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〖第46話〗朱鷺side④
しおりを挟むしばらくしてバスルームのドアが開く。先輩だった。
僕は蹲り、頭からシャワーを浴びながら呟く。
「出てって下さい」
「長いから……。何か、あったかと思って──」
下を向いたまま喋る。
涙が出る。笑ってしまった。
『それだけのこと』
をしたのは解っているらしい。シャワーは便利だ。感情を全て隠してくれる。泣き顔なんて、見られたくなかった。
「自殺でもすると思ったんですか?早く出てって下さい」
「朱鷺くん………」
先輩の指先が肩に触れる。
波紋のように震えが拡がる。
沸き上がるのは激しい嫌悪感と恐怖感だった。
「触らないで下さい、僕に触らないで!触らないで────!」
先輩の指先を振り払う。僕は「汚い、汚い」と繰り返し呟き、身体中を掻きむしった。
「だめだ、血が出てる、朱鷺くん!お願いだ、頼むから、やめてくれ!」
悲痛な声を出し先輩は僕の両手首を掴んだ。僕は頭の中が真っ白になる。
「離して!お願い、手を離して!触らないで!──何で、先生!先生!やめてよ!なんでこんなことするんだよ──!」
全てが破裂する。混乱する。
あの時、言えなかった言葉。
この人は、誰?──先輩。僕の身体をバラバラにした人。
あの人は?──先生。ああ、あの人も僕をバラバラにした人だ。
僕は先輩の手の力に逆らって腕に爪を立て、ガリッガリッと掻いた。赤い傷口からじわりと血が滲んではシャワーにかき消される。
「もう何もしないから。もうあんなことしないから!朱鷺くん!朱鷺くん!血が出てる。やめろ、お願いだから、お願いだからやめてくれ!!」
先輩の泣き叫ぶ声が、バスルームに響く。動きを止めるために掴まれた両手首から、じわじわと黒いものが広がり僕の身体を侵食していくように感じた。
「嫌だ、嫌だ、もう、嫌だ、手を離して、名前を呼ばないで、僕を見ないで──!」
僕は懸命の力で先輩の手を泣きながら振りほどく。先輩は、手の力を抜き、うなだれて声もなく涙を流した。僕は小さく、小さく丸まった。
「──こんな熱いシャワーじゃ火傷する。せめて、お湯だけでも止めさせて……」
キュッと音がしてシャワーがとまる。一番大きな真っ白なバスタオルを優しくかけられた。
しばらくし、足音がして、僕は顔をあげた。
目の前にいるのは眼鏡をかけた柔和な目をした、いつも通りを精一杯装った先輩だった。
「朱鷺くん」
優しい声だった。
「コーヒー勝手に淹れさせてもらったよ。君が飲み終わるのを見たら帰るよ」
「必要、ないです」
「ちゃんと君が前に僕に教えてくれたみたいに砂糖はスプーン2杯、ミルクは半分いれたよ。無理にとは言わないから気が向いたら飲んで」
テーブルにおいておこうか。そう言い先輩は立ち上がろうとした。
「先輩にひとつお願いがあるんです」
「………何でも、聞くよ」
先輩が振り向く。穏やかな悲しい目をしていた。さっきとは大きく違っていた。
「僕の名前を呼ばないでください。もう『朱鷺くん』って呼ばないで下さい。怖いんです。
先輩──もう、さよならです。丁度良かったんです。先輩も僕と会うのは最後にしたいんですよね。僕も最後にしたい」
「………深谷くん──もう名前を呼んだりしないから。もう、君に、触れないから──」
「独りに、してください。お願いです──」
「ごめんね……深谷くん」
そう言い──先輩は静かにバスルームの扉を閉めた。
しばらくし、バスルームを出る。身体中が痛くて重い。もう家に先輩の気配はなかった。テーブルにはもう冷めてしまった珈琲と短い手紙。
『深谷くんへ──俺のことは忘れて欲しい。本当に、すまない』
『すまない』の四文字で終わってしまうのか。全部。
出会った日も、
三ヶ月も、
今日のことも。
笑いと嗚咽が同時に込み上げてくる。身体中が痛い。胸も痛い。
『忘れて欲しい』
忘れられたらどんなに楽になれるか。
でも全身にあの人が染み付いていて、僕は身動きがとれない。
それでも、耳に身体に染み付いている言葉たち。
『俺だけを愛してくれるって言ったじゃないか』
僕は先輩だけを愛していました。愛の意味なんて解らないけれど、僕にはずっとあなただけがすべてでした。
『ずっと俺を好きでいてくれるって言ったじゃないか』
好きでした。ずっと好きでいる自信もありました。
「瀬川、先輩」
青い闇に向かい、ぽつりと僕は好きだった人の名前を呼ぶ。
初めて好きになった人の名前。エアコンもついてないこの部屋を漂う、
「どうしたの?朱鷺くん」
と言い、振り返り微笑むいつもの先輩の影。
呼ぶのも、もう今日が最後だ。
そしてあの影を呼んで咽び泣くのも。
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