意味だ。エレン?」
「ドラグーンの崩壊は、ルシフィール王国の崩壊という古い言伝えがあるのよ。アリスベルガー子爵家誕生にも関わることだとし、まあ、これ以上は言えないけど」
「エレンさんは…どこからそんな怪しい情報とってくるんですかね」
「あいつは好奇心の塊だからな。潜り込めるところには、どこにだって潜り込むんだよ…マリーの情報収集は広範囲に人を介すが、あいつは個人的に知りたいことは、どんな場所だろうと単身乗り込んで調べまくるタイプだからな。公爵家や王家の心臓部にでも入り込んだんだろうよ」
「いやぁ…それは無理でしょ。エレンさんの魔力が高いことは知っていますけど…」
「無理や無茶をやってのけるから、あいつは敵にしたら怖いんだよ」
 エレンは幌から飛び降りて、所長の背後に立つ。
「若者に変な先入観いれないでよ。今は魂からこっち側だから」
「…ま、どっちでもいいさ。お前さんが選んだ人生だからな」
 二人の会話の意味がわからなかった青年は首を傾げたが、何か追及してはいけない話な気がした。
「おい、これからどうする?そのうち、日が暮れるぞ」
 御者の男にそう言われた三人は、鉱山の方に目を向けた。
「そうだな、俺たちはマリーにあってくるよ。ダミアンは館に行って、ラフィード君に到着の報告と、テント張りやってもらっていいかい?」
 所長はそう言いながら、幌の中の荷物をいくつか下ろした。エレンは手早く青年に背負子を取り付け、シェルパのごとく荷物を担がせた。細身の青年は、ぐらつきながらも踏ん張っている。
「エレンさん…これで登山は無理です。せめて、ご自分の荷物は持ってください」
「アンバーはひ弱ね。やっぱりセドールに来てもらうべきだったかしら」
「セドと同じ扱いしないで~。僕はもともと書類方面の人間なんですよ。鍛え方が全然違います!」
「エレン、あんまりいじめるなよ。こいつの植物愛は貴重品なんだからさ」
 エレンはへいへいと言いながら、自分のトランクをアンバーの背中から外してやった。

(うわぁ…一気に軽くなったよ…エレンさんの荷物って何が入ってんだろう?)

 気にはなるが口には出さない。エレンには色々と黒い噂があり、現在のアリスベルガー子爵家当主であるフローラ・アリスベルガーに差し向けられた刺客だったとか、他所の領地からクエラドールの繁栄の秘密を盗みにきた盗賊だったとか…とにかく、犯罪者だったという噂がここかしこから聞こえることが多い。ただ、植物研究所の人間はエレンにまとわりつく黒い噂を『だったら、なんだ?』とくだらないと一蹴してのける。新人のアンバーとしては、まだまだその域に達することはなく、むしろ生来の好奇心が疼くのだが、あまりに噂が黒すぎるため、下手に触れてエレン自身や周囲を怒らせる気にはならなかった。

 アンバーは背負子を軽くゆすって、体にしっかりと密着させた。そして、ふっと振り返ると、ものすごい勢いのある馬蹄の音が近づいてきた。音が聞こえたと思ったら、もう目と鼻の先に炎を背負ったような漆黒の馬の姿が見えて、それがどんどん大きくなった。尋常でないスピードにアンバーは驚いていたが、所長もエレンもダミアンも、お互いに目を合わせて苦笑していた。
「やっぱり来たか」
 所長はそうつぶやく。
「そりゃ、当然でしょ」
 エレンがそう答えたころには、彼らの目の前に馬が足を止めていた。馬上の人物は夕日のようなオレンジの髪を振り乱したまま、馬から颯爽と降りる。真っ赤な上着に、なぜか、鼻から下を黒い布で覆っていた。

「一番乗りだと思ったら…グラシードに負けちゃったわよ。ルル」
『準備に手間取ったあなたが悪いのよ。カーラ』

 わかってるわよとぶつぶつと文句を言いながら、鞍に下げてあった革袋を外す人物を見て、アンバーが呟いた。
「馬が…しゃべった?」
「あら、知らないの?」
 エレンがちらりとアンバーを見上げて言う。
「まあ、知らんのが普通だ。アンバー、あいつは神馬ユニだ」
 アンバーは盛大にえー!!と叫んだ。

『うるさい子ね。クエラドールの人間なら、あたしの噂くらい知ってるでしょ』
「噂と本物の違いなんて知りませんよぉ…ああ、でも確かに額に赤い蓮のようなものが…」
『やぁね、そんなにジロジロ見ないで頂戴。恥ずかしいじゃない』

(照れてる…なんか…神聖な雰囲気が全然しないんだけど…)

「ルル、若い子相手に遊ばないの」
『あら、焼きもちなんてみっともなくてよ。カーラ』
「そんなわけないでしょ」

 アンバーは、首を傾げた。女性同士の会話に聞こえているが何故だろうと。どう見ても、人間の方は男性だ。声も低い。馬の方も声が低い。そして、またかという冷たくも飽き飽きしている視線にアンバーはぶつかる。オレンジ色の瞳を細めて、カーラは軽いため息をついた。

「お初にお目にかかります。マダム・スカーレットの店主カーラと申します。お見知りおきを」
『あたしはルルよ。よろしくね。坊や』
「あ、はい。えっと…植物研究所のアンバーです…」
 アンバーは、反射的に自己紹介と会釈をした。

「礼儀正しくて結構だわ。グラシード。あなたたち、マリーのところに行くんでしょ」
「ああ、今、荷を下ろしたところさ。で、お前はなんで寄り道してんだ?」
「奥様からの伝言と薬を頼まれたの」
 そう言ってカーラは袋から、小型の薬箱を取り出して、グラシードに渡す。
「鉱山病に詳しい医者を中心に医療団を派遣してくださるそうよ。少し時間がかかりそうだから、応急処置ができる鉱石薬と説明書をその箱に入れてくださったの」
「なるほど、こっちも色々準備はしてきたが、心強いな」
 グラシードは、大事そうに箱を撫でた。
「明後日には、大量の古着も届くから、領民に館に取りに来るように伝えてね。じゃ、よろしく」
「了解」
 カーラは颯爽とルルにまたがり去って行った。
 アンバーはポカーンとした表情で、その姿を見送る。マダム・スカーレットと言えば、国中の貴族から商人まで注文が殺到するほどの洋品店だが、決してクエラドールから、拠点を移すことはなく、他の領地に支店を出すこともしない。各地のお針子たちにとって、王都での一番の店で働くよりも憧れの店だと言われている。

