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第6話 小さな一歩(前篇)
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――私にできることは、本当に小さなことかも知れませんが。
第6話 小さな一歩
いつもと違う時間帯の電車は、思ったよりも空いていた。
雪花はいつも、7時30分過ぎには会社に到着している。単純に満員電車に乗りたくないのと、早起きが得意だからだ。
しかし、今日は昨日の深夜残業が祟ってか、なかなか布団を出ることができなかった。いつもなら会社に居る時間にも関わらずぐずぐずしていると、妹の花菜が「お姉ちゃん? 私もう行くよー」と心配そうに声をかけてくる。そこでやっとスイッチが入り、そのまま手早く準備を済ませて家を出た。
通勤ラッシュを想像して一瞬気が重くなったものの、車内は立っているのがやっと……という程の様相ではない。途中のターミナル駅までは窮屈だったが、そこから会社の最寄り駅までは想像以上にゆとりがあった。
少しほっとした気持ちで窓の外を見る。太陽は今日も明るく外の世界を照らしていた。
ふと、雪花の頭に疑問が過る。
――火星って、どこにあるんだろう。
携帯で検索をしてみると、無数の情報が画面上に吐き出された。見てみると、知っていることと知らなかったことがそれぞれに書かれている。
直径は地球の半分くらい、全体的に赤っぽく見えて、地球の一つ外側を公転している。そうか、地球から見れば、火星は太陽とは反対側にあるんだ――あたたかい陽射しに照らされた車内で、雪花は検索結果を読み進めていった。
そうそう、重力は地球よりも軽いんだ。浦河課長が言っていた。平均気温はとても低いって、これはマークさんが教えてくれたんだっけ。1日の時間も、地球より火星の方が長いんだよね――。
不思議な気分だ。勿論雪花は一度も行ったことなどない、つい数ヶ月前までは気にも留めない存在だったのに――今は火星のことを身近に感じている。
その内に、興味深い記載を発見した。地球も火星も太陽の周りを公転する太陽系の惑星だが、どうやらその公転軌道と周期に違いがあるらしい。地球の公転軌道がほぼ円に近く365日で1周するのに対し、火星は楕円形に近い公転軌道で1周するのに687日かかる。それによって、地球と火星の距離は常に変化しているという。
そして2年2ヶ月に1度、太陽から見て地球と火星が同じ方向に並ぶ。その接近時の距離も先程の理屈によって変わってくる。最も近い時で5,500万km、そして最も遠い時で1億km――雪花には想像もできないスケールだ。
この前の最接近時の距離が8,000万kmだと書いてある。すると、少しずつ離れていっているはずの、現在の両者の距離は9,000万kmくらいだろうか。
――そんな遠くから、マークさんは来ているんだ。
異国どころか異星の地で働くというその決意はいかばかりであろうか。幾ら文明の利器に身を包み、万全の準備で臨んでいるとしても、きっと不安はあるだろう。
それならば、より彼にとって働きやすい環境を整えるというのも、重要な指導員の仕事である。
特段のトラブルが無ければ、マークは今年の年末まで総務課にいることになると浦河から雪花は聞かされている。それまでの間、折角地球に来たマークがせめて居づらいと思うことのないようにしよう――そう雪花は決意した。
***
「名札のフォーマットを変える?」
「はい、そうです」
浦河が出勤してきた頃合いを見計らって、雪花は会議室に浦河を呼んだ。雪花は昨晩作成した資料を会議室のディスプレイに映し出しながら説明を続ける。
「現在の名札ですが、首からネックストラップで下げたクリアケースの一方に部署名と氏名を漢字表記で印字した紙を入れ、同じケース内に入場セキュリティ機能を持つ社員証カードを入れています。しかし、我が社も従業員数が500名を突破し、日本人以外の従業員も少しずつ増えてきたことで、各部署のローカル運用で名札に英字表記を追加したりしているケースもあると聞いています」
これは嘘ではない。実際に、雪花がかつて在籍していた営業部の或る課に韓国籍の新人が入社して、彼のためにその課のメンバーが英字表記を名札に書き加えていたのを覚えている。その時には、大変だなぁくらいにしか思っていなかったが。
「また、これは財務部の担当者の話ですが、従業員の増加により領収書処理の相談に来る人達も増え、その際に名札が裏側にひっくり返ってしまっていたりすると、肝心の名前が見えず誰だかわからないので気まずいということでした」
これも嘘ではない。たまに雪花も領収書処理のために財務部に行くが、その時にベテランの女性社員達がそんな愚痴を言っているのが聞こえてきた。その時にも、確かに気まずいよねくらいにしか思っていなかったが。
「加えて、企画部からは従業員の会社に対する帰属意識・モチベーション向上のため、社内資料等にも会社ロゴを積極的に使用するよう通達が出ています。現状の名札フォーマットにはロゴを入れておりませんので、こちらも早急に入れるべきと考えます」
これも事実だ。ただ、他の業務に追われている内にすっかり忘れていたのは内緒だ。
