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第7話 借り物の赤(前篇)
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――たとえ人々の雑踏の中であっても、私はあなたを見付けることができました。
第7話 借り物の赤
「初めまして、鈴木雪花さんですね。JAXAの古内と申します」
名刺を差し出された雪花は、慌てて受け取る。
「えっ……あ、はい、鈴木です」
ちらりと顔を上げると、目の前の女性はにこやかに微笑んだ。少しだけ栗色に染められた長い髪には艶があり、デパートの1階を通った時のような良い香りがする。童顔の自分とは違い、その整った顔は歳相応のメイクで上品に彩られていた。
「いつもマークがお世話になっております」
そう言う彼女の隣には、白いTシャツの上にチャコールグレーのジャケットを羽織ったマークが立っている。
雪花は古内に、ぎこちない笑みを返した。
***
――事の発端は、先週の水曜日に遡る。
マークが実習を開始してから2週間が経過し、雪花の名札作戦が功を奏してか、マークの仕事振りは順調だった。たまに様子を見に来る部長の鳥飼は勿論、今では定期的に相談に来る職場のキーパーソン達とも上手くコミュニケーションを取っている。
どこかから噂を聞き付けたのか、たまに他部署から恐らくマーク目当てであろう女性社員が来ることもあるが、仕事以外の内容については上手く『ニホンゴワカリマセン』作戦で躱していた。勿論雪花や浦河のサポートもあっての話だが、マークは問題なく総務課に溶け込んでいる。
この日は、急遽点かなくなってしまった照明器具の交換に駆り出されていた。
手が空いていた浦河と共に資材部に向かったマークが不思議そうな顔をして戻ってきたので、雪花が「おかえりなさい、どうでした?」と出迎える。
「随分と感謝されました。電灯を替えただけなのですが……」
「マークでかいからな。お蔭でさくっと終わったわ」
浦河が席に戻ってコーヒーを啜った。
「そういうものですか。仕事をして感謝されるというのは、不思議な感覚です」
「きっと皆さん嬉しかったんですよ。マークさん、おつかれさまです」
雪花がそうねぎらうと、マークが「……はい」と、少しだけ口元を緩める。
――あ、喜んでいるんだな。
普段は真面目な表情を崩さないマークだが、雪花と話していると、たまにこんな顔をすることがあった。
マークが自分に少なからず心を開いてくれているようで、雪花の心は小さく熱を持つ。それは指導員である自分に芽生えた、小さな自信の表れなのかも知れない。
「ちなみにマークさぁ、週末って何してんの」
秘書課からもらったどら焼きを食べながら、浦河がマークに話しかける。
浦河は前部署の時の繋がりもあってか、顔が広い。雪花からすると高嶺の花に感じてしまう秘書達が、浦河とはフレンドリーに話しているシーンを何度も見たことがある。コミュニケーション力に自信のない雪花は、浦河のそういう点を純粋に尊敬している。
「そうですね。最初の週末はJAXAの方に付き添ってもらって、身の回りの買い物を済ませました。それ以外は家で過ごしています」
どら焼きを物珍しそうに眺めながら、マークが答える。一口かぶりつくと、マークが目を見開いた。そのまま真面目な表情で雪花に視線を向ける。
「セツカさん、これもおいしいですね」
「それは良かったです」
規則的なペースでどら焼きを食べ進むマークを見て、雪花は微笑ましい気持ちになった。そんな二人を見ながら、浦河が口を開く。
「折角地球に来たんだし、観光でも行ってきたら? 鈴木のガイドで」
思いがけない提案に、雪花は目を剥いて浦河に顔を向けた。浦河は変わらぬ表情でどら焼きを食べつつ「お、栗入ってるじゃん。ラッキー」と無邪気に喜んでいる。
別にマークと観光に行くのが嫌なわけではない。しかし、あまりにも唐突過ぎる。
何か言わなければ……と雪花が口を開こうとした瞬間、マークが「いえ、それはセツカさんにご迷惑ですから」と答えた。
「平日に仕事の面倒を見て頂いているだけでもご苦労をおかけしているのに、休日までセツカさんを拘束するわけにはいきません。観光はいずれしようと思いますが、一人で行けますから大丈夫です」
そうきっぱりと断言する。その言葉に、雪花はマークの誠実さを改めて感じた。
そして、思い出す――彼が9,000万km遠方から来ていることを。
順調にいけば、彼は今年の年末には火星に帰ってしまう。それまで、地球での思い出作りを手伝うことも、一種の指導員の役割と言えなくもない。
そう考え付いた時、雪花の心にまた一つ明かりが灯った。
「――いえ、折角ですし行きましょう、マークさん」
雪花の言葉に、マークが驚いたように振り向く。雪花は笑顔で続けた。
「実は私も行ってみたい観光地があるんです。良い機会なので、ご迷惑でなければ一緒に」
「そんな、迷惑だなんてとんでもない……」
「じゃあ、決まりですね」
今度は雪花が断言する。すると、変わらない表情に僅かに戸惑いの色を滲ませていたマークが、観念したように息を吐いた。
