バイタルサイン

第４話 悪夢の《技術》

　昼食を終えて、ほとんどの１年生が授業で教室に戻るなか、利里は机を拭いてから背負っていたリュックサックを傍らの椅子に引き寄せて乗せた。見た目から分かるほど荷物が詰まっているリュックではあるが、これは看護学生あるあるだ。１冊１冊の幅と重量感がかなりあるのだ。だから学生のほとんどは指定の専用ロッカーにて教科書を置くというより、置かなければやっていられない。それぐらい質量も密もある専門書なのだ。
（そのおかげで通勤電車もめっちゃ重いし、肩も凝るんだよ）
　――まじで看護学生ってハードだよな。
「はぁ……」
　深い疲弊を込めた息を吐いて、利里は教科書と配られた資料を開く。教科書は”解剖生理”と呼称される、人体について深めていく書物だ。その隣には、おととしの解剖生理、《骨格・筋肉》の分野である。
「あ～、留年したからって最新の資料ももらえないし、授業も受けさせてくれないし。授業も大変だけどさ～、テストだけっていうのも、大変なんだよな～」
（本当に看護師目指して良いのかな。国家資格だし、手に職を持った方が良いからっていうのもあるし。でも、留年しているもんな～、俺は）
　骨格の分野である関節を見てノートに書きこんでいく。図解のコピーもした。まとめノートも作った。当たり前だが先生の年間の過去問題集も作成済みだ。
　――でもこれは、あり余る時間があったからできたこと。普通では難しい。一体、自分の同期だった３年生はどういう時間のやりくりをして、進級ができたのだろうかと疑問は募るばかりだ。
　何度もノートに単語をまとめて書く。そして１人も居ない学生ホールにてぶつぶつと呟いては、何度も何度も繰り返す。覚えていく。……だがこれだけではないのだ。
「次は《基礎看護》のコミュニケーションと倫理か。去年は受けられなかったけれど、おととしはまじでひどい点数を取ったよな～。……勉強したのに」
　１時間ほど解剖生理を復習したかと思えば、水を飲んでいったん休憩を挟み、次の教科を勉強する。次の科目はかなり厄介だ。実技演習を踏まえた科目だからである。利里は特に実技が不得意中の不得意で、実技演習では練習をしても担当教師に様々な指摘を受けてきたのだ。しかしそれは利里だけでもない。ほかのクラスメートも練習を積んでも指摘はやはり受けてきた。
『対面で話すときは目線を合わせるでしょう。メモを取ることだけに集中をしない！』
『患者様が素直に看護を受けると思う？　同意を得たうえで看護行為を行いなさい』
　……そんな指摘を何度も受けてきて、何度も怒られて、そして初めての実習で。
　俺の悪夢、いや、ただのアクシデント。でも俺にとってはトラウマになるほどの深い傷。
「『あなた、患者様をなんだと思っているの！　道具だと思っているの？』……やば。疲れてきたかも。嫌なこと思い出した」
（あれだけ練習を積んで、何度も何度も何度も、親とか同期と練習を積み重ねてきたのにできない、俺の実技の中の１つ）
　すると利里は顔を蒼白させて過呼吸になっていく感覚を覚えた。だから普段から持ち歩いているビニール袋に鼻と口を覆わせ呼吸をしていく。
　それだけ苦痛で、泣きたいほど苦痛で、鋭利な痛みが彼を包む。
「はぁ、はぁ、っはぁ……」
　落ち着いて深く呼吸をさせて状態を安定させる。医務室に行かなかったのは、あまりにも過呼吸があったおかげで、豊橋に「過呼吸するぐらいで来るな」という忠告を受けたから。冷徹な判断ではあるが、自分の発作を自分で解決をするのも、学生として、人としてすべきなのだというのを看護師である母にも言われた。
　呼吸を整わせて、利里は自身の手首、橈骨動脈と尺骨動脈を探しては触れていく。ドクドクと脈が打たれていく感覚に利里は自身を小さな自信を取り戻し、イヤホンを掛けて音楽を聴きながら基礎看護の勉強を始めた。