イシュラヴァール放浪記

道化の桃

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第四章 遠征編

夜明け

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 朝靄が地平線を白くぼかしている。
 ファーリアが短い眠りから目覚めると、マルスがテラスに立って遠い砂漠を眺めていた。客用だろうか、無地のシンプルなガウンを羽織っている。
「……うっ……」
 寝台から起き上がろうとして、ファーリアは小さく呻いた。身体のあちこちが痛い。
 マルスが気付いて振り向いた。
「よい、寝ていろ」
 ふと、ファーリアはあることを思い出した。
「陛下、お身体はもういいのですか?」
 マルスは一瞬、なんのことかと考えてから、
「ああ、毒のことか」
と、これまた思い出したように言った。寝台の横の小卓に置いてあった小さな椀を取って、ファーリアに見せる。
「そなたが言っていた解毒剤とは、これか?」
 中には褐色の小ぶりの果実が、乳棒で半分だけ潰されていた。
「これです。誰が……」
「何者にか知らんが、これを飲まされたらしいな。目覚めた時には誰もいなかった」
 あの碧い眼の男だろうか。そういえばあの男はどこへいるのだろう。
 マルスはジャヤトリア辺境伯を放逐した、と言った。それが具体的にどういうことなのか、ファーリアには想像もできなかった。
「これからこの屋敷はどうなるのですか」
「今のあるじは私だ。王都に戻ったら、この地には然るべき地方官を任命する」
「王都へ……」
 それはとても遠い場所のように思えた。短い間に色々なことがありすぎた。こうして昔過ごした屋敷にいると、アルサーシャでのことがまるで夢だったような気さえする。だが、マルスは確実に王都へ帰るのだ。
(わたしは、どうなるのだろう……)
 近衛兵に戻れるのか。それともここに残されるのか。ファーリアが奴隷だったと分かって、マルスはどう思っているのか。
「不安そうな顔をしている」
 はっと気付くと、マルスがすぐそばに座ってファーリアの顔を覗き込んでいる。
「あっ、いえ、あの」
「どうした。ジャヤトリアに親兄弟でもいるのか?」
「いいえ、いません。母は幼い頃に死んで、父は――」
 父が死んだ、とは聞かされていなかった。父の記憶は、つい最近思い出した、記憶の断片だけである。あれも本当の父親だったのかすらわからない。たまたまいた男性を父と呼んでいたのかもしれない。もはや何の手がかりもない。きっともう逢うことはないだろう。
「……父はいません。名も知りません。他に身寄りはひとりも」
 そう言いながら、ファーリアは何か引っかかるものがあった。記憶の層の奥の奥に刺さった棘のような――。が、続くマルスの言葉に気を取られて、すぐに忘れてしまった。
「では迷うことはあるまい。私と来い」
「……良いのですか?」
「そなたが嫌でなければな」
 他に生きる場所などなかった。
「喜んで、お仕えします」
 マルスは満足そうな笑みを浮かべた。
「さて、と。私は屋敷の様子を見てこよう。この屋敷にいる兵力も知りたい。そなたは休んでいろ」
「いえ、わたしも……つぅっ……」
 寝台から下りて立ち上がろうとして、ガクンと膝が折れる。マルスが咄嗟に手を伸ばして支えた。
「その格好でか?」
 ファーリアはまだ裸だった。言われて初めて気がついて、ファーリアは慌てて前を隠す。
「いえ、あの」
「冗談だ」
 マルスはファーリアを抱き上げて、寝台に寝かせる。
「おとなしく寝ていろ。明日は隊に戻るぞ。それまでに万全になっていてもらわねば」
「……はい……」
 ファーリアは今度は素直に従った。

