その声で抱きしめて〖完結〗

華周夏

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〖第12話〗瀬川side②

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おずおずと、朱鷺は言った。

「『水の戯れ』は、弾けますか?」

「──いいよ」

実は練習していた曲だった。
朱鷺は俺の手を『水みたい』とよく言う。だから水の手が鍵盤と戯れるのは丁度いいと思った。
弾き終わると朱鷺はとても喜んでくれた。
集中して弾いたし、かなり緊張した。朱鷺の手前間違えられない。そう思ったからだ。
普段は緊張しないほうなのに。

「今日はこれくらいで」

ピアノを片付けようとすると朱鷺がおずおずと言った。

「あの、お願いがあるんです」

「何だい?」

「先輩の伴奏で『ジュ・トゥ・ヴー』を歌いたいんです。駄目ですか?お願いします。今、うまく歌えるのこれくらいで」

俺は朱鷺を見つめて、

「あのさ、その意味解ってる?」

俺はずっと気になっていたことを、髪をかきあげながら朱鷺を見つめて言った。

「『あなたが欲しい』ですよね。知ってますよ。僕もそう言えたらいいのに。
触れてもらえたら──そうしたら先輩にあんな顔させなかったのに。ごめんなさい」

朱鷺は下を向き、身を縮ませた。厳しげな声で問い詰めるように訊いたことを後悔し、優しい声で呼ぶ。

「朱鷺くん、髪は、平気だよね?撫でてあげるから、こっちへおいで」

朱鷺は遠慮がちに傍に来る。

「あれ?先輩眼鏡してるんですか?」

「今頃気づいたの?まあ俺もスペアにさっき気づいたんだけどね」

朱鷺が微笑む。俺もつられて朱鷺を見つめて笑う。それから、俺が伴奏を弾き、朱鷺が『ジュ・トゥ・ヴー』を歌った。溶けあうくらいの幸せを感じた。歌い終わったあと、朱鷺は俺の顔をまじまじと見つめ、

「やっぱりいつも通りの先輩がいいです。その眼鏡、素敵です。細い銀のフレーム似合ってます」

と朱鷺は言った。

「ありがとう。でも、前に眼鏡を外したとき『色男』って言ってくれたのに?」

笑うかと思ったら、朱鷺は目を伏せる。

「先輩の切ない顔、すぐ、解るんですよ。先輩の目は、綺麗だけど悲しい目です」

日常において、俺は努めて表情を出さない。出すのは笑った顔。鷹曰く能面。いつも礼儀正しく、微笑むように心がけていた。

俺はその夜、朱鷺の髪を撫でながら眠ってしまった。
柔らかな、その髪を撫でると、優しい恋人の匂いがした。
──────
二週間くらい過ぎて、朱鷺は大学へ行った。けれど朱鷺が帰ってくる家はこの家だ。
けれど恋人が居ない広い部屋が、静けさと共に、寂しさを際立たせる。悪いと思っているが、朱鷺を引き止めてしまっている。

朱鷺といて幸せを知った。
けれど幸せは怖い。
失う恐怖。
最初は料理や練習に時間を費やした。けれど今は何も手につかない。あるのは、不安。
朱鷺の不在を待つ時間が苦痛だった。
二人の関係を不確かだと思う自分がいる。思いきり抱きしめて、口づけて抱きたい。

『全てと引き換えに?』

と呼び止める声でハッとする。

きっと朱鷺は許さない。
全ての信頼を下卑た俺の欲に喰い荒らされることなんて。声を出さずに泣いて、消えてしまう。
『さよなら、先輩』と、振り向きもせずに。

電話がなった。鷹だった。怠惰な雰囲気が鷹の声で明るくなり始めた。

「十二時に久しぶりにいつもの店で会わないか」
───────
ぼんやりした頭をスッキリさせるため熱いシャワーを浴びる。髪を丹念に洗う。昨日添い寝して聞いたのだ。

『寝ている先輩の髪に触って、苦しくなったんです』

と。朱鷺は小さく呟くように言った。

『それから、どうしようもなくて、苦しくて、あなたが気になって………』

恥ずかしそうに背中を向ける朱鷺の姿がなんとも可愛らしくて、布団越しに彼を抱き締めた。

ふと、バスルームの水滴がついた鏡に、幼い頃、ほとんど写真でしか見たことがない顔があった。じっと見つめる。
『俺は親父みたいになんかならない』そう思い、鏡を睨んだ。
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