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〖第15話〗朱鷺side②
しおりを挟むダイニングテーブルにポタポタと音をたてて先輩の涙が落ちた。
「君が──もうこの家に戻ってきてくれないんじゃないか。声だけ残して消えてしまうんじゃないかって、怖いんだよ。不安で不安で、仕方ないんだ」
助けてくれ、朱鷺くん──。俺を助けてくれ。俺には、君だけなんだ。君がいないと何もないんだ。ピアノも弾けない、食事も味がしないんだ。
苦しそうに先輩は呟いた。僕は、席を立ち、机に伏せた先輩の横に座る。
ずっとさらさらの髪を撫でながら、肩を震わせて泣く先輩を見ていた。
静かに時計の音が響く。どれくらいたった頃だろうか、先輩の震えが止まった。
「──ればいい」
小さく、先輩は言う。
「え?」
「大学なんていかないで、ずっとここにいればいいよ」
「先輩──」
僕は二の句が継げない。先輩は僕の手首を掴む。
「ソルフェージュもピアノも教えてあげられる。教員免許がとりたいなら学課全ても教えてあげられるよ。俺は免許、持ってるからね」
先輩は泣きながら微笑む。
触れられることに対しての恐怖感や嫌悪感よりも、僕が先輩のはりつめていた糸を切った。
その自分に対する嫌悪と罪悪感が大きかった。
「駄目、かな」
眼鏡を外すと、この人の表情は簡単に読める。
狂気に隠された臆病な瞳が悲しくて、僕は泣いた。
どうしてこうなったのだろう。
微笑みや、優しく触れるだけの口づけ。それだけではいけなかったのだろうか。
「泣かないで。朱鷺くん。どうして泣くの?全く君は泣き虫だなあ」
泣けばいいよ。たくさん泣いていいよ。
僕を見つめて先輩は微笑む。
優しい、綺麗な笑顔。
暗い窓に目をやる。ブラインドを下ろしていない夜の窓は、間接照明をうけ鏡のように僕らを映す。
観葉植物が笑う。
先輩の白い横顔がぞっとするほど美しかった。
僕は自分から先輩に口づけた。先輩は上手に受けとめた。
その日僕はこの家に来てから初めて寝ながら思いきり泣いた。
先輩の横でも、気にせず泣いた。
涙が止まらなくて、えずいて苦しくて、余計に悲しかった。
ベッドから抜け出した先輩が枕に顔を埋めしゃくり上げる僕の髪にトントンと触れる。
「水。あと胃薬。起きて」
大丈夫?こんなことしか出来なくて、ごめんね。
と言い、先輩は布団越しに背中を撫でる。僕は泣きながら言った。
「明日も大学に行かせて。今度家にも帰らせて。お願い──」
いつも通りの先輩に戻って欲しかった。
距離をおけば元に戻れると思っていた。
泣きながら鼻をすする僕に、ため息をついて先輩は、
「いいよ」
とだけ言った。
胃薬を飲んで、吐き気は治まった。
緊張がほぐれたのか、すぐに眠くなってまどろんだ。
夜中誰かに呼ばれている気配がして起きた。
気配とおぼしき声は
『夜中には入らないで』
と念を押されている練習室からだった。
ドアが少しだけ開いていた。
コンタクトレンズを外したピントがあわない視界で目を凝らす。
眼鏡を外し、苦痛としかとれない表情で先輩は自慰をしていた。
吐息と共に洩れるのは謝罪の言葉の羅列だった。
『触れてごめん』
『許してくれ』
『嫌いにならないで』
『愛しているんだ』
そう苦しそうに言いながら、つらそうに僕の名前を呼びながら、今にも泣きそうな顔をしながら。
先輩は僕が『触らないで』と言ってしまった日から髪以外、僕に一切触れない。
そして、この人の想像の中の僕も、甘い夢を見せてはくれない。
先輩は触れてしまったことを責めている。
甘い夢の中でさえも。
前に言っていた。先輩の怖いことは僕に『嫌われること』だと。
そして、僕に触れることはあの瞬間に
『悪いこと』だと染み付いてしまったのだろうか。
快楽と罪悪感の中で、この人は幸せを感じているのだろうか?
音を消して部屋に戻る。先輩の
『許して──』という切なさを殺した声が耳から離れなかった。
つらくて、つらくて眠れない。
先輩の声が体に染み付いたようだった。
悲しい毒が浸透するように僕を支配していく。
どうしようもなくて布団を頭から被って僕も、した。
そして、こんな時にこんなことをしている自分を軽蔑した。
夢の中の先輩は優しくキスをしてくれた。額に、頬に、唇に。
何故か僕は泣いていて、先輩は悲しそうな顔をする。水の手が、優しく身体に触れる。
『好きだよ。』
『怖がらないで』
『君を愛しているよ』
『──ごめんね』
泣きながらするなんて馬鹿みたいだ。自分でも解ってる。
確実に快楽を得ながら、あるのは先輩に対する罪悪感しかなかった。
夢の中くらい、夢を見たかった。
僕たちはどうしてこうなってしまったのか。答えは簡単だ。僕のせいだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
体を震わせ泣きながら、謝りながら、僕は摂取したくもない罪悪感たっぷりの快楽を食べた。
少しずつ、確実に何かが壊れていく。
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