「あの人…男性ですよね」
 アンバーはぽつりとつぶやく。
「まあ、外側はな」
「そうね、でも、服のことになったら乙女よ。その想像力と創作力は神がかり。今は、才能のある子たちが、男女問わず、あの店で働いてるわ」
「まあ、ここにも人の姿をした植物がいるけどな」
 グラシードはアンバーをみて笑った。エレンも確かにと笑う。微妙な表情のアンバーだが、要するにクエラドール流の褒め言葉だと思った。何かに夢中になれる人間をクエラドールでは、尊重する。アンバーは元々、別の領地で生活していたが、口減らしに旅芸人に売られてクエラドールにやってきたのだ。最初は、戸惑うことが多かったが、慣れれば快適な生活のできる場所だった。

(常識はところ変われば非常識…旅団長の言葉に嘘はなかったなぁ)

 芸事がまったくできなかったアンバーを、クエラドールの孤児院に置き去りにしてくれた旅団長には、今も感謝している。旅芸人が芸を披露するには、領主の許可が必要で、広場一つを借りるだけで、収益の半分を取り上げるところもあったし、街中で興行することを許可しないところもあった。だいたい、そういう所は、孤児院や教護院のバザーに協力することで、興行を許可することが多い。クエラドールの場合、広場に自由市が出ていなければ、使用の許可は下りるし、場所代を取られることもない。アンバーが、孤児院に置き去りにされたときは、たまたま、広場には自由市が出ていて、領主が孤児院を使っていいと許可をくれたからだった。

 あの日のことをアンバーはよく覚えている。孤児院での興行だと言われて、いつもなら、どこかがっかりする大人たちの顔が、うれしそうにほころんでいたからだ。孤児院で興行となると、収益は広場での興行よりはるかに下回るし、孤児院から寄付を頼まれることも多い。
 ところが、クエラドールでの興行は三日間大盛況で、お金だけでなく、食料や演劇の衣装として使えそうな服も手に入った。一番驚いたことは、孤児院の子供たちの身なりだった。襤褸をまとっている子供は、一人もいない。新品ではないのだろうが、古着にしては綺麗すぎだし、男の子がスカートをはいていたり、女の子が半ズボンをはいていたり、各々がとにかく好きな格好をしていた。まるで、仮装でもしているかのようだった。

 アンバーが孤児院で暮らしはじめて、すぐにわかったことは、下着以外の服はサイズが合うなら、何を着てもよいということだった。勉強の時間は午前中だけで、基本的な読み書きや計算、魔法について習う子と、専門家の話を聞く子に別れていた。午後からは、孤児院内で過ごす子や外出届けを出して、出かけていく子もいた。アンバーも孤児院の生活に慣れ、基本的な学習を終えると植物図鑑を眺めたり、外出届けをだして、実際の植物を観察するのに夢中になって帰宅時間に遅れることがよくあった。外出届けに書いた時刻までに戻らなかったら、罰として大人の手伝いをしなければならなかった。といっても、ほとんど、罰といえなかった。手伝うというより、教わっていたのだ。生活することに欠かせない料理や洗濯や掃除の仕方を。

(まるで、天国と地獄みたいだ)

 荒れ果てたドラグーンを眺めれば、眺めるほど同じ国とは思えないし、クエラドールの豊かさが異常なのかもしれないとさえ思えてくる。

「それじゃ、俺も館に行く。マリーによろしくな」
ダミアンがそう言って、馬車が動かし始めた。アンバーは、はっと我にかえる。グラシードとエレンは、軽く手を上げて見送ると、坑道への山道を登り始めた。

「なんで、同じ国なのにこんなにひどい状況になっちゃたんでしょうか…」
 アンバーは、山道を登りながらぽつりとつぶやく。
「領主の器が違うのよ。根本的にね」
 エレンがそう答えた。どういう意味だろうと、俯けていた顔をエレンの方に向けると、彼女は何か苦虫を噛んだような表情になっている。
「人間を人間として扱うか、道具として扱うか…。ただそれだけの違いなんだがな」
 グラシードも残念そうな顔でそう言った。
「ま、今はここを人が暮らせる領土に戻すことが先決よ。あんたはしっかり植物のことを考えなさい。この土地を緑でいっぱいにしてやるくらいの気概でね」
「そうそう。俺たちは俺たちのできることを全力でやるためにここにきてんだ。余計なことは、考えるだけ無駄さ」
 エレンとグラシードにそう言われて、アンバーはそうですねとつぶやいた。

 何がいいとか悪いとか、それはアンバーが一人で考えたところで、何の足しにもならない。今は、とにかく坑道にたどり着いて、マリーと合流し、山に生えている植物やこの土地で育つ植物のことを考えるのが一番大事なのだ。アンバーは、ぐっと足に力を入れて、一歩一歩踏みしめて山道を登った。


