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第一章 悩める大人たちの狂騒曲
夜明け前の大騒ぎ(3)
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マルクが当番小屋の方へ向かっていると、二人の子供が事務棟へ駆け込んでいくのが見えた。何かあったのかと心配になって、踵を返し、子供たちの後を追う。すぐに、追いついてみればルナとその兄のレントだった。レントが少し青い顔をして、壁に手をついて立ち止まっているようだった。
「ルナさん!レント君!大丈夫ですか?」
マルクが声をかけると、不安そうな顔でルナが振り返った。
「ルナ、先に行け。俺はちょっと休むから」
「でも…」
「レント君、具合が悪いんでしょ。どうして走ったりしたんですか?無理は駄目だってキラ先生にも言われてたのに」
マルクはレントを支えるようにして、そういうと彼は今日は調子がよかったんだと弱弱しくつぶやく。
「とにかく、隊舎で休みましょう。たぶん、回復魔法をまだ使える隊員がいると思うので」
レントはマルクの提案に首を振った。
「俺は大丈夫だよ。ここで休んでるから…ルナといっしょに室長のところに行ってよ」
レントは、息をきらせてそういう。マルクは何があったのかと聞こうとしたが、レントの具合は悪くなっているように感じた。ルナは意を決したように言う。
「マルク、兄を頼みます。あたし、室長に相談があるの」
マルクは走り出そうとしたルナの腕をつかむ。
「落ち着いて…何があったんですか?」
ルナは、うまく言葉がでてこない。説明したいのに、急ぐ気持ちと兄を心配する気持ちで、頭がいっぱいになっていた。マルクは、戸惑っているルナを見て行動を起こした。レントを左肩に担ぎ上げ、右手でルナの膝をすくうように抱え上げた。
「ちょ、マルク!」
抱え上げられて驚くルナに、マルクはすみませんという。
「このまま、事務局まで走ります。揺れるから、捕まっててください」
そういうと、一気に走り出した。マルクは二人が説明している暇がないほど、何かを急いでいることはわかったし、目的地も事務棟の二階にある事務局だ。なるべく、上半身が揺れないように、走る。階段を駆け上がるときは、さすがにだいぶ揺れてしまったが、仕方がないと思って、事務局を目指した。
子どもたちが坑道に戻って、一時間くらいたっただろうか。ジルベールが紅茶を飲みながら、書類を整理していると、不意にラドルフが現れたが、彼は気にすることもなく、何かあったかと尋ねる。
「マルクのおかげで、七班残してくるだけで済んだ」
そういいながら、ラドルフはソファーに体を沈める。すでに、風呂も食事も終わらせている様子だが、どこかいつもと雰囲気が違った。ジルベールは、違和感を感じつつも、いつも通りの適当な態度で接する。
「そりゃ、良かったな」
「ああ…ところで、お前…口調が変わるのはなんでだ?」
ジルベールは一瞬何のことかと思ったが、すぐに呆れた声で答えた。
「何をいまさら…俺の経歴は知ってるだろう?ま、間抜けで忘れっぽい隊長のために、説明してやるけど。もともと俺は事務方じゃねぇし、お前らに綺麗な言葉で話しても伝わらんからな。ざっくり、はっきり言わんと仕事にならんだろうがよ」
ふうんと納得したのかしてないのかわからないような、抜けた声でラドルフが答えると、ジルベールは事務机から立ち上がり、ソファーに座る。
「…で、本当は何がいいたい?」
「…アリスベルガーってのは何だ?」
ラドルフは、天井をじっと見て呟く。
(何者ではなく、何か…ねぇ…)
ジルベールは、苦笑する。自分はそんなことを考えたことはないが、普段の軽薄なラドルフが言っているわけではないので、自分なりの考えをぶつけてみる必要性を感じた。
「アリスベルガーはアリスベルガーだな」
「…なんだそりゃ…答える気がないのか…お前…」
どこか剣呑な雰囲気がラドルフの声に混ざる。
「何だと言われれば、そう答えるしかねぇよ。何者だと問われれば、貴族だとか子爵だとかその辺の答えしかでねぇからな。…ま、言いたいことはわからなくはないが、お前が欲しい答えかどうかは知らんぞ」
「…言えよ」
ラドルフは目を閉じて、耳を澄ませている。ジルベールは、ふっと軽く呼吸を整えて答えた。
「俺にとっては、命の恩人だが、それだけというには存在が大きすぎる…というか、どんな言葉で言い表しても、正しいし、正しくない。言ってみりゃ、魔物がなぜ存在するのか誰も知らないくらいのレベルで存在しているってことだが…納得できるか?」
「…できねぇなぁ…もう少しかみ砕けよ…」
ラドルフの声から剣呑な雰囲気が消える。それでも、まだ、常態ではない。ジルベールは、少し考え込んで、呟くような、囁くような声で言った。
「なまくらなのによく切れるナイフ」
ラドルフは、ふっと目をあけて、ジルベールの言葉を口ずさむ。そして、笑いだした。
「ああ、そうだ!確かにそうだった!」
ジルベールは、ラドルフがだったと言ったことで、ある事実に納得する。それは、ラドルフがフローラ・アリスベルガーに差し向けられた暗殺者であったということだ。そして、それはラドルフにとってある意味では、死よりも過酷で重い事実に向き合わされることであり、血まみれの暗殺者という人形から人間に戻ることでもあった。
「…でぇ?お前さんはどこまで知ってんの?」
ラドルフは気が抜けたように天井をぼんやりと眺めながら呟く。ジルベールは、つまらなそうに答えた。
「…アリスベルガー子爵家をつぶしたくて、仕方のない輩が暗殺者を送り込んで、返り討ちにあったって話ぐらいだな。クエラドールの連中なら、こりねぇなぁって笑うくらいのつまらない話さ」
ラドルフは目を閉じて、つまらねぇとかひでぇなと笑った。その声は、弱音を吐いているようにも聞こえるが、いつものラドルフであると言いたげでもあった。
「…なんか知らんが、今日のお前は鬱陶しいな。さっさとアルファのところに行って、頭でも殴ってもらえよ」
ジルベールは、そう言いながら立ち上がると、帰り支度を始めた。ラドルフものろのろと起き上がる。ふっと二人の視線がドアの方に向いた。動いたのは、ジルベールである。勢いよくドアを開けると、ガツンというものすごい衝撃音が響いた。
「ギルバート君?…」
額を押さえてしゃがみ込んでいるのは、今日の当番小屋担当者だ。
「痛ってぇ…」
「おやまぁ、らしくないな。お前の反射神経死んでるのか?」
面白い物を見たと言わんばかりに、ラドルフが顔を出すとギルバートは、素早く立ち上がった。そして、口を開こうとしたら、丁度、視界に子供を抱えたマルクが飛び込んでくる。その視線に気がついたジルベールが振り返ると、マルクが抱えていたルナをそっとおろしているところだった。ジルベールがどうしたのかと、尋ねる前にギルバートが報告しますと声を上げた。
「領民の移転希望により、隊舎への受け入れ準備を開始しました。さっさと連れてこいとの副長命令です!」
その報告を聞いて、ルナはほっとした。ジルベールとラドルフもすぐに状況を把握したようだが、マルクは少し驚いている様子だった。
「あっそう。そんじゃあ、領民の方は俺とジルでフォローするから、マルクとギルは、そのぐったりしてる少年をさっさと隊舎につれていけ。それと、ルナちゃんは一緒に俺らと来てね」
ラドルフはそういうと、ジルベールと一緒にルナの手をとった。そして、ふっと掻き消える。
「いきなり、転移とか…ルナさんびっくりするだろうに…」
ギルバートは、頭を掻きながら苦笑する。マルクは、そっとレントを肩から降ろして、背中に背負い直す。
「…急だな。何かあったのか?」
「う~ん、レント君の話だとマリーさんが石の影響を受けてる人間を隊舎に移すように言ったらしい。まあ、副長はすぐに全員移動させろって。隊舎の準備に走り回ってるよ」
「千人…いないんだったか…」
マルクは、トラストとガザの会話を思い出す。実際の人数を把握しているわけではないが、坑道に残っている領民はかなり少ない。マルクのつぶやきに、ギルバートは、首を傾げた。
「え?何それ?」
「今日、班長とガザさんがそんなことを話してたんだ」
マルクはゆっくりと歩きながら、自分が聞いた話をギルバートに説明した。ギルバートは、軽くため息をついた。
「そっかぁ…俺さぁ、千人もどうやって隊舎に詰め込むのかって気にはしてたんだけど。聞いてられる雰囲気でもなかったんだよなぁ」
アルファは、ギルバートの報告を受けるとすぐに行動に移ってしまい、人数などの細かい話をする暇もなかった。だから、ギルバートは、その辺の処理は事務局長任せでもいいのかと思っていたらしい。
「マルクは気がついてたのか?」
「…いや。班長達の話を聞いて、言われてみればそうかもしれないと思ったくらいだよ」
「そうだよなぁ。正直ドラグーンのこととかよくわかんねぇし、街の方に行ったことないし…」
「うん、よくよく考えてみれば、領内巡回も警備隊の仕事のはずなんだけど…誰がその担当だとかそういうのも知らなかったし」
「ああ、それいないぞ」
「え?」
「だってさ、俺たちがここに来てから、魔物討伐に全員参加してんだぜ?いつも隊舎に残ってたのは副長と料理番だし、領内巡回に人間回せるほどいないしさ。だから当番小屋があったわけだし…」
「そっか…」
