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第6話 小さな一歩(後篇)
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そこまで説明し、雪花は自分の名札を浦河の前に掲げた。昨晩作成したフォーマットは、エクセルの入力欄に入れた内容が表示欄に自動反映されるように作ってある。デザインもシンプル化し、漢字表記の名前が今よりも大きく見やすくなるように変更した。会社ロゴも端にきちんと入れ込み、表から見ても裏から見てもきちんと部署と名前が確認できるようになっている。
これでひとまず、マークは顔を覚えなくても、名札を見れば相手の名前がわかる。運悪く名札がひっくり返っていても問題ない。英字表記の追加は英語の読めないマークには特にメリットがない変更だが、全社的に運用を変えるための理屈付けの一つとして追加した。
雪花の手の名札を眺めながら、浦河が「いいんじゃね?」と軽い口調で言う。
「地味で小さい変更ではあるが、皆が助かる改善だな。そしたら通達作ってくれ。即日適用で全社展開するから」
「――え、いいんですか?」
「いいよ。何か反対した方が良かったか?」
「いえ……ありがとうございます」
あまりにすんなり通ったので、少し拍子抜けしたような気持ちになりながらも、雪花はほっと胸を撫で下ろした。すると、浦河が「鈴木さぁ」と口を開く。
「こういうアイデアとか、これからもどんどん出していいよ。仕事量多いから無理は言わんけど、決められたことだけやるんじゃ面白くないだろ」
そう言われて初めて、雪花はこれまでに与えられた仕事をこなすことに一生懸命で、自分から何かを提案したことがないことに気付いた。
確かに昨日は遅くまで色々考えたり提案資料を作ったりして、定常業務は少し溜まってしまっている。
それでも、自分の中に充実感のようなものが芽生えたのも事実だった。
「――わかりました、また何か考えてみます」
雪花の言葉を聞くと、浦河はにやりと笑って「よろしくー」と部屋を出て行った。
***
「それではセツカさんが通達を作っている間に、私は全社展開の準備をしておきます」
先程の浦河との打合せの結果を伝えると、マークはいつも通りの真面目な顔で頷いた。
そして――その直後、口元を小さく緩める。
「セツカさんありがとうございます。引続き皆さんの顔を覚えるよう努力はしますが、この取組みが実現されれば、ひとまずは名札を見れば何とか対処できるようになります」
「はい、上手くいくといいんですが……あ、あと、マークさんにはもう一つお渡しするものがあります」
「もう一つ?」
雪花は自分の席に戻り、マークに1本のメールを送った。マークの席まで歩いて戻る間に、彼はそのメールの内容を確認し――そして「これは……」と言葉を失う。
PCの画面上には、雪花が昨日夜なべして作成したデータが表示されていた。
「うちの会社の従業員リストです。それぞれ部署別、職位順に並べてあります。顔写真データはさすがに全員分貼る時間がなかったので、部長層とうちの職場によく来る人の分しか入れていませんが……これで一度会った人の印象や用件、会った日付を名前の横の入力欄にメモしていけば、何もないよりは人の名前を覚えやすいと思います」
そこまで話して、マークの様子を窺う。マークは画面をスクロールしながら、真剣にデータに見入っていた。一応伝えるべきは伝えておこうと、雪花は続ける。
「それから、今後総務課に従業員の方が入ってきたら、私がその人の名前を呼ぶようにしますね。そうすれば、マークさんは名札を見なくても誰が来たかわかると思うので。私が席を外していたり、電話中だったりした場合には、マークさんに対応して頂くしかないんですけど……」
そこまで話したところで、総務課の部屋のドアが開いた。二人が振り返ると、そこには――。
「『鳥飼部長』、おつかれさまです」
昨日に引続き、鳥飼がそこに立っていた。雪花の言葉で相手を鳥飼だと認識したマークは、席を立ち彼の元に向かう。
「トリカイ部長、本日は何のご用件でしょうか?」
「――例の台詞は止めたのか」
普段通りの仏頂面で鳥飼がそう言った。昨日マークが『ニホンゴワカリマセン』と言ったことを指しているのだろう。
それに対し、マークは口元を緩めてみせる。
「はい、トリカイ部長には私の正体を隠す必要はありませんから。昨日はお気遣い頂いてありがとうございました。少しずつですが地球での生活にも慣れてきています、そう――セツカさんのお蔭で」
思いがけないマークの言葉に、雪花は思わず「えっ」と声を上げた。
その答えを聞いた鳥飼は表情を変えずに立っていたが、やがて小さく息を吐く。
「――それならばいい。引続き、気を付けるように」
そのまま鳥飼は部屋を出て行った。マークが席に戻ってくる。その表情は普段の真面目さを保っていたが、どこか嬉しさの色が滲み出ていた。
「ありがとうございます。セツカさんのお蔭で、トリカイ部長と無事に会話できました」
「良かったです。この作戦でいけそうですね」
雪花の言葉にマークは頷き、そして――その眼差しを優しく緩める。
「こんなに沢山の人達の情報をまとめるのは大変だったでしょう。私のために、本当に色々とありがとうございます。私もセツカさんの力になれるよう、精一杯頑張ります」