 ルルは駆けるのをやめて、ゆっくりと歩を進めた。
「どうしたの?」
 カーラが尋ねると、ルルは悲し気に言う。
『酷すぎて、涙が出そうよ。見て、水路に水が通っているのに、農地が水で潤っていないでしょ。草すら生えていないわ』
「確かにね。これを緑で埋め尽くすなんて、何年かかるかわからないわね」
『何年なんて生温いわ。百年かけても元に戻らない可能だってあるわよ』
「まさか…それが本当なら、ルーシェ様は一生かけてこの地に縛られることになるじゃない」
『その程度で済めばいいけど、ここから荒廃が広がって国そのものが滅びる可能性が大きいわ』
「…そんなにひどい状況なの?」
『ええ、大地の力が死にかかってもるの。きっと、無茶な魔法石の乱用をしたのね。手遅れにならなければいいけど』
「ならないわよ」
 カーラは力強く言った。
「植物研究所の連中は絶対に全力で打ち勝つわ。ルルは心配しすぎよ。未来にはいくつもの道があるってあなたいつも言うじゃない」
『そうね…確かに未来にはいくつもの道があって、誰かの行動一つで進んでいく方向が変わっていくわ。それでも…』
 ルルは、初めて未来が大きな黒い雲に覆われて、道が閉ざされていると感じていた。クエラドールにいた時は、常に明るい道が多かった。道が閉ざされていたり、見えなくなったりしたことはない。カーラとともにクエラドールを出た時でさえ、まだ未来への道は見えていた。見えていた道は、良いとは言い難いがそれでも進むことができる道だった。
「ルル。未来の見えるあんたには悪いけど、あたしは幸せを掴みにいく人間がいる限り、世界が滅びるなんて思わないわ。ま、国がどうなろうと知ったことじゃないし、アリスベルガー家やクエラドールに害が及ぶって言うなら、誰も黙っちゃいないわよ。現にこうしてあたしたちは動いてるじゃない?違う?」
 ルルは、そうねと答えた。神馬ユニは、未来に起きることを三つ人に告げると、命が絶える。そして、滅多に生まれてくることはない。現在、ルシフィール王国に存在している神馬ユニは、王家とその影であるステラティオ公爵家に一頭ずつ。どちらも白馬で、額に蒼い蓮の花の形をした鱗がある。黒いルルは、それだけでも異端だし、沈黙を守る他の二頭とは違い、誰とでもおしゃべりをする。ただし、未来について明確に答えることはない。ルルが生まれた時、自分の未来は一つあることを告げたら終わるのだと悟っていたはずなのに、幼いフローラが生まれたてのルルの体を必死で藁で拭い、死んではダメと言い続けるのを聞いて、未来を告げることが出来ず、死にたくないと声が漏れたのを覚えている。

(あたしは、あの時点で神馬ユニの資格を失ったんだわ)

 だったら、この雲のかかった未来への道は、本来の道ではないはずだ。そう思っていたルルの首筋をカーラが優しく撫でた。
「何が見えてるのか知らないけど、おしゃべりじゃないルルなんてただの馬以下だわ。ほら、しっかりしなさいよ。あんたが元気ないとあたしがつまらないでしょ」
『わかってるわよ。それじゃ、一気にお屋敷までいくわよ。舌噛まないように、口は閉じてらっしゃい!!』
 ルルは、一気に走り出す。カーラは、しっかりと口をつぐんで、振り落とされないように体制を低くした。

(誰が見てもドラグーンの大地は異常だ。ルルが不安になるのもわかる。それでも、ここに集まる人間は、希望をすてない。捨てることができなかったからこそ、きっとここに来る!!)

 カーラは自分にも言い聞かせるように、心の中でつぶやいた。


 ダミアンもゆっくりと馬車を走らせながら、農地の様子を観察していた。夕日に照らされた水路の水は美しく輝いているが、小魚の姿もない。水辺に繁殖する草も、水草さえも生えていない。それほどに、大地が荒廃している。ダミアンは、深いため息を吐く。その耳元に囁く声があった。

『水の精霊は、鉱山に隠れ住む領民や警備隊がいることで循環が止まっていないから、さほど苦しんではいないようだ。問題は大地の精霊たちだ。ほとんどが眠りについておる。これを復活させるにはかなりの時間と魔力がいるぞ』
「見ればわかるさ。そんな状態なら、魔法石を混ぜた肥料は使えないな」
『ああ、逆効果だ。とはいえ、人間を埋めれば少しは、復活が早まるかもしれんぞ』
「馬鹿いうなよ。そんなことフローラ様やルーシェ様が許すわけがない。薬草と動物のフンをうまく混ぜ合わせて肥料を作り出すしかないだろうな」
『…それでは百年待っても元にはもどらんぞ。人間の時間では無理だろう』
「そう侮るな。お前こそ、良く知っているだろう。今でこそ、繁栄を極めているが本来のクエラドールがどんな有様だったのか。俺や娘にさんざん見せてきたじゃねぇか」
『あの時代は、まだ、お前たちの先祖がそれなりの数いたからな。土台を作るのに異界の力を借りることが出来た。だが、血族はほとんどおらん。術の継承者もおらぬ』
「それは、それでいいと、お前も納得していたんじゃないのか」
『していたさ。こんな土地を見せられるまではな。新しき者たちは、また、愚かな道を進むつもりか?そのために、我々のいとし子が犠牲にならねばならぬのか?』
「そんなことはさせん。俺はそのためにきたんだ。お前をつれてな。万が一にも、ルーシェ様のお命にかかわるようなことがあれば、封印を解くまでだ」
『いいだろう。その時は、しっかり付き合ってやるさ。わしも、いい加減長生きに飽きてきたからな』
「そうか、どうせなら、もっと長生きすることだな。ルーシェ様の孫ぐらい拝んでも罰は当たらんぞ」
『お前も口が達者になったな。…それが一番いいことだろうがな。しかし、あの噂とこの現状…』
「なりそこないが、何かしていると思うか?」
『あり得んとは言えんな。大地の精霊をここまで追い詰めるには、魔法石の肥料の調合に禁忌の法を使ったとしか思えん。他に何か新しい方法を見つけ出した者がおったとしても…果たして、ステラティオ家のものどもが見過ごすかどうか…』
「王家の敵には容赦がないからな…他の公爵家ほど名が知れていないのも、血塗られた一族らしく徹底的に世間を欺いているからだろう」
『わしらと変わらぬということか?』
「さあな。俺たちは自分の意志でアリスベルガー家に仕えている。ステラティオ家が同じなのか、それとも何らかの拘束力によるものかはわからん。エレンの話だと、貧しい民の中から魔力が強く、偏りがあるものを養育して利用しているらしいからな。もしかしたら、真の王家はあいつらかもしれんぞ」
『ふん、それはそれで、内乱にでもなって自ら潰れるがよかろう。だが、下らぬ権力闘争にいとし子を巻き込むなら、それなりの代償は払ってもらうがな』
「単独行動はするなよ。嫌われるぞ」
『言われんでもせぬ…』