 自分でも驚くほどぐっすり眠って、目が覚めたら既に日は西に傾いていた。
「よく眠っていたな」
 マルスがファーリアの服を投げてよこした。服はすっかり乾いていた。
「起きられるか?食事に行く。付き合え」
「はい」
 食堂には宰相はじめジャヤトリアの重鎮がずらりと揃っていた。
 ファーリアはどこに立っていればいいのか判断しかねて、入口の前に立ち尽くした。
「アトゥイー、これへ」
 長大な食卓の上座に座ったマルスが、ファーリアを手招いた。すぐ右側の椅子に座るように促す。
 ファーリアは椅子に掛けたが、どうも落ち着かずに俯いた。食堂に集まった面々の中には、かつて見知った顔もある。彼らはファーリアが奴隷で、ジャヤトリア元辺境伯の愛玩具おきにいりだったことを知っている。ファーリアはあまりの場違いさに身の縮む思いがした。
「さて、知っての通り、ジャヤトリアは昨日付で国王直轄領となった。諸兄らには、イシュラヴァール王国に忠誠を誓い、私の元に残ってくれたことに感謝する」
 マルスが盃を高く掲げると、一同も同様に盃を掲げて「イシュラヴァールに」と呼応した。
「私は今、戦闘民族の討伐の途中、奇襲に遭い、麾下の者の案内でここへ逃れてきた。ついてはこの屋敷にいる兵を挙して明日、討伐隊に合流しようと思う。宰相イーサー、計画の説明を」
「は。昼間大将らと共に決めた編成で、問題なく出兵できることを、先程確認済みでございます。ジャヤトリアの兵は皆、戦闘民族とのゲリラ戦には慣れており申す。安心してお任せくだされ」
「うむ。それでは食事にしよう。遠征軍の賄方まかないがたには、こんなうまいものは用意してもらえない。今のうちにたらふく食べておかねばな」
 はっはっは、と笑いが起き、そこからは賑やかな食事の場になった。
 ファーリアも久しぶりの食事に、しばし夢中になって食べた。料理を運んでくる奴隷たちの目が痛いような気がしたが、気にしても仕方がないと開き直った。腹が膨れてくると考えも楽観的になるのかもしれない。
「――ときに、宰相」
 マルスが思い付いたように口を開いた。
「なんですかな」
「私に薬を飲ませたものがいるはずだが、どの者かわかるか?」
 ファーリアはどきりとした。
「……はて……存じませんな」
 白髭の宰相は顔色ひとつ変えずに言った。
「そうか」
 マルスもそれ以上は言及しなかった。

 明日に備えてゆっくり休め、と皆に命じて、マルスはファーリアを伴って部屋に戻った。
 実は客間ではなく辺境伯が使っていた主寝室を使うか、と家臣が気を回したのだが、
「あの下衆が使っていた部屋で眠ったら、脳が腐りそうだな」
と言って断ったのだ。
 ファーリアは自分のために別室を用意してもらおうかと思ったのだが、マルスが
「そなたは私の護衛だ。同じ部屋にいないと守れんだろう」
と言うので、結局二人で客用寝室にいる。
 使用人を下がらせると、マルスはファーリアを抱きすくめた。
「あっ」
 そのまま濃厚な口づけを交わす。
「……明日に備えて、しっかり休まれるのでは……?」
「明日に備えて英気を養うのだ」
 マルスの手が、ファーリアの腰紐を解き、衣の下に滑り込んできた。
「昨夜はいささか性急に過ぎた……今宵はゆるりとそなたを味わいたい――」
 マルスは寝台に腰掛け、ファーリアの身体を引き寄せて口づける。
「――嫌か?」
 完璧に美しい王が、今、ファーリアだけを見つめている。
 ファーリアはやんわりと首を振った。断る理由などどこにもなかった。
 テラスからは、梢を揺らした夜風が入り込んでくる。満天の星が輝き始め、とろりとした夜の帳が下りてゆく。

 朝。
 まだ涼しい風が、薄いカーテンを揺らして吹き込んできた。金色の朝日がマルスの全身を輝かせている。
「アトゥイー。行くぞ、戦場へ」
 光と風を纏って、マルスは言った。
 ファーリアは頷いた。
「はい、陛下」
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