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〖第74話〗朱鷺side②
しおりを挟む「僕は、あなたの『病気』が早く治って欲しかった。あの時の僕の願いは、ただそれだけでした。
あなたに触れられているとき、ずっと血が滲むほど唇を噛んでいました。
本当は嫌だと、触らないでと、叫びたかった。嫌悪感と罪悪感と背徳感でいっぱいでした。
それでも、あなたが帰ってしまうのが嫌で、嘘もついたし、仮病も使った。
そんなことをしてでも、傍に居て欲しかった。
先生、幼い僕は真っ黒な感情と孤独を天秤にかけていました。
孤独の方が、重かったんです。それは罰に値しますか?
でも、誰でも良かった訳じゃない。『あなたに』居て欲しかった。
あなたの笑った顔が好きでした。
穏やかで優しい声も。
我慢すればいい。
我慢すれば。
この時間を我慢すれば、いつもの先生に戻ってくれる。
優しい先生に戻ってくれる。
そうレッスンの度に思っていました。
ねえ、先生、──どうして?どうして間違ったの?
僕が抵抗しなかったから?
人形みたいにただあなたを受け入れたから?」
僕は泣いていた。八歳と十九歳が入り交じる。先生も涙を流さないで泣いているように見えた。
「私は君が好きだった。どうしようもなく、好きだった。
純粋で寂しがり屋で優しい綺麗な瞳をした君が好きだったんだ。
だんだんと君に惹かれていく自分が『異常』だとは解っていた。
ただ、私には君だけだった。『病気』というのは君に好意をもつ私のことだよ。欲がエスカレートしていく『異常』な自分のことだ。
君に会わないと冴子さんと約束をした時私は自ら目を潰そうと決めた。贖罪のつもりだった。
今、私の見えない目で見えるのは八歳の可愛らしい君だ。きらきらの茶色のくせっ毛が光る、優しい声の、大きな瞳の。
そうだね。君と二人、笑いながら食卓を囲むことで満足を知れば良かった。そうしたら未来は変わっていたかもしれないのにね」
先生は俯き、続けた。
「どんな言い訳をしても、私が君にし続けたことは罪だ。
許されることではない。許してもいけない。
君を苦しめたね。小さい身体に色々な重荷を背負わせたね。
すまない。それと、朱鷺くん。君には罪も、そして罰もない。ただ私に、罪があるだけだ」
月が雲間から現れて、ガラス張りのテラスは明るくなる。先生は悲しそうに自嘲するような表情をしていた。僕は続けた。
「最後に、どうして『ありがとう』って言ったんですか?」
「あの日で君に会うのを最後にしようと思っていた。
君に罰して欲しかったのかもしれないね。
それに君が正気を失うほど私を『忘れられたくない存在』だというのが嬉しかったからかな。
君には人形のように私に身体を支配されることも、もちろん耐え難い苦痛だっただろうけど、
記憶から消える方がもっと苦痛だったんだね。本当の独りになってしまうから」
「……………明日、帰ります。曲の続きを弾いてください」
先生はゆっくりと雨だれの前奏曲を弾く。全ての始まりのあの時は、この曲に似合う雨が降っていたけれど、今は辺りを月明かりが照らしている。
先生の記憶の中ではあの時のように雨が降っているのだろうか。
「……先生、上を向いて。手はお休みして。僕の顔を触ってください。解りますか?僕はもう十九歳です。八歳じゃない」
先生の手が顔に探るように触れる。僕は先生に触れるだけの口づけをした。
「あなたのこと、あの頃の僕は確かに好きでした。
あの頃の家族は先生だけだったから。今でもオムライスの味付けはあなたが教えてくれたものです。──さよなら、先生」
月が雲間に消える。僕は涙がとまらなかった。雲間に隠れた月の代わりに、いつかの、戻りたかった過去が姿を表した。
『朱鷺くんは、本当にオムライスがすきだね。いつもリクエストはオムライスだ』
『先生、僕ね、先生が作るオムライスが世界で一番好きだよ』
『じゃあ、二番は?』
『先生。先生だーいすき。先生、ケガした所、治った?今日は僕がお皿を洗ってあげるよ──』
………………………………………………
暗がりの中を部屋に帰る。
僕は、先輩の眠るベッドにもぐる。先輩は何も言わずに僕が眠るまで背中を撫でてくれた。
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