 声はそう言い残して消えた。ダミアンは、『声の主』の言葉を真に受けてはいない。単独行動はしなくとも、この国に住む精霊たちを動かすことくらいはするだろう。十歳のエレンが、アリスベルガー家の秘密と秘宝を盗みに入った時も、相当数の精霊が動いていた。彼らにとって『声の主』の命令は絶対だ。アリスベルガー家の秘密と秘宝を狙ったもので、生きている者はいない。幸い、エレンは命を取り留めて、暗示の魔法も解かれたし、フローラの願いに『声の主』が答えて許しを与えたから、彼女は植物研究所の職員として働いてはいる。ただ、もっとも冷酷な気性の闇の精霊たちは絶対命令とは言え納得できず、気を荒立てていた。『声の主』は他の精霊たちに影響が出てクエラドールだけでなく、この国の変異に結びつくことを嫌ったため、彼らにエレンの影に潜むことを許可した。それはエレンにとって常にナイフを首に突きつけられているようなものだが、本人は特に気にする気配はなく、闇の精霊たちも、静かに彼女の動向を見張っているだけで、彼女を傷つけることはしていないようだった。

 ダミアンも『声の主』が何かは知らない。神なのか、精霊の王なのか、その正体はわからない。ただ、代々彼の一族とともにあり、アリスベルガー家をこよなく愛する者であることはわかっている。
 『声の主』は、ダミアンに過去の全てを見せ、そして表向きはアリスベルガー家の庭師となり、裏で守り人としての秘術を受けいれるかどうか決めるように言ってきた。ダミアンの父は、息子に好きなことがあれば、それを探求して生きて行っていいと常々言っていたが、結局彼は、父と同じ守り人になる決意をした。そして、娘のアニスコットにも自分の父親と同じことを言って育ててみたが、結局、同じ道を歩いている。
 アニスコットは、受け入れる決意をしたときに言った。
『父さんの代でも、あたしの代でも、その先でも秘術は使われることなんてないわ。それが起きるということは、人間のすべてがケダモノになるということよ。この世に、アリスベルガー家やクエラドールの人たちみたいに自分の幸せに向き合う勇気のある人々がいる限り、そんな悲劇は起きないわ』

(確かにそうかもしれん。だが、ドラグーンの荒廃は異常だ。人をケダモノにしたとしても不思議はないほどの、酷さだ。だから、油断はできない)

 ただの『なりそこない』が、この事態を招いたのだとしたら、『悲劇』は避けられる可能性が高いだろう。しかし、今はまだ敵の正体が見えない。この国を滅ぼしたいのか、世界そのものを壊したいのか、その目的も動機も不明だ。そして、相手の検討すらつかないダミアンがすべきことは、着実に敵の正体を見極めることであり、対処することである。最悪の事態ですら、想定しておかなければ、守り抜くことが出来ないことを彼は知っている。遠いはずの過去が、彼の中では今起こっていることのようにありありと脳裏をよぎるのだ。それが、秘術を継いだ者の宿命でもある。

 彼らが受け継ぐ過去。それはルシフィール王国誕生の百年目にして起きた悲劇。

 一般的な歴史には、土着の民であった召喚術師たちの大切にしていた子供を酔った貴族が惨殺して、内乱が起きたとなっている。しかし、事実は違った。当時の王であるメルドア一世が召喚術師を排除する法律を立て、それを庇う領主の首をはねろと命じたのがきっかけである。

 ルシフィール王国は、もともとドラグーンの向こうからやってきた異民族とこちら側に住んでいた民族との融合によって生まれた国だった。

 全ての始まりは、魔法を使うことのできない民であり、召喚術という不思議な術を使う一族が、血縁が濃くなるのを防ぐため、異界の人間を召喚することで、近親婚を防いでいたのだが、当時の族長が『我々が亡ぶべき時を迎えているのだろう』と、この世界に馴染めず命を絶つ異世界人を憐れんで、これ以上の犠牲者を出すことを禁じた。
 もちろん納得できない者もいたし、召喚を止めない者もいた。だが、召喚された新たな異界人との間には子どもが生まれることはなかった。そうやって滅びを待つしかなくなった彼らが、絶望していた頃のことだ。ドラグーンの険しい山を越えて、襤褸をまとった異民族がやってきたのは。それは戦いに敗れ、逃げるように新天地を求めてやってきた魔法を使う民族だった。族長は、彼らを受け入れることで、滅びを回避する決断を下し、二つの異なる民族は生き残るために、交わるようになった。

 やがて、ルシフィール王家を築くことになるビルギットが誕生し、各地に散らばっていた様々な勢力が、彼のもとに統合されはじめたとき、文化的なことや社会的な規範は、ドラグーンの向こうから持ち込まれたものが多く残り、召喚術師たちの規範は古いものとして排除されていった。それでも初期の王家では、召喚術師に異界の種や生き物を呼び出させて、こちらの世界のモノと掛け合わせ、そこから利益を生み出すことで権力を保持し、反乱や内乱に対しても彼らに力を借りて、平定して乗り越えた時期があった。だが、王家の権力が安定し、貴族と平民の区別が明確になりはじめてくると、召喚術師はお払い箱になり、魔法の技術を強化していく流れになっていった。

 召喚術師たちは、そんな王家や貴族とのかかわりを嫌って、山や海の近くに住み着いて昔ながらの穏やかな暮らしをしていた。それでも、多くの人が召喚術師のところへやってきてた。珍しい物を欲しがる商人や薬草の処方をしてほしいという者、魔力が弱いから召喚術師になりたいという者まで、様々な人間が集まってきた。術師たちは、薬草の処方や病人の面倒はみたが、商人の要求には答えず、弟子もとることはしなかった。信頼できる家族だけが、術を継承し、薬草の処方や鉱石の扱い方を学び、生活を続けていた。だが、そんな召喚術師たちは、ある日突然事故にあったり、急な病死をすることが年を追うごとに増え始めた。時代はすでに、召喚術師として生きることを止め、農民や商人として新しい制度に馴染み、自分のルーツを知らない者たちも多くなったころである。