「――ですので、今回名札のフォーマット用紙を会社ロゴを加えたデザインで刷新し、部署名と氏名は漢字と英字の並列表記とすること、また表裏どちらでも見えるような形にしたいと考えています。実施にあたってはコストも中の紙の印刷代しかかかりません」
第6話 小さな一歩
いつもと違う時間帯の電車は、思ったよりも空いていた。
雪花はいつも、7時30分過ぎには会社に到着している。単純に満員電車に乗りたくないのと、早起きが得意だからだ。
しかし、今日は昨日の深夜残業が祟ってか、なかなか布団を出ることができなかった。いつもなら会社に居る時間にも関わらずぐずぐずしていると、妹の花菜が「お姉ちゃん? 私もう行くよー」と心配そうに声をかけてくる。そこでやっとスイッチが入り、そのまま手早く準備を済ませて家を出た。
通勤ラッシュを想像して一瞬気が重くなったものの、車内は立っているのがやっと……という程の様相ではない。途中のターミナル駅までは窮屈だったが、そこから会社の最寄り駅までは想像以上にゆとりがあった。
少しほっとした気持ちで窓の外を見る。太陽は今日も明るく外の世界を照らしていた。
ふと、雪花の頭に疑問が過る。
――火星って、どこにあるんだろう。
携帯で検索をしてみると、無数の情報が画面上に吐き出された。見てみると、知っていることと知らなかったことがそれぞれに書かれている。
直径は地球の半分くらい、全体的に赤っぽく見えて、地球の一つ外側を公転している。そうか、地球から見れば、火星は太陽とは反対側にあるんだ――あたたかい陽射しに照らされた車内で、雪花は検索結果を読み進めていった。
そうそう、重力は地球よりも軽いんだ。浦河課長が言っていた。平均気温はとても低いって、これはマークさんが教えてくれたんだっけ。1日の時間も、地球より火星の方が長いんだよね――。
不思議な気分だ。勿論雪花は一度も行ったことなどない、つい数ヶ月前までは気にも留めない存在だったのに――今は火星のことを身近に感じている。
その内に、興味深い記載を発見した。地球も火星も太陽の周りを公転する太陽系の惑星だが、どうやらその公転軌道と周期に違いがあるらしい。地球の公転軌道がほぼ円に近く365日で1周するのに対し、火星は楕円形に近い公転軌道で1周するのに687日かかる。それによって、地球と火星の距離は常に変化しているという。
そして2年2ヶ月に1度、太陽から見て地球と火星が同じ方向に並ぶ。その接近時の距離も先程の理屈によって変わってくる。最も近い時で5,500万km、そして最も遠い時で1億km――雪花には想像もできないスケールだ。
この前の最接近時の距離が8,000万kmだと書いてある。すると、少しずつ離れていっているはずの、現在の両者の距離は9,000万kmくらいだろうか。
――そんな遠くから、マークさんは来ているんだ。
異国どころか異星の地で働くというその決意はいかばかりであろうか。幾ら文明の利器に身を包み、万全の準備で臨んでいるとしても、きっと不安はあるだろう。
それならば、より彼にとって働きやすい環境を整えるというのも、重要な指導員の仕事である。
特段のトラブルが無ければ、マークは今年の年末まで総務課にいることになると浦河から雪花は聞かされている。それまでの間、折角地球に来たマークがせめて居づらいと思うことのないようにしよう――そう雪花は決意した。
***
「名札のフォーマットを変える?」
「はい、そうです」
浦河が出勤してきた頃合いを見計らって、雪花は会議室に浦河を呼んだ。雪花は昨晩作成した資料を会議室のディスプレイに映し出しながら説明を続ける。
「現在の名札ですが、首からネックストラップで下げたクリアケースの一方に部署名と氏名を漢字表記で印字した紙を入れ、同じケース内に入場セキュリティ機能を持つ社員証カードを入れています。しかし、我が社も従業員数が500名を突破し、日本人以外の従業員も少しずつ増えてきたことで、各部署のローカル運用で名札に英字表記を追加したりしているケースもあると聞いています」
これは嘘ではない。実際に、雪花がかつて在籍していた営業部の或る課に韓国籍の新人が入社して、彼のためにその課のメンバーが英字表記を名札に書き加えていたのを覚えている。その時には、大変だなぁくらいにしか思っていなかったが。
「また、これは財務部の担当者の話ですが、従業員の増加により領収書処理の相談に来る人達も増え、その際に名札が裏側にひっくり返ってしまっていたりすると、肝心の名前が見えず誰だかわからないので気まずいということでした」
これも嘘ではない。たまに雪花も領収書処理のために財務部に行くが、その時にベテランの女性社員達がそんな愚痴を言っているのが聞こえてきた。その時にも、確かに気まずいよねくらいにしか思っていなかったが。
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これも事実だ。ただ、他の業務に追われている内にすっかり忘れていたのは内緒だ。
「――ですので、今回名札のフォーマット用紙を会社ロゴを加えたデザインで刷新し、部署名と氏名は漢字と英字の並列表記とすること、また表裏どちらでも見えるような形にしたいと考えています。実施にあたってはコストも中の紙の印刷代しかかかりません」
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