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先生、マグロは好きですか?2017
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しおりを挟む10月、潤が所長になってひと月ばかりの頃のこと。
地元太客や窓口担当者名は覚えたものの、土地勘もないのでたまの配達もナビ頼み。
引き継ぎは受けたが手探り状態の超絶グロッキーな時期のことだった。
その日、潤は事務所でのWeb会議が2本続き、ヘロヘロになって法人カウンターへ降りて来た。
隣のパソコン教室の扉は開放してあり、受講者が居らず暇を持て余した飛鳥が法人の雑務を手伝っていた。
「お疲れ様です、ハンコ押しておきましたよ」
「あ、あぁ、先生、すみません、」
保証書の台紙に社判を押してもらっていたのをすっかり忘れていた潤は、それを慌てて受け取る。
この時点で二人は知り合って5ヶ月、ぽつりぽつりと会話をすることもあったが潤はあまり深入りはしないようにしていた。
なんせ飛鳥は花粉の時期でもないのに常時マスクなのだ。
顔を見せたくない理由があるに違いない。
「…所長、顔色…悪いけど、大丈夫ですか?」
その飛鳥が屈んで、顔を覗き込んでくる。
「大丈夫です。ちょっと、はは、疲れました」
「…休憩とってないよね?ここ閉めて、教室で座ってたら?店番してるから。もしお客さん来たら教えるよ」
今日は土曜日、土日休みの企業が多いために法人事業部を訪ねてくる客も少ないのだ。
「いえ、業務外のことさせられません」
「だろうけど、カウンターのパソコンでうちのポスター作るから、そのついでだと思ってよ。オジサマが休憩から戻って来たら、ボクもそっちに帰るから。ね?倒れられても困るし」
彼の一人称は「ボク」、ちなみにオジサマとは飛鳥が用いる他の法人スタッフの総称である。
「あ、……はい。では、少しこちらで休みます」
「そこのお茶、飲んでいいからね」
教室の隅には運営会社本社支給のウォーターサーバー、卓上には生徒に出す用のお茶セットが置いてある。
「…いただきます」
マスクから覗く涙袋がぷくっと浮いたのを見た潤は力なく笑って、扉を閉めた。
10分ほど経った頃、地元企業の担当者がカウンターを訪ねてきたので飛鳥は潤を呼びに行く。
「所長、**プランニングのホシノ様がご挨拶にいらしてます」
「あ!はい、ありがとうございます、」
声をかけられ、気持ち良くうつらうつらしていた潤は飛び起きた。
所長代行に就任してから挨拶回りは随時行ってきたが、たまにこうして向こうから来ていただける場合もあるので有り難いが気が抜けない。
「ふー、……あ!」
入れ替わりにパソコン教室へ戻った飛鳥は、潤が腰掛けていたパソコンチェアを見た途端慌てて踵を返す。
彼女へ早急に伝えねばならない用事ができたのだ。
応対中の潤を扉の影から窺い、飛鳥はなんとか割り込む隙がないかと考える。
そしてしばらく待ってそろそろ他の法人スタッフがひとり休憩から戻る頃、
「所長、お電話が入ってます」
と客の見送りに入る潤に声を掛けた。
「え⁉︎あ、」
見送りとはいえ対応中に、しかも客に聞こえるように伝えてくるなんて普通はしないもの。
潤は飛鳥の側だけ上手に眉をしかめる。
「あぁ、清里所長、ここで大丈夫ですよ、お忙しいでしょう、失礼します」
「恐れ入ります、失礼します」
来客ホシノはカウンターから表に出ようとするのを止めて去って行くので簡単に見送り、潤は困惑した顔で飛鳥へ向き直った。
「先生、電話なんて後で…」
「ちょっと来て」
「え、」
飛鳥は潤の手を引き教室内へ連れ込み、彼女を奥へやり扉を閉めて小声になる。
「所長、これ」
「…!」
そこで飛鳥が指差したのは潤が先程まで座っていた椅子と座布団、それを目にした彼女の顔色は更に悪くなった。
座布団には鮮やかで、じんわりと広がった血。
女性なら一度は経験があるだろうか、服を通過して染み出た経血である。
潤はぺたと自身のスラックスのお尻を触ればその手にも水っぽい血液が付き、慌ててハンカチで手を拭いた。
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