「それでは、よろしくお願いいたします」
そして――小さく口元を緩める。
その表情を見て、雪花の中の灯がじわりとその温度を上げた。
第7話 借り物の赤
「初めまして、鈴木雪花さんですね。JAXAの古内と申します」
名刺を差し出された雪花は、慌てて受け取る。
「えっ……あ、はい、鈴木です」
ちらりと顔を上げると、目の前の女性はにこやかに微笑んだ。少しだけ栗色に染められた長い髪には艶があり、デパートの1階を通った時のような良い香りがする。童顔の自分とは違い、その整った顔は歳相応のメイクで上品に彩られていた。
「いつもマークがお世話になっております」
そう言う彼女の隣には、白いTシャツの上にチャコールグレーのジャケットを羽織ったマークが立っている。
雪花は古内に、ぎこちない笑みを返した。
***
――事の発端は、先週の水曜日に遡る。
マークが実習を開始してから2週間が経過し、雪花の名札作戦が功を奏してか、マークの仕事振りは順調だった。たまに様子を見に来る部長の鳥飼は勿論、今では定期的に相談に来る職場のキーパーソン達とも上手くコミュニケーションを取っている。
どこかから噂を聞き付けたのか、たまに他部署から恐らくマーク目当てであろう女性社員が来ることもあるが、仕事以外の内容については上手く『ニホンゴワカリマセン』作戦で躱していた。勿論雪花や浦河のサポートもあっての話だが、マークは問題なく総務課に溶け込んでいる。
この日は、急遽点かなくなってしまった照明器具の交換に駆り出されていた。
手が空いていた浦河と共に資材部に向かったマークが不思議そうな顔をして戻ってきたので、雪花が「おかえりなさい、どうでした?」と出迎える。
「随分と感謝されました。電灯を替えただけなのですが……」
「マークでかいからな。お蔭でさくっと終わったわ」
浦河が席に戻ってコーヒーを啜った。
「そういうものですか。仕事をして感謝されるというのは、不思議な感覚です」
「きっと皆さん嬉しかったんですよ。マークさん、おつかれさまです」
雪花がそうねぎらうと、マークが「……はい」と、少しだけ口元を緩める。
――あ、喜んでいるんだな。
普段は真面目な表情を崩さないマークだが、雪花と話していると、たまにこんな顔をすることがあった。
マークが自分に少なからず心を開いてくれているようで、雪花の心は小さく熱を持つ。それは指導員である自分に芽生えた、小さな自信の表れなのかも知れない。
「ちなみにマークさぁ、週末って何してんの」
秘書課からもらったどら焼きを食べながら、浦河がマークに話しかける。
浦河は前部署の時の繋がりもあってか、顔が広い。雪花からすると高嶺の花に感じてしまう秘書達が、浦河とはフレンドリーに話しているシーンを何度も見たことがある。コミュニケーション力に自信のない雪花は、浦河のそういう点を純粋に尊敬している。
「そうですね。最初の週末はJAXAの方に付き添ってもらって、身の回りの買い物を済ませました。それ以外は家で過ごしています」
どら焼きを物珍しそうに眺めながら、マークが答える。一口かぶりつくと、マークが目を見開いた。そのまま真面目な表情で雪花に視線を向ける。
「セツカさん、これもおいしいですね」
「それは良かったです」
規則的なペースでどら焼きを食べ進むマークを見て、雪花は微笑ましい気持ちになった。そんな二人を見ながら、浦河が口を開く。
「折角地球に来たんだし、観光でも行ってきたら? 鈴木のガイドで」
思いがけない提案に、雪花は目を剥いて浦河に顔を向けた。浦河は変わらぬ表情でどら焼きを食べつつ「お、栗入ってるじゃん。ラッキー」と無邪気に喜んでいる。
別にマークと観光に行くのが嫌なわけではない。しかし、あまりにも唐突過ぎる。
何か言わなければ……と雪花が口を開こうとした瞬間、マークが「いえ、それはセツカさんにご迷惑ですから」と答えた。
「平日に仕事の面倒を見て頂いているだけでもご苦労をおかけしているのに、休日までセツカさんを拘束するわけにはいきません。観光はいずれしようと思いますが、一人で行けますから大丈夫です」
そうきっぱりと断言する。その言葉に、雪花はマークの誠実さを改めて感じた。
そして、思い出す――彼が9,000万km遠方から来ていることを。
順調にいけば、彼は今年の年末には火星に帰ってしまう。それまで、地球での思い出作りを手伝うことも、一種の指導員の役割と言えなくもない。
そう考え付いた時、雪花の心にまた一つ明かりが灯った。
「――いえ、折角ですし行きましょう、マークさん」
雪花の言葉に、マークが驚いたように振り向く。雪花は笑顔で続けた。
「実は私も行ってみたい観光地があるんです。良い機会なので、ご迷惑でなければ一緒に」
「そんな、迷惑だなんてとんでもない……」
「じゃあ、決まりですね」
今度は雪花が断言する。すると、変わらない表情に僅かに戸惑いの色を滲ませていたマークが、観念したように息を吐いた。
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