巡回するほどの人手がない。だから、何かあれば相談してもらうための窓口が必要だった。マルクはドラグーンが普通ではないことはわかっていたが、その深刻さまでは思い至らなかったことに気づく。
「それにしても…」
ギルバートは、お前すごいよと苦笑する。マルクは、首を傾げた。
「いや、だってさ。一人で毎日アレ全部とか…無理だぞ。その上、領民から急な要望とかにも対応って…」
マルクはギルバートが慣れない仕事をしたせいで、かえって疲れてしまったのかと心配そうな顔をした。
「あ、勘違いすんなよ。慣れとかの問題じゃないぞ。ついでに、マルクが半分以上、昨日の間に片づけてくれてたから、俺は十分休めたからな。その上で言ってんだよ。あの仕事量を毎日できてるお前はすごいって」
そういわれても、しっくりこないマルクは首を傾げる。
「だから…まず、薪と水だ!一日分の量が半端ねぇ。それも水は風呂とか掃除用と飲料用で分けて汲んでこなきゃならない!近くに水路通してあるからって、何往復しなきゃなんねぇのよ。その上、洗濯や掃除は各隊員が自分の服とか部屋とかは担当してるっていってもな、風呂とかトイレとか食堂の掃除は毎日でそれ以外は曜日でって…一人でやれって方が無茶!…お前、そんなことはないだろうみたいな顔してるけどな…この規模をどうしたら一人でどうにかできるんだよ。もう、それ神業だぞ!」
マルクは力説するギルバートに困ったような顔で答えた。
「…そういわれても、僕は力仕事だけは少し人よりましだってだけで」
「ましどころのレベルじゃねぇよ…」
ギルバートは、深いため息を吐く。
「マルク…お前いったいどんな生活してたんだ?」
「どんなって?」
できることをできるだけやってきたと答えるしかないのだが、それでは答えになっていないような気がするので、何をどう説明していいのかマルクは困ってしまった。
「いいか、マルク。ここの警備隊は人手不足だ。本来なら百人規模の隊だ。だから、隊舎は二棟、管理棟が一棟ある。それを半分の人数でやりくりしてるんだから、生活環境の整備に手が回らなくてもおかしくはないし、当番制で割り振られても、文句は言えない。風呂なんて毎日入れなくても仕方がないはずなんだよ。だいたい、この規模の屋敷を構えてる奴らだったら、最低でも下女や下男が二十人は働いてるぞ」
マルクはやっぱり首を傾げた。
「うちじゃそんなに雇ってなかったけど…」
「…マルク、お前の実家てどんなだったの?」
「え?どんなって…普通の宿屋だけど…」
「ここの規模と同じくらいか?」
「う~ん、もう少し広かった気がするかな…でも、十歳のときには祖母に引き取られたから、もっと小さかったのかもしれないけど…」
「マルク…もしかして家の掃除とか水汲みとかやってたか?一人で」
「うん、僕の仕事だったし…一人じゃなかったよ。やり方を教えてくれたおばさんが二人いたし…」
ギルバートは沈痛な面持ちで、ありえねぇとつぶやいた。
「あのな。ここと変わりないくらいの宿屋なら、五十人以上人が雇われてても不思議じゃないし、雇い人が少なかったら、掃除や洗濯は別の店に頼むことだってできるんだよ」
「ああ、そっか…客室とかリネンはやったことないな。そう言えば…」
ギルバートはがっくり肩を落として、乾いた笑いを漏らした。
「ギル?僕、変な事言ったか?」
ギルバートは、ぼそぼそといやとかうんとか、それでいいとかなんとかつぶやいて、一人何かを納得したようだった。
(この規模の宿屋の息子なら、働く必要なんてない。貧乏貴族よりずっと贅沢に一生暮らせるはずだ。なのに、マルクは子どものころから当たり前のように働いてて、その上、根が歪んでないどころか、謙虚すぎる…)
ギルバートは、困った顔のマルクを見て、話題を変えた。
「それより、マルクの初仕事はどうだったんだ?」
「…少しは役に立ったかもしれない。よくわからないけど」
「そっか、ならいいんだよ。それで」
ギルバートは、満面の笑みで答えた。
(これはきっと、相当な何かがあったんだろうなぁ…マルクの才能って、要するに本人が自覚してないだけで、半端ないことこのうえねぇよ。きっと、絵の才能はただの才能じゃないんだろうなぁ…すっげぇ面白れぇことになってそう)
ギルバートは、どこかうれしそうにマルクの隣を歩く。マルクはよくわからないが、ギルバートが疲れていないことにほっとしていた。二人が隊舎に戻ると、隊員たちはシーツやマットを抱えて慌ただしく動き回っていた。マルクが声をかけるのを躊躇っていたので、ギルバートが適当に声をかけて回復魔法が使えそうな奴はいないかと聞くと食堂にいけという返事が返ってきた。二人は首を傾げながらも、食堂に行くと副長が一人、食堂でスケッチブックを眺めていた。
「…なるほど。そりゃそうだな」
ギルバートは納得したようにつぶやく。アルファは命令を下して報告を待つのが仕事だ。手が空いているのは当然である。マルクも他の隊員には声をかけづらかったようだが、こちらに対しては素直に声をかけた。
「副長、お願いがあるんですが…」
「はいよ、何でもいいよ。お前頑張ったから、ご褒美ぐらい出すぞ」
「いえ、レント君に回復魔法をかけて欲しいんですが…」
アルファは、そこでようやくスケッチブックから目を放した。そして、椅子から立ち上がるとマルクの背後にまわり、背負われている少年を確認する。
「何だ?寝てるだけだぞ、こいつ」
「え?」
そんなはずはと言いかけたマルクに対して、アルファはレントの状態を説明する。
「顔色正常、脈異常なし。呼吸も安定。外傷もない。このまま、ベッドに放り込んでりゃ、朝には目を覚ますぜ」
「副長…適当に言ってませんか?」
「失礼だな。ギル。医療班じゃなくても、最低限の体調管理技能は習得してんだよ。じゃなきゃ、副長なんてなれねぇっつうのぉ」
「あれ?そうでしたっけ?」
「お前…あたしを暇人だとでも思ってんじゃねぇだろうな」
アルファがじろりとギルバートを睨み付ける。図星を指されて、一歩下がったギルバートはそんなことないですよといいつつも、目が泳いでいる。
「ま、いいや。とりあえず、お前は飯食って風呂入りな。マルクはその子をギルのベッドに放り込んでこい。スケッチした魔物の件で確認したいことあるからな。受け入れ準備は、他の奴らに任せておけ。お前は少し頑張りすぎだからな」
マルクは素直に命令に従い、レントを部屋に連れて行った。ギルバートも食事をしようと思ったが、テーブルの上のスケッチブックが気になる。
(すっげぇ見たいけど…)
ちらりとアルファの様子をうかがうが、彼女は気づいているのかいないのか、再び席についてスケッチブックをぺらぺらめくり始める。そこへ、料理番のヒルズが食事の乗ったトレイとマグカップを手にやってきた。
「ほら、喰いな。あんたはこれな」
「あ、ありがとうございます」
ギルバートは、トレイを受け取り、アルファの向かいに座った。アルファは、無言でマグカップを受け取りつつも目はスケッチブックに向いたままだ。ヒルズは、仕事熱心なのか暇つぶしなのかわからねぇなぁと苦笑する。
「そんなの両方に決まってんじゃん。ヒルズだって手が空いてるからそこにいるんだろ?」
「まあなぁ、夕飯も弁当でって言われたから、そのつもりで準備してたんだが、隊長から折り返しで変更命令でたからな。スープ付ける余裕ができたくらいだ」
「お前らとことん有能よね」
「別に俺らが有能とかじゃねぇだろう?まあ、無能でもないが…よその隊は、上が馬鹿すぎなだけで。なんにでも適材適所ってのはあるわけだしな」
「確かに…ここじゃ派閥だとか、貴族だの平民だので馬鹿やってる暇もないしなぁ」
「そうそう。日々、生きてるもの勝ち。人手不足なだけに、最大限自分の得意分野で仕事しないと死ぬからなぁ」
ギルバートは、アルファとヒルズの会話を聞きながら、サクサクと飯を食う。他の隊で働いた経験がないので思わず、他所の隊は暇なんですかとつぶやいていた。
「ここよりは、暇だぜ。領内巡回は散歩みたいなもんだし、隙あらば可愛い女の子に声かけて遊ぶ奴もいるしな。魔物も毎日でねぇから、隊長や班長の気分次第で訓練という名のいびりもある。ここじゃ休みの日なんて決まってねぇが、基本週休二日だ。希望休も取り放題だな」
「ヒルズ…休みたいのか?」
「ん?そう聞こえたか?俺に休まれたら、お前ら餓死決定だぞ」
「ああ、はいはい感謝してるよ。ヒルズとルロイのおかげです。ありがとうございますだよ」
ヒルズはそうそうしっかり感謝しとけよと笑う。
「ま、ここじゃ人手不足が常だからなぁ。領主が誰だろうと…」
ヒルズの言葉にギルバートが首を傾げた。
「え?どういうことですか?」
「何だ?お前知らんのか?」
ヒルズに呆れられながらもギルバートは、さらに首を傾げた。アルファは、軽いため息を吐いて説明した。
「ここはもともと国軍の管轄だったのさ。だから、隊舎の規模もでかいし、設備も結構しっかりしてる…が如何せん古すぎる。警備隊の管轄になってから予算が足りないせいもあったんだろうが、未だに水路から人力で水汲みだ。下水道は整備されているが、上水道の整備がない。トイレの整備は通常なのに変だと思わなかったか?ギル」
「…そういえば、いろいろちぐはぐしてますね」
隊舎のトイレは各階にあり、水洗だ。だが、飲料用や手洗い用の水は、浄化作用のある魔法石を入れた甕に入っていて、水自体を常に人力で補充しなければならない。トイレに水洗機能があるのだから、当然、水道設備があっておかしくないはずなのである。