……面と向かってお礼を言われると、何だか照れてしまう。
雪花は「いえいえ、そんな」ともごもごしながら自分の席に戻った。飲むヨーグルトを一口啜る。甘酸っぱいいちご味が、口いっぱいに広がった。
第6話 小さな一歩 (了)
これでひとまず、マークは顔を覚えなくても、名札を見れば相手の名前がわかる。運悪く名札がひっくり返っていても問題ない。英字表記の追加は英語の読めないマークには特にメリットがない変更だが、全社的に運用を変えるための理屈付けの一つとして追加した。
雪花の手の名札を眺めながら、浦河が「いいんじゃね?」と軽い口調で言う。
「地味で小さい変更ではあるが、皆が助かる改善だな。そしたら通達作ってくれ。即日適用で全社展開するから」
「――え、いいんですか?」
「いいよ。何か反対した方が良かったか?」
「いえ……ありがとうございます」
あまりにすんなり通ったので、少し拍子抜けしたような気持ちになりながらも、雪花はほっと胸を撫で下ろした。すると、浦河が「鈴木さぁ」と口を開く。
「こういうアイデアとか、これからもどんどん出していいよ。仕事量多いから無理は言わんけど、決められたことだけやるんじゃ面白くないだろ」
そう言われて初めて、雪花はこれまでに与えられた仕事をこなすことに一生懸命で、自分から何かを提案したことがないことに気付いた。
確かに昨日は遅くまで色々考えたり提案資料を作ったりして、定常業務は少し溜まってしまっている。
それでも、自分の中に充実感のようなものが芽生えたのも事実だった。
「――わかりました、また何か考えてみます」
雪花の言葉を聞くと、浦河はにやりと笑って「よろしくー」と部屋を出て行った。
***
「それではセツカさんが通達を作っている間に、私は全社展開の準備をしておきます」
先程の浦河との打合せの結果を伝えると、マークはいつも通りの真面目な顔で頷いた。
そして――その直後、口元を小さく緩める。
「セツカさんありがとうございます。引続き皆さんの顔を覚えるよう努力はしますが、この取組みが実現されれば、ひとまずは名札を見れば何とか対処できるようになります」
「はい、上手くいくといいんですが……あ、あと、マークさんにはもう一つお渡しするものがあります」
「もう一つ?」
雪花は自分の席に戻り、マークに1本のメールを送った。マークの席まで歩いて戻る間に、彼はそのメールの内容を確認し――そして「これは……」と言葉を失う。
PCの画面上には、雪花が昨日夜なべして作成したデータが表示されていた。
「うちの会社の従業員リストです。それぞれ部署別、職位順に並べてあります。顔写真データはさすがに全員分貼る時間がなかったので、部長層とうちの職場によく来る人の分しか入れていませんが……これで一度会った人の印象や用件、会った日付を名前の横の入力欄にメモしていけば、何もないよりは人の名前を覚えやすいと思います」
そこまで話して、マークの様子を窺う。マークは画面をスクロールしながら、真剣にデータに見入っていた。一応伝えるべきは伝えておこうと、雪花は続ける。
「それから、今後総務課に従業員の方が入ってきたら、私がその人の名前を呼ぶようにしますね。そうすれば、マークさんは名札を見なくても誰が来たかわかると思うので。私が席を外していたり、電話中だったりした場合には、マークさんに対応して頂くしかないんですけど……」
そこまで話したところで、総務課の部屋のドアが開いた。二人が振り返ると、そこには――。
「『鳥飼部長』、おつかれさまです」
昨日に引続き、鳥飼がそこに立っていた。雪花の言葉で相手を鳥飼だと認識したマークは、席を立ち彼の元に向かう。
「トリカイ部長、本日は何のご用件でしょうか?」
「――例の台詞は止めたのか」
普段通りの仏頂面で鳥飼がそう言った。昨日マークが『ニホンゴワカリマセン』と言ったことを指しているのだろう。
それに対し、マークは口元を緩めてみせる。
「はい、トリカイ部長には私の正体を隠す必要はありませんから。昨日はお気遣い頂いてありがとうございました。少しずつですが地球での生活にも慣れてきています、そう――セツカさんのお蔭で」
思いがけないマークの言葉に、雪花は思わず「えっ」と声を上げた。
その答えを聞いた鳥飼は表情を変えずに立っていたが、やがて小さく息を吐く。
「――それならばいい。引続き、気を付けるように」
そのまま鳥飼は部屋を出て行った。マークが席に戻ってくる。その表情は普段の真面目さを保っていたが、どこか嬉しさの色が滲み出ていた。
「ありがとうございます。セツカさんのお蔭で、トリカイ部長と無事に会話できました」
「良かったです。この作戦でいけそうですね」
雪花の言葉にマークは頷き、そして――その眼差しを優しく緩める。
「こんなに沢山の人達の情報をまとめるのは大変だったでしょう。私のために、本当に色々とありがとうございます。私もセツカさんの力になれるよう、精一杯頑張ります」
……面と向かってお礼を言われると、何だか照れてしまう。
雪花は「いえいえ、そんな」ともごもごしながら自分の席に戻った。飲むヨーグルトを一口啜る。甘酸っぱいいちご味が、口いっぱいに広がった。
第6話 小さな一歩 (了)
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