 隠れ住むように、生きていた召喚術師たちは、急な病死や事故死を滅びていく運命であるとして受け入れていたが、アリスベルガー家の周辺で変死を遂げる術師が増えたことと、メルドア一世の発した召喚術師を排除する法律に、各地に散在して静かに暮らしていた彼らは、抗議の声を上げた。
 各地から続々と王都に集まり、召喚術師は放っておいてもやがて滅びる。静かな暮らしを奪わないでほしいと訴えた。しかし、メルドア一世は容赦なく彼らを惨殺したのである。そして、召喚術師を保護している貴族への見せしめとした。

 当時のアリスベルガー家は、ルシフィール王国建国に尽力した公爵家の一つだった。当時の主であったレアルジーンは、この一件を収めるために、最も繁栄していた自らの領地を王家に差し出し、公爵である爵位を子爵へと降格されること、南西の海沿いにある荒れた土地・クエラドールのみを領地とすることを約束して、わずかに生き残った召喚術師とともに移住した。そして、メルドア一世の急死に伴い、北に位置していた王都は、アリスベルガー元公爵領に移され、現在に至る。

 アリスベルガー家は、召喚術師たちに術の継承を禁じ、薬草や鉱石の扱いに専念させ、農業や漁業に従事させた。クエラドールは、十年とたたずに、豊かな土地となり、そして、召喚術師惨殺事件は酔った貴族が起こした事件をきっかけにした召喚術師たちの反乱として歴史に刻まれたのである。

 ダミアンたちはこの事実を引き継ぎ、アリスベルガー家を守るために、秘術を手にしているが、その術を使うことは滅多にない。エレンのように、過去にもアリスベルガー家の秘密や秘宝を狙う者はいたが、それは常に精霊たちが守っている。ダミアンの仕事は、当主の命を守ること。フローラも何度か暗殺されかけているが、ダミアンの秘術に守られ、事なきを得ているし、ルーシェは『先祖返り』であるために、見えない力が彼女を守っていた。だから、ダミアンたちが受け継いだ最大の術は、未だ発動されたことはない。

(過去の事実がどうであれ、最大にして最悪の秘術など使いたくはないが…)

 ダミアンは、そう思いながらも、気をゆるめるつもりはなかった。


 様々な思いを胸に抱いて、ドラグーンへたどり着いた者たちや、これから向かおうとしている者たちの中で、ようやく出発日が明後日に決まったリザーズ家では、マリーにルーシェの世話を託されたリラや侍女たちが大混乱に陥っていた。

 クリストファーが二日ほど留守にして、リザーズ家で一番ドラグーンに近い領地に赴き、人手の確保をして帰宅したみれば、父は不在で執事のヨーゼフもおらず、出迎えもない。リザーズ家では、大して珍しいことではないので、クリストファーは気にも留めなかった。だが、さすがに侍女たちが半泣きで広間の前でおろおろしている姿には驚いた。何事かと近づくと、侍女たちはクリストファー様っと助けを求めるように声を絞り出した。

「みんな…落ち着いて。どうしたんだい?」
 クリストファーは、とにかく状況を把握しないことには、埒が明かないと思った。リラは、気を落ち着けるように深呼吸してから、意を決したように言った。
「それが…朝食後に旦那様とヨーゼフさんが出かけた途端。若奥様が広間にまとめておいた荷物をひっくり返したり、お嫁入りのときに持ってきた小物や装飾品を持ち出してきて…声をかけても、お返事が上の空なんです。それに朝食を召し上がったあとは、何も取らずにずっと広間にこもりきりになってしまって…」
 クリストファーは、がっくりと肩を落として、大丈夫いつものことだからと、引きっつった笑みを浮かべて妻が頭を悩ませている広間に入った。

「そのドレス、手放すのかい?」
「これはクリストファー様から頂いた思い出の品なので手放せませんの。でも、こっちなら…ああ、駄目だわ。カーラが作ってくれるドレスにはタグがないから、高値がつきませんわ…」
 夫の声にも上の空で答えるルーシェの周りには、色とりどりのドレスや宝石、野外で使うティーセットや敷物と様々な物があふれかえっていた。
 クリストファーは、深いため息を吐きながら、そっと背後からルーシェを抱きしめて、君は何をしているのかなと少々重たい声を出した。驚いたルーシェは、ゆっくりと振り返り、子供がいたずらを見つけられた時のような表情で、「お、おかえりなさいませ…」と小声で言った。
「まさかとは思うけど、ここにあるもの全部売りにでも出すつもりかい?」
「え?ええっと…その、ドラグーンに着くまでに、たくさん必要な物があると思って…わたくし、お金をもっておりませんから…その…」
「ルーシェ。君、僕が毎月国からお給料をもらっているのを忘れたのかな?」
「そんなことはありませんわ。でも、それはクリストファー様が働いてらっしゃるからいただいているお金ですし、わたくしのわがままで、ドラグーンまで遠回りしていただかなければいけませんし…お金はたくさんあったほうがいいと思って…」
 しょんぼりするルーシェを抱きしめたまま、クリストファーは言った。
「君のことだから、僕に内緒でお金をつくって、ドラグーンの人たちのために必要なものを買おうとしたんだね」
「ご、ごめんなさい。その、たいした足しにはならないことはわかっているんです。でも、少しでもわたくしが用意できるものがあるならと、そう思いまして…クリストファー様もマリーもラフィードさんも、全力を尽くしてくださっているから、心配をしているわけではないんですが…何もしないというのは、何か落ち着かなくて…」
「わかっているよ。でもね。ここにある物を売る必要はないんだよ。君だってちゃんとお給料をもらっているんだからね」
 そう言われて、ルーシェは小首を傾げた。働いた覚えがないし、リザーズ家の引きこもり妻としては、むしろ、迷惑ばかりかけているのではと思っていた。