「…お前、座学サボってただろ」
アルファは、呆れたようにギルバートを見た。
「え?座学は休憩時間ですよ。寝てても死なないし」
あっさりと当然のようにそう答えたギルバートに対して、アルファとヒルズはがっくりと肩を落とした。
「…勉強できる環境があることのありがたみを知らんのか?」
「ま、喰うに困らん人間にとっちゃ、そういうもんかもしれんな。貴族なんて働かなくてもどうにかなるもんなんだろうよ」
「ヒルズさん、それ酷い偏見ですよ。貴族っていっても、爵位が低けりゃ、跡取りと女子以外は、自分で食い扶持探さないと死にますよ。結婚できずに人生終わる奴もいるし、最悪、跡取りの身代わりとして飼い殺しになる奴だっているんだから。だいたい、勉強ができる奴は仕事の選択肢も多いし、貴族と縁を結びたい商人とか官吏とかの養子にだってなれるけど、俺みたいに座学が苦手なやつは警備隊がなかったら、病死扱いで殺されるか、放り出されて路頭に迷うかです。国軍に入れるのは成績優秀者だけだし…魔力や能力が低いと判断されたら、あっさり切り捨てられる。親子の情とか以前に体面重視の世界にはそれなりの残酷さがあるんです」
アルファとヒルズは、お互いに目を合わせて何かを納得したようだった。
「貴族には貴族の、平民には平民の過酷さがあるってことだな」
「そうね。ま、自分と他人を比べること自体、自ら不幸になるための行いだとは思うけど…結局、生存競争は生き残った者勝ちだし…」
「それにしても、ここの奴らは貴族らしくないというか、変り者ばかりな気がするのは、俺の気のせいか?」
「気のせいじゃないわよ。あいつら、ここを選んだ動機が同じだから…」
「動機?」
「傷心を癒すには忙しいほうがいいんだそうな。だったよな。ギル」
「ん?ああ、なるほど、先輩たちはその手を使ったのか」
ギルバートが一人納得している様子に、今度はアルファとヒルズが首を傾げる。
「失恋が理由なら、同情を買いやすいし、侮られやすいってことか…学院時代がかぶってれば、確かにその理由の方がしっくりくるかも…俺の場合も憧れの人が人妻なのでできる限り王都から遠くがいいってことにしてたら、あっさりここに入れてもらえたし…」
「お前…もしかして、勤務地がここじゃなくてもよかったってことか?」
「ん~警備隊に入隊が決まった時、クエラドールにするかそれ以外かで迷ってましたね。ただ、俺の性格上、できるだけ問題がある勤務地のほうがいいかなって思って、噂だとドラグーンがかなり最悪の勤務先らしいから、とりあえず、第一志望にしたんです。おかげで、俺の低すぎる沸点は、一度しか爆発しなかったし、マルクと話してると面白れぇし…あの人にも、また会えるなんて…ドラグーンに来てよかったなぁって思ってますよ」
ギルバートは、心底嬉しそうに笑っている。そして、トレイを手にしてごちそうさまでした、風呂行ってきますと言って立ち去った。
「なぁ、あたしはあいつの言ってることがさっぱり理解できないけど、あんたはどうよ?」
「俺も理解できねぇよ。ってか…あの人って誰だよ?」
「今度ここに赴任してくる貴族の奥方だよ。あたしも詳しくは知らないけど、『先祖返り』らしい。でもって、班長達はその女の崇拝者だとよ」
「なんだそりゃ…」
「なんだろうな?学院にいる知り合いに情報提供頼んだら…なんか、めちゃくちゃ罵られるし、ジルにも他所の隊を敵に回すだけじゃなく学院まで敵にするなと怒られたんだが、どうにもなぁ…子爵家のお嬢ちゃんに『戦闘女神』なんて不似合いな二つ名があるから、どんな感じか知りたかっただけなんだけど…」
「もしかしなくても、あれか?館の修繕を喜々として奴らがやらかした原因がその奥方か?」
「そうらしい…まあ、『先祖返り』だってんだから、魔力は最強なんだろうけど、それだけで崇拝者なんてのがゴロゴロ存在するはずはないし…まさか、魅了の力とかいう胡散臭い魔力の持ち主ってわけでもなさそうだがなぁ」
「魅了の力ねぇ…そんなもんが本当にあったとしても、不幸にしかならんだろう?人心を惑わすだけの力なんてもんはよぉ」
「だよなぁ…ま、そのうち会えるだろうけど、どうにもなぁ」
「謎すぎて気持ち悪いな」
ヒルズは苦笑した。
「まったくだ。主に先んじてドラグーン入りした執事におかしなところはなかったけど、侍女のほうは坑道に居座って領民の監視してるって話だったのに、何がどうしてこっちに移る話になったのかも謎だし…あ~気持ち悪いことこのうえねぇ」
アルファは両手で頭を挟んで天井を仰いだ。そこにマルクが戻ってきたので、頭のスイッチを切り替えて魔物のことについていろいろと確認の作業を始める。ヒルズは厨房に戻りながら、副長も十分に変わり者だろと思った。彼女にもいろいろな忌み名がついている。決してほめたたえるためのものではない。侮蔑と嫉妬と嫌悪。そう言った感情しか込められていない。
「騒がしいな」
厨房の片づけをあらかた済ませて、夜食のサンドウィッチと朝食の下準備をしていたルロイは戻ってきたヒルズにぼやく。ルロイはすでに退役の年を過ぎているのだが、交代要員がこず、未だに厨房の主である。厄日かよとつぶやきながらも、ごつい手はリズミカルに料理を作っている。
「なんだろうな?そういえば、爺さんさ、クエラドールに行ったことあるか?」
「ああ、かなり昔だがな。それがどうした?」
「いやぁ…この騒ぎの原因がどうもそこの子爵のお嬢ちゃんのせいらしいんだと…」
ルロイはへぇっと言って、一瞬、手が止まる。
「…おい…そりゃ、アリスベルガー子爵家のことか?」
「ああ、今度の管理人の奥様だそうだ」
ルロイは珍しく大笑いしだした。
「そ、そりゃあいいや。何が起こるか楽しみだ」
ヒルズがポカンとしていると、ルロイはおかしそうに笑いを噛み殺しながら、茶を入れる。
「何があるんだ?」
「さぁなぁ…ただ、あそこは変人の集まりみたいなもんだし、そこの頭目がアリスベルガー子爵家だ。何が起きても不思議じゃねぇよ。…ああ、そうかあいつらのバカ騒ぎはそのせいか」
「あいつらって?」
「班長達さ。新しい管理者のために休み返上で館の修復だとか…奇妙だなと思ったが…」
ルロイは喉の奥でクックと笑う。
「なんだかさっぱりわかんねぇなぁ。ギルも妙なこと言ってたし」
「妙な事?」
「ああ、班長達は傷心を癒すって理由でここに入ったらしいんだが、本心じゃないらしい。単純に王都からはなれたかっただけだとか、なんとか…」
ヒルズが困った顔で首をひねっているが、ルロイはまあそうだろうと言った。
「貴族は跡継ぎと娘以外は自力で生きてくしかねぇからなぁ」
「ギルもそんなこと言ってたが…」
「簡単な話さ。跡継ぎは、一人で十分だし、娘の嫁ぎ先は親の利益に関わるからな。男は嫡子以外いらねぇのさ。下手すりゃ、結婚さえゆるされねぇってんだから、可愛そうなもんさ」
「自力で生きてて結婚できねぇのか?」
「余計な身内を増やすなってことだな。勝手に家の名を使って借金だのなんだのと問題を起こすからな。恐ろしい話だが、間引きにあって殺されちまう子どももいるらしい。警備隊の貴族連中がやたらと威張り散らすのも他に行き場がないのに、家名を穢すなと教育されたせいだろうし、ガキの頃からいつ死ぬかわからないような環境で生きてりゃ、性格も根性も歪むだろう?ま、班長達が妙に貴族らしくねぇ理由もアリスベルガー家の影響だっていわれりゃ、納得いくってもんだ」
「納得いくのか?」
「まぁな。何せクエラドールの警備隊は最低人数以下だからな」
「ちょっと待ってくれ…爺さん。最低人数以下って…まさか…」
「ああ、十人勤務してればいいほうだな」
「…そんな人数で大丈夫なのか?確か海があって、水生の魔物がいるはずじゃあ…」
警備隊は領地の規模で割り当てがあるとはいえ、魔物が出現しやすい海や川、山がある場合は最低でも三十人の警備隊員が常駐する。魔物が出ない領地内でも、二十人はいるはずだ。
「おお、うじゃうじゃしてるぞ。その上、船酔いしてたら仕事にもならん」
(…十人勤務ってありえんだろう)
ヒルズはルロイが自分をからかっているのかと一瞬思ったが、そういう冗談をいうタイプではないことは承知しているし、誰もが疑いたくなるような嘘を吐くような人物でもない。
「とはいえ、あそこに飛ばされた奴らは自分の人生何なんだって思いたくなるくらいの衝撃は受けるからな。受けた衝撃が前向きな気持ちに繋がればいいが、悪い方に向かえば自暴自棄になることもある」
「…なんだそりゃ?」
「クエラドールには有能な人材しかいねぇとうっかり思っちまったら、地獄に落ちるってことだ。あそこは、商業が盛んな海沿いの田舎だと思ってる連中が多いようだが、実際は生活水準の高さは王都をしのぐ。それに領民は警備隊が不必要なくらい、安全で穏やかな暮らしをしている…俺は幸い好奇心のほうが強かったからな。いつか自分が生まれ故郷にも、あそこの技術や人材育成ができるような環境が整えばいいなと思っていろいろと見て回ったもんさ」
ルロイは懐かしそうに目を細めた。そして、ふっと何かに引っかかったように首を傾げた。
「…名前が違うのはなんでだ?」
「名前?」
「俺が聞いた次の管理者の名前は確かリザーズだった気がするが…」
「いや、リザーズ侯爵家の子息夫妻であってるぜ。それがどうかしたか」
「そうか…いや、てっきりアリスベルガー子爵家の令嬢夫妻だと思ったもんだからな…娘が嫁入りしたんなら、あの家にも男の跡継ぎが生まれったってこったろう」
ルロイが何だか上機嫌なので、ヒルズは気になることはいろいろあるが、それ以上は聞かなかった。
「…ひどい鉱山ね」
「どういう意味ですか?エレンさん」
「普通の鉱山には必ず詰所としての山小屋があるのよ。水やトイレが必要だし、医者だって待機してるわ」
アンバーは、そういうものかと首を傾げる。
「鉱夫は石の影響を受ける続ける仕事だからな。体調が少しでも悪けりゃ、命にかかわる。ほぼほぼ廃坑だといって住み着くような馬鹿な真似すりゃ、自殺行為と変わんないのさ。詰所の後すら見当たらない、この鉱山は異常すぎるってこった」
グラシードがエレンの言葉を補足するように言った。
「え?それって…ここに住み着いてる領民ってかなり命に危険があるってことですよね。山小屋がないってことは、水やトイレはどうしてるんですか?」
生活すること自体に無理がありすぎるとアンバーは思った。
「水は川か、水路から汲んできてんだろうな。トイレは…まあ、クズ石でも浄化力があるものを使えば、穴を掘って簡易トイレくらいにはなるが…」
「さっき、煙が見えたから竈はあるかもしれないわ。もしかしたら、トイレはないかもね」
グラシードとエレンはだんだんと表情が厳しくなっていく。
「まさか…基本的な教育がされてないなんてことは…」
「考えたくないけれど、可能性がないとは言えないと思うわよ。壊れた建物の中を見たわけじゃないから、台所とかの作りはわからないし、あの煙から推測するなら、竈に魔法道具が使用されてない可能性が高いんじゃない?」
「そうだな…」
二人は同時に大きなため息を吐いた。
「とんでもねぇことしてくれるなぁ。前任者は…」
「前任者だけの問題じゃないわよ。こんな惨状ほったらかしてるあいつらは、脳みそが蒸発でもしてんじゃないかしらね。ま、ドラグーンをつぶすってことが自分たちを殺すってことだって理解できていないとは思いたくないけど」
「潰す気はないんじゃないか?むしろ、クエラドールの富やアリスベルガー家をつぶすつもりでやってると考えた方がいいかもしれないぞ」
「そうね…ルーシェ様の婚約にも裏があったんでしょ?」
「あれは…フローラ様の個人的な判断だ。ご友人のためにしたことだからなぁ。本来なら、結婚には至らないはずだったんだが、お相手の坊ちゃんが、がっつりお嬢の心を捕まえちまったから…」
「それってやっぱり予想外なことだったのかしら」
「少なくとも婚約をさせた時点ではな。レオルドも最初からあの坊ちゃんには愛情が足りていないから、お嬢の心を射止めることはないだろうと思ってたらしい。それに、どっちかが結婚を希望しないようであれば、婚約の解消も織り込み済みだったからな」
「偽装婚約みたいなものだったわけ?」
「まあね。王家や公爵家には年の近い子息がいるからなぁ。勝手に婚約者候補にされたら、お嬢の自由がなくなっちまうだろ?」
「なるほど…『先祖返り』だもんね。目を付けれれないわけがないか」
アンバーは二人の会話を黙って聞いていたが、結婚祝いのお祭りでみたルーシェとその旦那はとても仲が良かったし、幸せそうだった。まさか、その婚約から結婚に至るまでの過程に家の事情や裏があるなんて思えないくらい、相思相愛に見えたのだ。家族と縁のないアンバーは結婚に憧れなど微塵ももっていなかったけれど、誰かと手を取り合って生きていくのはとても大事で幸せなことのように思えた瞬間だった。
「それより、正面から入るの?」
「いや、できればマリーに直接会いたい。下手に領民を刺激してあいつの邪魔はしたくないからな」
「なら、正面よりこっちね」
そう言ってエレンは、道から外れた。数分もしないうちに小柄な人間なら通れるくらいの穴をみつける。もう日が落ちて西の空がほんのり明るいだけなのに、彼女はそこに入り口があることを知っていたかのように、あっさり見つけた。
「…お前」
グラシードが呆れた声でエレンを見る。地図ならここよと言って自分の頭を指さした。
「ま、いつものことか」
「そういうこと…ま、最新じゃないから多少迷う可能性もあるけどね」
エレンはそう言いながら穴に入る。グラシードも躊躇いがない。アンバーも取り残されないように後に続いた。中はかなり暗い。エレンはカバンから手のひらサイズのランプを二つ出してグラシードとアンバーに渡した。ランプの光は弱く、足元が照らせる程度だ。
「これ…もう少し明るくなりませんか?」
アンバーは、ランプを掲げて坑道の奥を照らしてみるが先は真っ暗だ。
「明るくしてマリー以外の誰かに見つかったらどうするの?」
「え?見つかっちゃダメなんですか?」
「そりゃそうだろう。よそ者だぞ。俺たちは」
アンバーが首を傾げるので、グラシードとエレンはため息を吐いた。
「…こんな危険なところに隠れ住まなきゃならない人間が、よそ者を歓迎してくれると思うの?」
「あー…無理ですね」
「だったら、あんたは黙ってついてきなさい」
「はい…」
アンバーは、大人しく二人の後についていく。どのくらい歩いたのかわからないが、思っていたより早くマリーと合流できた。マリーは早かったですねと言ったが、グラシードはそうかとすっとぼける。国の南西部に位置するクエラドールから北北東に位置するドラグーンまで最短距離を馬車で移動すれば、二週間はかかる。今回は四日でたどり着いた。というのも、クエラドールとドラグーンの間にリザーズ侯爵家の領地が二か所あったからだ。転移魔方陣でその二か所を経由して最速でたどり着いたのである。転移魔方陣は領地の所有者の許可がなければ使い物にならない代物だ。王族以外は無許可で使用することは不可能なのである。
「…転移魔方陣でも使ったんですか?」
「ああ、意外そうだな。許可が下りないとでも思ったのか?」
「下りないとは思っていませんでしたが、時間はかかるかもと…」
「え?なんですか?お嬢様の嫁ぎ先だから普通なんじゃ…」
アンバーは、素直に疑問を口にした。全員が痛い視線を送ってくる。
(うわぁ…なにぃ…)
「嫁ぎ先でも、そうそう融通は利かないのですわ。それにガルム様は、お嬢様には厳しいですから」
「…それ、たぶんお前の誤解かもしれんぞ」
「そうでしょうか?かなりひどいことを口になさいますけど?」
グラシードがほんのちょっとガルムの肩をもったことに、容赦なく冷え冷えとした視線を向けるマリー。マリーとは初対面のアンバーですら、背中が寒くなるほど彼女の笑顔は冷酷に見えた。
「マリーってもしかして、婚約事情の裏側知らないの?」
「どういう意味ですの?エレン」
「戦略的婚約って話だけど…その様子だと知らなかったみたいね」
「初耳ですわ」
マリーが眉間に皺を寄せたのでグラシードが来る途中で話していたことを彼女に説明した。
「…と、まあそんな具合だからな。今更、手のひらを返して優しくできるような器用な御仁ではないだろう。ガルム様は」
「…そういうものでしょうか?」
「頑固で実直すぎるから、領地が点在していても単一侯爵家を維持できているんじゃないか?ま、その辺はお前さんの方がわかると思うがな」
マリーはしばらく黙っていたが、考えてもしかたがないので話題を変えた。
「わかりました。そのことはおいおい考えます。それより、グラシード。貴方の見立ては?」
「最悪だな。廃坑とはいえ、かなり負荷がかかる。お前もそれがないといられないんだろう?」
グラシードは太陽石のランプを指さした。他にも彼らが座っている布は、魔力の放出を遮断する特殊な糸で織られた布だ。鉱山労働者の負担を軽くするためにクエラドールの織物協会が二年前に開発したものである。
「ええ、廃坑だからこそと言うべきでしょうか。かなり魔力を食われますわね」
「領民はどうなの?死者は?」
「わたくしが来てからは死者は出ていないようですが、子どもたちに影響が出ているのは確かです。それについては警備隊の隊舎に移動するようお願いしましたから、数日中に動きがあるでしょう」
「そう…ここって水もトイレもなさそうだけど」
「ありませんわ。昼間に動ける女性たちが川から水を運んでいらっしゃいますし、トイレは外で適当にすませているようです」
「そんな状態で、ここで冬越そうとか…命知らずにもほどがあるわね」
「仕方がありませんわ。この領内では自分が魔法を使えることを知らない人ばかりですから…」
エレンはそれを聞いて目を丸くした。
「知らないって…伯爵家自体がお馬鹿だったの?」
「その可能性はありますね。先代が特に秀でて馬鹿だったと言えるかもしれませんが…ただ、それだけでこんな状況というのは無理がありますわ」
「周辺貴族が関係しているってこと?」
「ないとは言えないでしょう。ドラグーンの領民が他所の領地へ容易に入り込めたのですから。盗賊と化したというのは建前ですわ。魔法の使い方がわからない上に、読み書きさえまともにできないのならなおさらでしょう?」
アンバーは、エレンとマリーの会話に疑問を持った。
「あの~。そんなに難しいことなんでしょうか?他所と行き来するのって?」
「難しいわよ。特に手形を持たない人間にはね。商人や旅団が容易に旅をしてまわれるのは、それなりの手形を持っているからよ。魔法も使えないような犯罪者に領地の境界を超えるのは不可能に近いわ。ま、手引する人間がいれば別だけどね。貴族は領地と王都の邸宅に転移魔方陣を持っているから、他所の領地を通ることはないし、必要があれば王家が手形をだすのよ」