「…ウィルス先生から怒られるよ。君をタダ働きさせるほど王立魔法学院の経営はずさんじゃないよって。それに、僕も、君が楽しんでやっていることだからと言って、無報酬でいいとは思っていないし、お給料のことを黙っていたのは、君がこっそり着なくなったり、使わなくなった宝飾品を売って、父上の名前で王都内の孤児院や救護院に寄付していることも知っているからだし、マリーにもお給料をもらったらお嬢様は、片っ端からいろんなところに寄付をするから旦那様が管理してくださいと頼まれたからだよ」

 ルーシェは、また皆様に心配をかけてしまいましたのね、ごめんなさいとうなだれた。クリストファーは、子供をあやすようにいいんだよと優しく囁く。婚約中もそうだったが、ルーシェは困っている人間を放っておくことができない性格だし、自分ができることを一生懸命に探す癖があった。本人は、周りの人間にいつも支えられてばかりいて、申し訳ないと思っているところがあるのだが、彼女の行動で救われた人間の一人であるクリストファーとしては、もっともっと甘やかしたい気持ちでいっぱいになる。
 
 嫁いできてからも、その性格は変わらず、身分の差などお構いなしで、屋敷で働く者が悩みを抱えていれば、その問題を息をするように自然に解決してしまうのである。
「とりあえず、みんなに手伝ってもらって片づけよう。いいね」
 ルーシェは、申し訳なさそうに、はいと頷いた。

「…まったく、うちの嫁は」
 ドアの隙間から様子をうかがっていたガルムが深いため息をついたが、怒鳴り込むこともなく、自室へと去って行った。その様子を戦々恐々とした気持ちで見守っていたリラたちに、ヨーゼフが微笑みを浮かべて、心配しなくて大丈夫ですよと伝えると、全員がほっと胸をなでおろした。そして、リラがヨーゼフのそばにそっと近づいて、若奥様のあの行動はいったいとつぶやく。視線はドアの隙間から、クリストファーが大事そうにルーシェを抱きしめている姿があった。
「いつものことです。若奥様はときどきご自分の価値を低く見積もってしまわれるようでしてね。そろそろ、片づけたほうがいいでしょう。リラもみんなも手伝って差し上げなさい。私は、旦那様のお側にいますから。何かあれば呼んでください」
 そう言ってヨーゼフもその場を後にした。しばらくすると、クリストファーが元気のないルーシェの手を取って、広間から出てきた。

「すまないが、荷造りと片づけを頼める?」
 リラははいと返事した。他の侍女たちも頷く。そして、ルーシェがいきなりごめんなさいと大きな声で、頭をさげた。
「折角、荷造りしてもらいましたのに…本当にごめんなさい!」
 リラは慌てて、顔をあげてくだしましと言った。
「もう、駄目ですってば…お一人で悩まないでください。マリーさんに比べたら、頼りないとは思いますけど…」
「そんなことありませんわ!リラは、ちゃんとわたくしの面倒を見てくださいますし、皆さんだってしっかり働いてくれてますもの…今回はその…わたくしがいけないのです。出発が明後日に決まって、ちょっと焦ってしまって…」
 言葉がしりすぼみになると同時に、しょぼんとした子犬のような表情で申し訳なさそうに縮こまってしまったルーシェをみて、リラは何とも言いようのない微笑みを浮かべた。
「あとは、私たちにお任せください。お昼も召し上がっていないんですから、早く食堂に行かないとケイトさんに叱られますよ」
 そう言われて、どうしようとさらに困った顔になってクリストファーを見上げるルーシェに、彼はにっこり笑って、君が苦手な物をたくさん用意してるかもねと言った。

 ルーシェは真剣な表情で、甘んじてお受けしますと答えた。クリストファーは、笑いを噛み殺しながら、覚悟を決めた様な固い表情のルーシェを連れて食堂へ向かった。その姿を見ながら、一人の侍女があきれ果てた声でつぶやいた。
「あんなんじゃ、この先リザーズ家の繁栄なんてありえないわね」
 それを聞いたリラは、深いため息をつく。他の侍女たちも苦笑いを浮かべた。その反応に、眉をひそめたのは、一ヶ月前に採用されたエルガという三十代の侍女だった。
「何がおかしいのよ。あんなに子供みたいな奥様じゃ先が思いやられるってもんでしょ」
 リラは、少し表情を硬くしてエルガを見た。
「まあ、仕方がないよね。そう思うのは…。ここに来てまだ、一ヶ月だし、他所の貴族の家を転々としてきた人だから、ルーシェ様が幼く見えるのかもしれないけど」
「私は別に…経験を積むために、職場を変えているに過ぎないわ。ここには長居できそうにないって言ってるだけよ」
 ムキになって語気を強めるエルガに、他の侍女たちも少し不機嫌な笑みをたたえて言った。
「若奥様の可愛らしさが幼稚だと思えるうちは、どこの貴族に仕えたって長続きしやしないわよ」
「そうね。あの方の魅力を知ったら、絶対よそで働こうなんて気にならないし」
「まあ、エルガさんが辞めたいなら、辞めればいいんじゃにの」
 そんな言葉を口にしながら、彼女たちは広間へ入って行く。エルガは、自分が正しい意見を言っても、結局は誰も聞こうとしないのだと心の中で腹を立てる。そして、商家の娘だと馬鹿にしているのだと苦々しく思いながら部屋へ入った。だが、部屋に入って驚く。きっと、侍女たちがかたづけるのだと思って好き勝手に散らかしているだろうと思っていた部屋の中は、ほぼ片付いていた。

「まったく、これじゃあ、私たちの出番なんてほとんどないわよね」
「そういう方だもの…ま、とりあえず、お部屋に戻す物をさっさと運んでしまいましょ」
「リラは、荷物の方よろしくね」