アンバーは、クエラドールの孤児院に預けられてから、旅をしたことがなかったので手形についてはすっかり忘れていた。なんだか、色々複雑な話になってきたなぁとアンバーは、不安を覚えた。
「ルナさん!レント君!大丈夫ですか?」
マルクが声をかけると、不安そうな顔でルナが振り返った。
「ルナ、先に行け。俺はちょっと休むから」
「でも…」
「レント君、具合が悪いんでしょ。どうして走ったりしたんですか?無理は駄目だってキラ先生にも言われてたのに」
マルクはレントを支えるようにして、そういうと彼は今日は調子がよかったんだと弱弱しくつぶやく。
「とにかく、隊舎で休みましょう。たぶん、回復魔法をまだ使える隊員がいると思うので」
レントはマルクの提案に首を振った。
「俺は大丈夫だよ。ここで休んでるから…ルナといっしょに室長のところに行ってよ」
レントは、息をきらせてそういう。マルクは何があったのかと聞こうとしたが、レントの具合は悪くなっているように感じた。ルナは意を決したように言う。
「マルク、兄を頼みます。あたし、室長に相談があるの」
マルクは走り出そうとしたルナの腕をつかむ。
「落ち着いて…何があったんですか?」
ルナは、うまく言葉がでてこない。説明したいのに、急ぐ気持ちと兄を心配する気持ちで、頭がいっぱいになっていた。マルクは、戸惑っているルナを見て行動を起こした。レントを左肩に担ぎ上げ、右手でルナの膝をすくうように抱え上げた。
「ちょ、マルク!」
抱え上げられて驚くルナに、マルクはすみませんという。
「このまま、事務局まで走ります。揺れるから、捕まっててください」
そういうと、一気に走り出した。マルクは二人が説明している暇がないほど、何かを急いでいることはわかったし、目的地も事務棟の二階にある事務局だ。なるべく、上半身が揺れないように、走る。階段を駆け上がるときは、さすがにだいぶ揺れてしまったが、仕方がないと思って、事務局を目指した。
子どもたちが坑道に戻って、一時間くらいたっただろうか。ジルベールが紅茶を飲みながら、書類を整理していると、不意にラドルフが現れたが、彼は気にすることもなく、何かあったかと尋ねる。
「マルクのおかげで、七班残してくるだけで済んだ」
そういいながら、ラドルフはソファーに体を沈める。すでに、風呂も食事も終わらせている様子だが、どこかいつもと雰囲気が違った。ジルベールは、違和感を感じつつも、いつも通りの適当な態度で接する。
「そりゃ、良かったな」
「ああ…ところで、お前…口調が変わるのはなんでだ?」
ジルベールは一瞬何のことかと思ったが、すぐに呆れた声で答えた。
「何をいまさら…俺の経歴は知ってるだろう?ま、間抜けで忘れっぽい隊長のために、説明してやるけど。もともと俺は事務方じゃねぇし、お前らに綺麗な言葉で話しても伝わらんからな。ざっくり、はっきり言わんと仕事にならんだろうがよ」
ふうんと納得したのかしてないのかわからないような、抜けた声でラドルフが答えると、ジルベールは事務机から立ち上がり、ソファーに座る。
「…で、本当は何がいいたい?」
「…アリスベルガーってのは何だ?」
ラドルフは、天井をじっと見て呟く。
(何者ではなく、何か…ねぇ…)
ジルベールは、苦笑する。自分はそんなことを考えたことはないが、普段の軽薄なラドルフが言っているわけではないので、自分なりの考えをぶつけてみる必要性を感じた。
「アリスベルガーはアリスベルガーだな」
「…なんだそりゃ…答える気がないのか…お前…」
どこか剣呑な雰囲気がラドルフの声に混ざる。
「何だと言われれば、そう答えるしかねぇよ。何者だと問われれば、貴族だとか子爵だとかその辺の答えしかでねぇからな。…ま、言いたいことはわからなくはないが、お前が欲しい答えかどうかは知らんぞ」
「…言えよ」
ラドルフは目を閉じて、耳を澄ませている。ジルベールは、ふっと軽く呼吸を整えて答えた。
「俺にとっては、命の恩人だが、それだけというには存在が大きすぎる…というか、どんな言葉で言い表しても、正しいし、正しくない。言ってみりゃ、魔物がなぜ存在するのか誰も知らないくらいのレベルで存在しているってことだが…納得できるか?」
「…できねぇなぁ…もう少しかみ砕けよ…」
ラドルフの声から剣呑な雰囲気が消える。それでも、まだ、常態ではない。ジルベールは、少し考え込んで、呟くような、囁くような声で言った。
「なまくらなのによく切れるナイフ」
ラドルフは、ふっと目をあけて、ジルベールの言葉を口ずさむ。そして、笑いだした。
「ああ、そうだ!確かにそうだった!」
ジルベールは、ラドルフがだったと言ったことで、ある事実に納得する。それは、ラドルフがフローラ・アリスベルガーに差し向けられた暗殺者であったということだ。そして、それはラドルフにとってある意味では、死よりも過酷で重い事実に向き合わされることであり、血まみれの暗殺者という人形から人間に戻ることでもあった。
「…でぇ?お前さんはどこまで知ってんの?」
ラドルフは気が抜けたように天井をぼんやりと眺めながら呟く。ジルベールは、つまらなそうに答えた。
「…アリスベルガー子爵家をつぶしたくて、仕方のない輩が暗殺者を送り込んで、返り討ちにあったって話ぐらいだな。クエラドールの連中なら、こりねぇなぁって笑うくらいのつまらない話さ」
ラドルフは目を閉じて、つまらねぇとかひでぇなと笑った。その声は、弱音を吐いているようにも聞こえるが、いつものラドルフであると言いたげでもあった。
「…なんか知らんが、今日のお前は鬱陶しいな。さっさとアルファのところに行って、頭でも殴ってもらえよ」
ジルベールは、そう言いながら立ち上がると、帰り支度を始めた。ラドルフものろのろと起き上がる。ふっと二人の視線がドアの方に向いた。動いたのは、ジルベールである。勢いよくドアを開けると、ガツンというものすごい衝撃音が響いた。
「ギルバート君?…」
額を押さえてしゃがみ込んでいるのは、今日の当番小屋担当者だ。
「痛ってぇ…」
「おやまぁ、らしくないな。お前の反射神経死んでるのか?」
面白い物を見たと言わんばかりに、ラドルフが顔を出すとギルバートは、素早く立ち上がった。そして、口を開こうとしたら、丁度、視界に子供を抱えたマルクが飛び込んでくる。その視線に気がついたジルベールが振り返ると、マルクが抱えていたルナをそっとおろしているところだった。ジルベールがどうしたのかと、尋ねる前にギルバートが報告しますと声を上げた。
「領民の移転希望により、隊舎への受け入れ準備を開始しました。さっさと連れてこいとの副長命令です!」
その報告を聞いて、ルナはほっとした。ジルベールとラドルフもすぐに状況を把握したようだが、マルクは少し驚いている様子だった。
「あっそう。そんじゃあ、領民の方は俺とジルでフォローするから、マルクとギルは、そのぐったりしてる少年をさっさと隊舎につれていけ。それと、ルナちゃんは一緒に俺らと来てね」
ラドルフはそういうと、ジルベールと一緒にルナの手をとった。そして、ふっと掻き消える。
「いきなり、転移とか…ルナさんびっくりするだろうに…」
ギルバートは、頭を掻きながら苦笑する。マルクは、そっとレントを肩から降ろして、背中に背負い直す。
「…急だな。何かあったのか?」
「う~ん、レント君の話だとマリーさんが石の影響を受けてる人間を隊舎に移すように言ったらしい。まあ、副長はすぐに全員移動させろって。隊舎の準備に走り回ってるよ」
「千人…いないんだったか…」
マルクは、トラストとガザの会話を思い出す。実際の人数を把握しているわけではないが、坑道に残っている領民はかなり少ない。マルクのつぶやきに、ギルバートは、首を傾げた。
「え?何それ?」
「今日、班長とガザさんがそんなことを話してたんだ」
マルクはゆっくりと歩きながら、自分が聞いた話をギルバートに説明した。ギルバートは、軽くため息をついた。
「そっかぁ…俺さぁ、千人もどうやって隊舎に詰め込むのかって気にはしてたんだけど。聞いてられる雰囲気でもなかったんだよなぁ」
アルファは、ギルバートの報告を受けるとすぐに行動に移ってしまい、人数などの細かい話をする暇もなかった。だから、ギルバートは、その辺の処理は事務局長任せでもいいのかと思っていたらしい。
「マルクは気がついてたのか?」
「…いや。班長達の話を聞いて、言われてみればそうかもしれないと思ったくらいだよ」
「そうだよなぁ。正直ドラグーンのこととかよくわかんねぇし、街の方に行ったことないし…」
「うん、よくよく考えてみれば、領内巡回も警備隊の仕事のはずなんだけど…誰がその担当だとかそういうのも知らなかったし」
「ああ、それいないぞ」
「え?」
「だってさ、俺たちがここに来てから、魔物討伐に全員参加してんだぜ?いつも隊舎に残ってたのは副長と料理番だし、領内巡回に人間回せるほどいないしさ。だから当番小屋があったわけだし…」
「そっか…」
巡回するほどの人手がない。だから、何かあれば相談してもらうための窓口が必要だった。マルクはドラグーンが普通ではないことはわかっていたが、その深刻さまでは思い至らなかったことに気づく。
「それにしても…」
ギルバートは、お前すごいよと苦笑する。マルクは、首を傾げた。
「いや、だってさ。一人で毎日アレ全部とか…無理だぞ。その上、領民から急な要望とかにも対応って…」
マルクはギルバートが慣れない仕事をしたせいで、かえって疲れてしまったのかと心配そうな顔をした。
「あ、勘違いすんなよ。慣れとかの問題じゃないぞ。ついでに、マルクが半分以上、昨日の間に片づけてくれてたから、俺は十分休めたからな。その上で言ってんだよ。あの仕事量を毎日できてるお前はすごいって」
そういわれても、しっくりこないマルクは首を傾げる。
「だから…まず、薪と水だ!一日分の量が半端ねぇ。それも水は風呂とか掃除用と飲料用で分けて汲んでこなきゃならない!近くに水路通してあるからって、何往復しなきゃなんねぇのよ。その上、洗濯や掃除は各隊員が自分の服とか部屋とかは担当してるっていってもな、風呂とかトイレとか食堂の掃除は毎日でそれ以外は曜日でって…一人でやれって方が無茶!…お前、そんなことはないだろうみたいな顔してるけどな…この規模をどうしたら一人でどうにかできるんだよ。もう、それ神業だぞ!」
マルクは力説するギルバートに困ったような顔で答えた。
「…そういわれても、僕は力仕事だけは少し人よりましだってだけで」
「ましどころのレベルじゃねぇよ…」
ギルバートは、深いため息を吐く。
「マルク…お前いったいどんな生活してたんだ?」
「どんなって?」
できることをできるだけやってきたと答えるしかないのだが、それでは答えになっていないような気がするので、何をどう説明していいのかマルクは困ってしまった。
「いいか、マルク。ここの警備隊は人手不足だ。本来なら百人規模の隊だ。だから、隊舎は二棟、管理棟が一棟ある。それを半分の人数でやりくりしてるんだから、生活環境の整備に手が回らなくてもおかしくはないし、当番制で割り振られても、文句は言えない。風呂なんて毎日入れなくても仕方がないはずなんだよ。だいたい、この規模の屋敷を構えてる奴らだったら、最低でも下女や下男が二十人は働いてるぞ」
マルクはやっぱり首を傾げた。
「うちじゃそんなに雇ってなかったけど…」
「…マルク、お前の実家てどんなだったの?」
「え?どんなって…普通の宿屋だけど…」
「ここの規模と同じくらいか?」
「う~ん、もう少し広かった気がするかな…でも、十歳のときには祖母に引き取られたから、もっと小さかったのかもしれないけど…」
「マルク…もしかして家の掃除とか水汲みとかやってたか?一人で」
「うん、僕の仕事だったし…一人じゃなかったよ。やり方を教えてくれたおばさんが二人いたし…」
ギルバートは沈痛な面持ちで、ありえねぇとつぶやいた。
「あのな。ここと変わりないくらいの宿屋なら、五十人以上人が雇われてても不思議じゃないし、雇い人が少なかったら、掃除や洗濯は別の店に頼むことだってできるんだよ」
「ああ、そっか…客室とかリネンはやったことないな。そう言えば…」
ギルバートはがっくり肩を落として、乾いた笑いを漏らした。
「ギル?僕、変な事言ったか?」
ギルバートは、ぼそぼそといやとかうんとか、それでいいとかなんとかつぶやいて、一人何かを納得したようだった。
(この規模の宿屋の息子なら、働く必要なんてない。貧乏貴族よりずっと贅沢に一生暮らせるはずだ。なのに、マルクは子どものころから当たり前のように働いてて、その上、根が歪んでないどころか、謙虚すぎる…)
ギルバートは、困った顔のマルクを見て、話題を変えた。
「それより、マルクの初仕事はどうだったんだ?」
「…少しは役に立ったかもしれない。よくわからないけど」
「そっか、ならいいんだよ。それで」
ギルバートは、満面の笑みで答えた。
(これはきっと、相当な何かがあったんだろうなぁ…マルクの才能って、要するに本人が自覚してないだけで、半端ないことこのうえねぇよ。きっと、絵の才能はただの才能じゃないんだろうなぁ…すっげぇ面白れぇことになってそう)
ギルバートは、どこかうれしそうにマルクの隣を歩く。マルクはよくわからないが、ギルバートが疲れていないことにほっとしていた。二人が隊舎に戻ると、隊員たちはシーツやマットを抱えて慌ただしく動き回っていた。マルクが声をかけるのを躊躇っていたので、ギルバートが適当に声をかけて回復魔法が使えそうな奴はいないかと聞くと食堂にいけという返事が返ってきた。二人は首を傾げながらも、食堂に行くと副長が一人、食堂でスケッチブックを眺めていた。
「…なるほど。そりゃそうだな」
ギルバートは納得したようにつぶやく。アルファは命令を下して報告を待つのが仕事だ。手が空いているのは当然である。マルクも他の隊員には声をかけづらかったようだが、こちらに対しては素直に声をかけた。
「副長、お願いがあるんですが…」
「はいよ、何でもいいよ。お前頑張ったから、ご褒美ぐらい出すぞ」
「いえ、レント君に回復魔法をかけて欲しいんですが…」
アルファは、そこでようやくスケッチブックから目を放した。そして、椅子から立ち上がるとマルクの背後にまわり、背負われている少年を確認する。
「何だ?寝てるだけだぞ、こいつ」
「え?」
そんなはずはと言いかけたマルクに対して、アルファはレントの状態を説明する。
「顔色正常、脈異常なし。呼吸も安定。外傷もない。このまま、ベッドに放り込んでりゃ、朝には目を覚ますぜ」
「副長…適当に言ってませんか?」
「失礼だな。ギル。医療班じゃなくても、最低限の体調管理技能は習得してんだよ。じゃなきゃ、副長なんてなれねぇっつうのぉ」
「あれ?そうでしたっけ?」
「お前…あたしを暇人だとでも思ってんじゃねぇだろうな」
アルファがじろりとギルバートを睨み付ける。図星を指されて、一歩下がったギルバートはそんなことないですよといいつつも、目が泳いでいる。
「ま、いいや。とりあえず、お前は飯食って風呂入りな。マルクはその子をギルのベッドに放り込んでこい。スケッチした魔物の件で確認したいことあるからな。受け入れ準備は、他の奴らに任せておけ。お前は少し頑張りすぎだからな」
マルクは素直に命令に従い、レントを部屋に連れて行った。ギルバートも食事をしようと思ったが、テーブルの上のスケッチブックが気になる。
(すっげぇ見たいけど…)
ちらりとアルファの様子をうかがうが、彼女は気づいているのかいないのか、再び席についてスケッチブックをぺらぺらめくり始める。そこへ、料理番のヒルズが食事の乗ったトレイとマグカップを手にやってきた。
「ほら、喰いな。あんたはこれな」
「あ、ありがとうございます」
ギルバートは、トレイを受け取り、アルファの向かいに座った。アルファは、無言でマグカップを受け取りつつも目はスケッチブックに向いたままだ。ヒルズは、仕事熱心なのか暇つぶしなのかわからねぇなぁと苦笑する。
「そんなの両方に決まってんじゃん。ヒルズだって手が空いてるからそこにいるんだろ?」
「まあなぁ、夕飯も弁当でって言われたから、そのつもりで準備してたんだが、隊長から折り返しで変更命令でたからな。スープ付ける余裕ができたくらいだ」
「お前らとことん有能よね」
「別に俺らが有能とかじゃねぇだろう?まあ、無能でもないが…よその隊は、上が馬鹿すぎなだけで。なんにでも適材適所ってのはあるわけだしな」
「確かに…ここじゃ派閥だとか、貴族だの平民だので馬鹿やってる暇もないしなぁ」
「そうそう。日々、生きてるもの勝ち。人手不足なだけに、最大限自分の得意分野で仕事しないと死ぬからなぁ」
ギルバートは、アルファとヒルズの会話を聞きながら、サクサクと飯を食う。他の隊で働いた経験がないので思わず、他所の隊は暇なんですかとつぶやいていた。
「ここよりは、暇だぜ。領内巡回は散歩みたいなもんだし、隙あらば可愛い女の子に声かけて遊ぶ奴もいるしな。魔物も毎日でねぇから、隊長や班長の気分次第で訓練という名のいびりもある。ここじゃ休みの日なんて決まってねぇが、基本週休二日だ。希望休も取り放題だな」
「ヒルズ…休みたいのか?」
「ん?そう聞こえたか?俺に休まれたら、お前ら餓死決定だぞ」
「ああ、はいはい感謝してるよ。ヒルズとルロイのおかげです。ありがとうございますだよ」
ヒルズはそうそうしっかり感謝しとけよと笑う。
「ま、ここじゃ人手不足が常だからなぁ。領主が誰だろうと…」
ヒルズの言葉にギルバートが首を傾げた。
「え?どういうことですか?」
「何だ?お前知らんのか?」
ヒルズに呆れられながらもギルバートは、さらに首を傾げた。アルファは、軽いため息を吐いて説明した。
「ここはもともと国軍の管轄だったのさ。だから、隊舎の規模もでかいし、設備も結構しっかりしてる…が如何せん古すぎる。警備隊の管轄になってから予算が足りないせいもあったんだろうが、未だに水路から人力で水汲みだ。下水道は整備されているが、上水道の整備がない。トイレの整備は通常なのに変だと思わなかったか?ギル」
「…そういえば、いろいろちぐはぐしてますね」
隊舎のトイレは各階にあり、水洗だ。だが、飲料用や手洗い用の水は、浄化作用のある魔法石を入れた甕に入っていて、水自体を常に人力で補充しなければならない。トイレに水洗機能があるのだから、当然、水道設備があっておかしくないはずなのである。
「…お前、座学サボってただろ」
アルファは、呆れたようにギルバートを見た。
「え?座学は休憩時間ですよ。寝てても死なないし」
あっさりと当然のようにそう答えたギルバートに対して、アルファとヒルズはがっくりと肩を落とした。
「…勉強できる環境があることのありがたみを知らんのか?」