 茫然とするエルガをよそに、侍女たちはテキパキと動いた。といっても、ルーシェが引っ張り出してきた嫁入り道具やドレスは、きちんと運びやすいように整えられ、まとめられているし、荷物のほうも、一つだけ開いている箱に入れて鍵をかけるだけである。

「どうして…」
 そうつぶやくエルガに、リラが言った。
「ルーシェ様は自分が貴族だということをよくお忘れになるの。それに、侍女なんてマリーさん一人いれば、手が足りるのよ」
「そんなことあり得ないわ。お茶会の準備だってお部屋のお手入れだってあるのよ。日常のこまごました仕事に人手がいらないわけないじゃない」
 リラは荷物に鍵をかけて、普通はそうみたいねと苦笑いを浮かべた。
「でも、ルーシェ様は魔力が強い方だから、私たちが日々やっていることを一人でやれと言われても、できてしまうし、マリーさんもただ学院を出ただけの人ではないもの。本来、リザーズ家に必要な女性の使用人は、二人か三人いれば、十分だったのよ。ガルム様には奥様がいらっしゃらないし、この家でお茶会を開く理由もない。クリストファー様の婚約者のお相手ができる程度の人数で十分だったんですって。でも、ガルム様はルーシェ様がお嫁にいりゃっしゃる三年前に、学院出身でもないし、商家の娘でもない、孤児院出の私たちを雇ってくださったの。なぜだと思う?」

 エルガは、リラの言葉に驚く。ここの侍女たちは、かなり立ち居振る舞いも上品で動きに無駄がない。みんな学院をでているに違いないと思っていた。

「リラさんは、私をからかってるの?商家の出でもなければ、学院出身でもない。孤児院にいたのなら、貴族の家で、下女として働くこともできないはずよ」
「そうよね。常識的には、そのはずなのよね。別に絶対ダメってことはないらしいけれど、貴族としてはほぼあり得ない話ね。でも、ガルム様はルーシェ様が、王都のいくつかの孤児院を定期的に訪問していらっしゃるのを知っていらして、私がいた孤児院もその一つだったらしいわ。ある日、あの怖い顔でガルム様が突然いらしゃって、施設長に侍女として嫁の世話をしてくれる人間をさがしているって話をされたんですって。私はたまたま、下女として大きな商家で働いていたけど…お給料は約束通りに支払われないし、払ってもらえたと思ったら、少しの失敗で没収されたりで…とても続けられなくて、孤児院に出戻ったの。それで、施設長からここで働くようにすすめられたけど、正直、気乗りしなかったわ。どうせ、また、ひどい目にあうんだわって…みんなも同じ気持ちだったらしいし、前よりお給料がいいといっても、相手は貴族だもの。でも、お給料はきちんと払われるし、寝床はちゃんとベッドがある。お風呂にもはいれるし、食事なんてびっくりするぐらい美味しいし…もちろん、一人前の使用人になるために、厳しい教育の日々で挫折した子もいたわ。そんな子たちは、それぞれに合う仕事を斡旋してもらって、リザーズ家の領内やアリスベルガー家の領内で生活してるのよ」

 エルガは、あり得ないわと首をふる。
「からかうのもいいけげんにして!そんな親切な貴族なんて…あなた、本当は学院出身なんでしょ?私が商家の娘だからかって馬鹿にしているんでしょ!」
 リラは、にっこり笑う。
「あなたをからかったり、馬鹿にして、私に何の得があるの?まあ、そのうちわかるわよ。そうね。とりあえず、いつも厳しいガルム様を見てれば、いいわ。ルーシェ様を大事にされてるのはクリストファー様だけじゃないから」

 エルガは、リラの言葉の意味が呑み込めないまま、むしゃくしゃした気分だったが、彼女の話が本当なのか他の侍女に確認してからここを出て行こうと思っていた。

(どうせ、嘘をついてからかっているに決まってるわ)

 エルガは、王都でも有名な宿屋の娘だったが、行儀見習いとして十五の時から、貴族のお屋敷で侍女として働いていた。どこの屋敷でも、学院出身の侍女が幅を利かせて、商家出身の娘たちは、彼女たちに命令される立場だった。同じ侍女として働いているはずなのに、学院出身というだけで貴族の婦人たちは、目をかけていた。下手をすると下女に格下げされることもあった。苦い思いばかりしてきたエルガは、一度実家に戻った。だが、そこにエルガの居場所はなかった。両親の後を姉が継いで、結婚していたのだ。両親は、王都を離れて東の地に移ったという。

『あんたも、さっさと結婚でもしたらいいわ。なんなら、適当な宿の息子に嫁ぐ?』

 姉の嫌味な言い方に腹を立て、結局、また、貴族の家で侍女として働くことになったが、どこにいっても長続きしなかったし、段々と年かさになってくると、別の目で見られるようになる。

 結婚のできない女。

 学院出身の侍女たちは、当主や奥様の計らいで、軍人や役人に嫁いでいった。商家の娘たちも、親たちがそれなりの家に嫁がせる。エルガだけが、取り残され冷たい目に晒されたが、それでもいつか女中頭になってやると必死で働いていた。だが、その努力も報われないまま、厄介払いするような形で、適当な紹介状を持たされてリザーズ家にやってきたのだった。

 その夜、同室だが、これまでほとんど会話をしたことのないナナイに尋ねた。

「ねえ、あんたたちって孤児院にいたの?」
 ナナイはそうよと答えた。何かを警戒するような顔で、ベッドに横になりながら。
「全員がそうなの?」
「アナベルさんとヴィオラさんは、代々リザーズ家に仕えてる人で根っからの侍女よ。ケイトさんもそうだけど、今は事情があって若奥様の専任コックになったらしいわ。他の侍女は全員五年前にここに雇われて教育された孤児よ」
 ナナイは背を向けて、そう答えた。そして、怒気をかすかに含んだ声で言った。
「あたしたちのことをどう思おうとそれは、あんたの勝手だし、あたしたちは誰に馬鹿にされても構わない。だけど、若奥様を悪く言うのなら、さっさと出て行って」