「ま、喰うに困らん人間にとっちゃ、そういうもんかもしれんな。貴族なんて働かなくてもどうにかなるもんなんだろうよ」
「ヒルズさん、それ酷い偏見ですよ。貴族っていっても、爵位が低けりゃ、跡取りと女子以外は、自分で食い扶持探さないと死にますよ。結婚できずに人生終わる奴もいるし、最悪、跡取りの身代わりとして飼い殺しになる奴だっているんだから。だいたい、勉強ができる奴は仕事の選択肢も多いし、貴族と縁を結びたい商人とか官吏とかの養子にだってなれるけど、俺みたいに座学が苦手なやつは警備隊がなかったら、病死扱いで殺されるか、放り出されて路頭に迷うかです。国軍に入れるのは成績優秀者だけだし…魔力や能力が低いと判断されたら、あっさり切り捨てられる。親子の情とか以前に体面重視の世界にはそれなりの残酷さがあるんです」
アルファとヒルズは、お互いに目を合わせて何かを納得したようだった。
「貴族には貴族の、平民には平民の過酷さがあるってことだな」
「そうね。ま、自分と他人を比べること自体、自ら不幸になるための行いだとは思うけど…結局、生存競争は生き残った者勝ちだし…」
「それにしても、ここの奴らは貴族らしくないというか、変り者ばかりな気がするのは、俺の気のせいか?」
「気のせいじゃないわよ。あいつら、ここを選んだ動機が同じだから…」
「動機?」
「傷心を癒すには忙しいほうがいいんだそうな。だったよな。ギル」
「ん?ああ、なるほど、先輩たちはその手を使ったのか」
ギルバートが一人納得している様子に、今度はアルファとヒルズが首を傾げる。
「失恋が理由なら、同情を買いやすいし、侮られやすいってことか…学院時代がかぶってれば、確かにその理由の方がしっくりくるかも…俺の場合も憧れの人が人妻なのでできる限り王都から遠くがいいってことにしてたら、あっさりここに入れてもらえたし…」
「お前…もしかして、勤務地がここじゃなくてもよかったってことか?」
「ん~警備隊に入隊が決まった時、クエラドールにするかそれ以外かで迷ってましたね。ただ、俺の性格上、できるだけ問題がある勤務地のほうがいいかなって思って、噂だとドラグーンがかなり最悪の勤務先らしいから、とりあえず、第一志望にしたんです。おかげで、俺の低すぎる沸点は、一度しか爆発しなかったし、マルクと話してると面白れぇし…あの人にも、また会えるなんて…ドラグーンに来てよかったなぁって思ってますよ」
ギルバートは、心底嬉しそうに笑っている。そして、トレイを手にしてごちそうさまでした、風呂行ってきますと言って立ち去った。
「なぁ、あたしはあいつの言ってることがさっぱり理解できないけど、あんたはどうよ?」
「俺も理解できねぇよ。ってか…あの人って誰だよ?」
「今度ここに赴任してくる貴族の奥方だよ。あたしも詳しくは知らないけど、『先祖返り』らしい。でもって、班長達はその女の崇拝者だとよ」
「なんだそりゃ…」
「なんだろうな?学院にいる知り合いに情報提供頼んだら…なんか、めちゃくちゃ罵られるし、ジルにも他所の隊を敵に回すだけじゃなく学院まで敵にするなと怒られたんだが、どうにもなぁ…子爵家のお嬢ちゃんに『戦闘女神』なんて不似合いな二つ名があるから、どんな感じか知りたかっただけなんだけど…」
「もしかしなくても、あれか?館の修繕を喜々として奴らがやらかした原因がその奥方か?」
「そうらしい…まあ、『先祖返り』だってんだから、魔力は最強なんだろうけど、それだけで崇拝者なんてのがゴロゴロ存在するはずはないし…まさか、魅了の力とかいう胡散臭い魔力の持ち主ってわけでもなさそうだがなぁ」
「魅了の力ねぇ…そんなもんが本当にあったとしても、不幸にしかならんだろう?人心を惑わすだけの力なんてもんはよぉ」
「だよなぁ…ま、そのうち会えるだろうけど、どうにもなぁ」
「謎すぎて気持ち悪いな」
ヒルズは苦笑した。
「まったくだ。主に先んじてドラグーン入りした執事におかしなところはなかったけど、侍女のほうは坑道に居座って領民の監視してるって話だったのに、何がどうしてこっちに移る話になったのかも謎だし…あ~気持ち悪いことこのうえねぇ」
アルファは両手で頭を挟んで天井を仰いだ。そこにマルクが戻ってきたので、頭のスイッチを切り替えて魔物のことについていろいろと確認の作業を始める。ヒルズは厨房に戻りながら、副長も十分に変わり者だろと思った。彼女にもいろいろな忌み名がついている。決してほめたたえるためのものではない。侮蔑と嫉妬と嫌悪。そう言った感情しか込められていない。
「騒がしいな」
厨房の片づけをあらかた済ませて、夜食のサンドウィッチと朝食の下準備をしていたルロイは戻ってきたヒルズにぼやく。ルロイはすでに退役の年を過ぎているのだが、交代要員がこず、未だに厨房の主である。厄日かよとつぶやきながらも、ごつい手はリズミカルに料理を作っている。
「なんだろうな?そういえば、爺さんさ、クエラドールに行ったことあるか?」
「ああ、かなり昔だがな。それがどうした?」
「いやぁ…この騒ぎの原因がどうもそこの子爵のお嬢ちゃんのせいらしいんだと…」
ルロイはへぇっと言って、一瞬、手が止まる。
「…おい…そりゃ、アリスベルガー子爵家のことか?」
「ああ、今度の管理人の奥様だそうだ」
ルロイは珍しく大笑いしだした。
「そ、そりゃあいいや。何が起こるか楽しみだ」
ヒルズがポカンとしていると、ルロイはおかしそうに笑いを噛み殺しながら、茶を入れる。
「何があるんだ?」
「さぁなぁ…ただ、あそこは変人の集まりみたいなもんだし、そこの頭目がアリスベルガー子爵家だ。何が起きても不思議じゃねぇよ。…ああ、そうかあいつらのバカ騒ぎはそのせいか」
「あいつらって?」
「班長達さ。新しい管理者のために休み返上で館の修復だとか…奇妙だなと思ったが…」
ルロイは喉の奥でクックと笑う。
「なんだかさっぱりわかんねぇなぁ。ギルも妙なこと言ってたし」
「妙な事?」
「ああ、班長達は傷心を癒すって理由でここに入ったらしいんだが、本心じゃないらしい。単純に王都からはなれたかっただけだとか、なんとか…」
ヒルズが困った顔で首をひねっているが、ルロイはまあそうだろうと言った。
「貴族は跡継ぎと娘以外は自力で生きてくしかねぇからなぁ」
「ギルもそんなこと言ってたが…」
「簡単な話さ。跡継ぎは、一人で十分だし、娘の嫁ぎ先は親の利益に関わるからな。男は嫡子以外いらねぇのさ。下手すりゃ、結婚さえゆるされねぇってんだから、可愛そうなもんさ」
「自力で生きてて結婚できねぇのか?」
「余計な身内を増やすなってことだな。勝手に家の名を使って借金だのなんだのと問題を起こすからな。恐ろしい話だが、間引きにあって殺されちまう子どももいるらしい。警備隊の貴族連中がやたらと威張り散らすのも他に行き場がないのに、家名を穢すなと教育されたせいだろうし、ガキの頃からいつ死ぬかわからないような環境で生きてりゃ、性格も根性も歪むだろう?ま、班長達が妙に貴族らしくねぇ理由もアリスベルガー家の影響だっていわれりゃ、納得いくってもんだ」
「納得いくのか?」
「まぁな。何せクエラドールの警備隊は最低人数以下だからな」
「ちょっと待ってくれ…爺さん。最低人数以下って…まさか…」
「ああ、十人勤務してればいいほうだな」
「…そんな人数で大丈夫なのか?確か海があって、水生の魔物がいるはずじゃあ…」
警備隊は領地の規模で割り当てがあるとはいえ、魔物が出現しやすい海や川、山がある場合は最低でも三十人の警備隊員が常駐する。魔物が出ない領地内でも、二十人はいるはずだ。
「おお、うじゃうじゃしてるぞ。その上、船酔いしてたら仕事にもならん」
(…十人勤務ってありえんだろう)
ヒルズはルロイが自分をからかっているのかと一瞬思ったが、そういう冗談をいうタイプではないことは承知しているし、誰もが疑いたくなるような嘘を吐くような人物でもない。
「とはいえ、あそこに飛ばされた奴らは自分の人生何なんだって思いたくなるくらいの衝撃は受けるからな。受けた衝撃が前向きな気持ちに繋がればいいが、悪い方に向かえば自暴自棄になることもある」
「…なんだそりゃ?」
「クエラドールには有能な人材しかいねぇとうっかり思っちまったら、地獄に落ちるってことだ。あそこは、商業が盛んな海沿いの田舎だと思ってる連中が多いようだが、実際は生活水準の高さは王都をしのぐ。それに領民は警備隊が不必要なくらい、安全で穏やかな暮らしをしている…俺は幸い好奇心のほうが強かったからな。いつか自分が生まれ故郷にも、あそこの技術や人材育成ができるような環境が整えばいいなと思っていろいろと見て回ったもんさ」
ルロイは懐かしそうに目を細めた。そして、ふっと何かに引っかかったように首を傾げた。
「…名前が違うのはなんでだ?」
「名前?」
「俺が聞いた次の管理者の名前は確かリザーズだった気がするが…」
「いや、リザーズ侯爵家の子息夫妻であってるぜ。それがどうかしたか」
「そうか…いや、てっきりアリスベルガー子爵家の令嬢夫妻だと思ったもんだからな…娘が嫁入りしたんなら、あの家にも男の跡継ぎが生まれったってこったろう」
ルロイが何だか上機嫌なので、ヒルズは気になることはいろいろあるが、それ以上は聞かなかった。
「…ひどい鉱山ね」
「どういう意味ですか?エレンさん」
「普通の鉱山には必ず詰所としての山小屋があるのよ。水やトイレが必要だし、医者だって待機してるわ」
アンバーは、そういうものかと首を傾げる。
「鉱夫は石の影響を受ける続ける仕事だからな。体調が少しでも悪けりゃ、命にかかわる。ほぼほぼ廃坑だといって住み着くような馬鹿な真似すりゃ、自殺行為と変わんないのさ。詰所の後すら見当たらない、この鉱山は異常すぎるってこった」
グラシードがエレンの言葉を補足するように言った。
「え?それって…ここに住み着いてる領民ってかなり命に危険があるってことですよね。山小屋がないってことは、水やトイレはどうしてるんですか?」
生活すること自体に無理がありすぎるとアンバーは思った。
「水は川か、水路から汲んできてんだろうな。トイレは…まあ、クズ石でも浄化力があるものを使えば、穴を掘って簡易トイレくらいにはなるが…」
「さっき、煙が見えたから竈はあるかもしれないわ。もしかしたら、トイレはないかもね」
グラシードとエレンはだんだんと表情が厳しくなっていく。
「まさか…基本的な教育がされてないなんてことは…」
「考えたくないけれど、可能性がないとは言えないと思うわよ。壊れた建物の中を見たわけじゃないから、台所とかの作りはわからないし、あの煙から推測するなら、竈に魔法道具が使用されてない可能性が高いんじゃない?」
「そうだな…」
二人は同時に大きなため息を吐いた。
「とんでもねぇことしてくれるなぁ。前任者は…」
「前任者だけの問題じゃないわよ。こんな惨状ほったらかしてるあいつらは、脳みそが蒸発でもしてんじゃないかしらね。ま、ドラグーンをつぶすってことが自分たちを殺すってことだって理解できていないとは思いたくないけど」
「潰す気はないんじゃないか?むしろ、クエラドールの富やアリスベルガー家をつぶすつもりでやってると考えた方がいいかもしれないぞ」
「そうね…ルーシェ様の婚約にも裏があったんでしょ?」
「あれは…フローラ様の個人的な判断だ。ご友人のためにしたことだからなぁ。本来なら、結婚には至らないはずだったんだが、お相手の坊ちゃんが、がっつりお嬢の心を捕まえちまったから…」
「それってやっぱり予想外なことだったのかしら」
「少なくとも婚約をさせた時点ではな。レオルドも最初からあの坊ちゃんには愛情が足りていないから、お嬢の心を射止めることはないだろうと思ってたらしい。それに、どっちかが結婚を希望しないようであれば、婚約の解消も織り込み済みだったからな」
「偽装婚約みたいなものだったわけ?」
「まあね。王家や公爵家には年の近い子息がいるからなぁ。勝手に婚約者候補にされたら、お嬢の自由がなくなっちまうだろ?」
「なるほど…『先祖返り』だもんね。目を付けれれないわけがないか」
アンバーは二人の会話を黙って聞いていたが、結婚祝いのお祭りでみたルーシェとその旦那はとても仲が良かったし、幸せそうだった。まさか、その婚約から結婚に至るまでの過程に家の事情や裏があるなんて思えないくらい、相思相愛に見えたのだ。家族と縁のないアンバーは結婚に憧れなど微塵ももっていなかったけれど、誰かと手を取り合って生きていくのはとても大事で幸せなことのように思えた瞬間だった。
「それより、正面から入るの?」
「いや、できればマリーに直接会いたい。下手に領民を刺激してあいつの邪魔はしたくないからな」
「なら、正面よりこっちね」
そう言ってエレンは、道から外れた。数分もしないうちに小柄な人間なら通れるくらいの穴をみつける。もう日が落ちて西の空がほんのり明るいだけなのに、彼女はそこに入り口があることを知っていたかのように、あっさり見つけた。
「…お前」
グラシードが呆れた声でエレンを見る。地図ならここよと言って自分の頭を指さした。
「ま、いつものことか」
「そういうこと…ま、最新じゃないから多少迷う可能性もあるけどね」
エレンはそう言いながら穴に入る。グラシードも躊躇いがない。アンバーも取り残されないように後に続いた。中はかなり暗い。エレンはカバンから手のひらサイズのランプを二つ出してグラシードとアンバーに渡した。ランプの光は弱く、足元が照らせる程度だ。
「これ…もう少し明るくなりませんか?」
アンバーは、ランプを掲げて坑道の奥を照らしてみるが先は真っ暗だ。
「明るくしてマリー以外の誰かに見つかったらどうするの?」
「え?見つかっちゃダメなんですか?」
「そりゃそうだろう。よそ者だぞ。俺たちは」
アンバーが首を傾げるので、グラシードとエレンはため息を吐いた。
「…こんな危険なところに隠れ住まなきゃならない人間が、よそ者を歓迎してくれると思うの?」
「あー…無理ですね」
「だったら、あんたは黙ってついてきなさい」
「はい…」
アンバーは、大人しく二人の後についていく。どのくらい歩いたのかわからないが、思っていたより早くマリーと合流できた。マリーは早かったですねと言ったが、グラシードはそうかとすっとぼける。国の南西部に位置するクエラドールから北北東に位置するドラグーンまで最短距離を馬車で移動すれば、二週間はかかる。今回は四日でたどり着いた。というのも、クエラドールとドラグーンの間にリザーズ侯爵家の領地が二か所あったからだ。転移魔方陣でその二か所を経由して最速でたどり着いたのである。転移魔方陣は領地の所有者の許可がなければ使い物にならない代物だ。王族以外は無許可で使用することは不可能なのである。
「…転移魔方陣でも使ったんですか?」
「ああ、意外そうだな。許可が下りないとでも思ったのか?」
「下りないとは思っていませんでしたが、時間はかかるかもと…」
「え?なんですか?お嬢様の嫁ぎ先だから普通なんじゃ…」
アンバーは、素直に疑問を口にした。全員が痛い視線を送ってくる。
(うわぁ…なにぃ…)
「嫁ぎ先でも、そうそう融通は利かないのですわ。それにガルム様は、お嬢様には厳しいですから」
「…それ、たぶんお前の誤解かもしれんぞ」
「そうでしょうか?かなりひどいことを口になさいますけど?」
グラシードがほんのちょっとガルムの肩をもったことに、容赦なく冷え冷えとした視線を向けるマリー。マリーとは初対面のアンバーですら、背中が寒くなるほど彼女の笑顔は冷酷に見えた。
「マリーってもしかして、婚約事情の裏側知らないの?」
「どういう意味ですの?エレン」
「戦略的婚約って話だけど…その様子だと知らなかったみたいね」
「初耳ですわ」
マリーが眉間に皺を寄せたのでグラシードが来る途中で話していたことを彼女に説明した。
「…と、まあそんな具合だからな。今更、手のひらを返して優しくできるような器用な御仁ではないだろう。ガルム様は」
「…そういうものでしょうか?」
「頑固で実直すぎるから、領地が点在していても単一侯爵家を維持できているんじゃないか?ま、その辺はお前さんの方がわかると思うがな」
マリーはしばらく黙っていたが、考えてもしかたがないので話題を変えた。
「わかりました。そのことはおいおい考えます。それより、グラシード。貴方の見立ては?」
「最悪だな。廃坑とはいえ、かなり負荷がかかる。お前もそれがないといられないんだろう?」
グラシードは太陽石のランプを指さした。他にも彼らが座っている布は、魔力の放出を遮断する特殊な糸で織られた布だ。鉱山労働者の負担を軽くするためにクエラドールの織物協会が二年前に開発したものである。
「ええ、廃坑だからこそと言うべきでしょうか。かなり魔力を食われますわね」
「領民はどうなの?死者は?」
「わたくしが来てからは死者は出ていないようですが、子どもたちに影響が出ているのは確かです。それについては警備隊の隊舎に移動するようお願いしましたから、数日中に動きがあるでしょう」
「そう…ここって水もトイレもなさそうだけど」
「ありませんわ。昼間に動ける女性たちが川から水を運んでいらっしゃいますし、トイレは外で適当にすませているようです」
「そんな状態で、ここで冬越そうとか…命知らずにもほどがあるわね」
「仕方がありませんわ。この領内では自分が魔法を使えることを知らない人ばかりですから…」
エレンはそれを聞いて目を丸くした。
「知らないって…伯爵家自体がお馬鹿だったの?」
「その可能性はありますね。先代が特に秀でて馬鹿だったと言えるかもしれませんが…ただ、それだけでこんな状況というのは無理がありますわ」
「周辺貴族が関係しているってこと?」
「ないとは言えないでしょう。ドラグーンの領民が他所の領地へ容易に入り込めたのですから。盗賊と化したというのは建前ですわ。魔法の使い方がわからない上に、読み書きさえまともにできないのならなおさらでしょう?」
アンバーは、エレンとマリーの会話に疑問を持った。
「あの~。そんなに難しいことなんでしょうか?他所と行き来するのって?」
「難しいわよ。特に手形を持たない人間にはね。商人や旅団が容易に旅をしてまわれるのは、それなりの手形を持っているからよ。魔法も使えないような犯罪者に領地の境界を超えるのは不可能に近いわ。ま、手引する人間がいれば別だけどね。貴族は領地と王都の邸宅に転移魔方陣を持っているから、他所の領地を通ることはないし、必要があれば王家が手形をだすのよ」
アンバーは、クエラドールの孤児院に預けられてから、旅をしたことがなかったので手形についてはすっかり忘れていた。なんだか、色々複雑な話になってきたなぁとアンバーは、不安を覚えた。
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