 エルガはあなたまでわたしをからかうのねとつぶやいた。すると、ナナイはゆっくりと起き上がって、しかめっ面でエルガを睨む。
「からかう?あんたこそ、あたしたちを見下してるじゃない」
「そんなことないわ」
「嘘つき。いつも、下女のするようなことまで仕事だなんてってぶつぶつ文句いうし、若奥様があたしたちと出かけるときに、侍女みたいな恰好をするなんて恥ずかしいとか言ってるじゃない。それに、どこどこの侯爵家では、こうだったとか、子爵家はどうだったとか…よそと比べてそんなに楽しい?」
「それは…だいたい、リザーズ家に下女がいないことが問題だし、貴族のご婦人がそれなりの恰好をしないで出かけるなんて変じゃない。あなたたちは、自分たちが孤児だなんて言い張るけど、貴族が孤児を雇うわけないし、商家の娘でも簡単には雇ってはくれないわ。それに教育だってまともに受けられない孤児が三年勉強したって侍女になれるわけないじゃない」
「ほらね。やっぱり馬鹿にしてる」
「どこがよ。あなたたちだって、本当は学院出身なんでしょ!自分たちがそつなく優雅に動けるからって、私のこと商家の娘で嫁にもいけない可哀そうなおばさんだって思ってるくせに!」
 エルガは、思わず大声を出してしまった。そして、まだ二十歳にもならないナナイにむきになっている自分が情けなくなって涙がこぼれる。ナナイは、なんだそんなこと気にしてたのかと気の抜けた様な声を出した。そこへ、ヴィオラがやってきて、ナナイに部屋を出るように言った。ナナイは、エルガにごめんねと一言いって部屋を出た。

「何か飲み物でももってきましょうか?」
 ヴィオラがそういうと、エルガはいいえ結構ですと固い口調で答えた。ヴィオラは、小さなため息を一つこぼすと、ナナイのベッドに腰かけた。

「あなた、クオリス伯爵家から追い出されたと思っているのでしょう?」
 エルガは、唇を噛んで答えない。
「まあ、そう思うのも無理はないけれど…そろそろ、本当のことを知ったほうがいいころね」
 ヴィオラにそう言われて、エルガはきっとひどいことを言われるのだと怯えた。
「あなたをここによこしたのは、クオリス伯爵家のディナお嬢様よ」
 エルガは、驚いた。ディナはいつも、エルガの体調を気遣ったり、困っていることはないかと聞いてくるような優しくて、大人しい娘だった。貴族でもこんな娘がいるのかと思うほど、周りに気ばかり配るような子で、エルガは不思議に思うほどだったが、彼女が嫁ぐ前日に突如リザーズ家に出されたのである。ようやく長く務められるかもしれないと思っていた矢先だっただけに、ショックは大きかった。

「ディナ様はあなたのことを心配して若奥様に直接ご相談したのよ。自分が嫁いだ後は、侍女を減らすことになっているけれど、そうなると、古い考えの兄夫婦と両親が、真面目で一生懸命働いてくれている侍女を、商家の娘だとか年齢がとかいうつまらない理由で解雇するのはわかっている。だからといって、嫁ぎ先に連れて行くことも叶わない。彼女には帰る家もない。本来なら、クオリス家がきちんとあなたの嫁ぎ先を探すか、新しい職場を斡旋しなければならないのに、それも叶わないと…だから、若奥様はうちであなたを雇うから心配しないでとおっしゃったのよ。でも、本当は若奥様の一存で新しい侍女を雇うことはできない。当主であるガルム様が駄目だと言えば、それで終わってしまう話だし、実際には駄目だとおっしゃったわ」
「じゃあ、なぜ私は…」
 困惑するエルガに、ヴィオラは思い出したようにクスクスと笑う。
「若奥様は、ガルム様におっしゃったのよ。今日みたいに縮こまって、子犬みたいにしょげた顔で。リザーズ家が侍女一人雇う余裕もないほど傾いているとは知らなかった。申し訳ないので、知り合いのところで侍女として働くといいだしたの」
 エルガは、そんなことを言えばガルムに馬鹿にするなと怒鳴られるだろうし、余計に怒らせて、他の侍女たちにも影響がでるのではないのかと思った。
「当然、ガルム様はお怒りになったわ。息子の嫁をよその家の侍女として働かせるなどできるか!威張り腐るしか能のない落ちぶれ貴族と一緒にするな!ってね。そしてら、若奥様は満面の笑みでおっしゃったのよ」

『まあ、なんてお優しいお父様。わたくしにクリストファー様をくださっただけでなく、わたくしのことまで心配してくださるなんて…どうか、そのお優しさで、わたくしのわがままを聞いてはいただけませんか?』

「…さすがのガルム様も、お怒りになるのが馬鹿らしくなったんでしょうね。ニコニコと微笑まれる若奥様を前に、しばらく言葉がでてこなかったようだけれど、結局、今回だけだと、お許しになったわ。もちろん、今後、人手を増やしたい事情があるなら、クリストファー様を通して相談して来いともおっしゃられたけれど」
 ヴィオラは、可笑しくて仕方がないとばかりにクスクスと笑った。

「どうして、そこまでして…」
 ヴィオラは、優しい口調で、どうしてかしらねと言い残して、部屋を出て行った。そして入れ替わるようにナナイが戻ってきて、何も言わずに眠っている。エルガは、何がなんだかわからなかった。リラやナナイは自分たちは、孤児だという。エルガとしては、孤児というのは生まれも育ちも貧しくて卑しいから、ろくな仕事もできない人間だと思っていた。けれど、ここで侍女として働く彼女たちは、今まで務めてきた貴族の家の侍女に劣るどころか、それ以上に高い能力を持っている。エルガが十五の時から、見よう見まねで覚えた侍女の立ち居振る舞いや、気配りさえも、歯が立たないほどなのに…。

(たった三年で…人はそんなに変われるというの?)

 わからないことだらけで、疑問ばかりが頭をぐるぐるとめぐって、エルガは一睡もすることが出来なかった。
しおりを挟む

処理中です...