その声で抱きしめて〖完結〗

華周夏

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〖第11話〗瀬川side①

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思いの外、朱鷺は早く眠りについた。

俺に背を向けて、横を向いて身を縮めて眠っていた。ベッドサイドの弱い明かりが朱鷺を照らした。
俺も横を向き、朱鷺の後ろ姿を見ていた。

規則正しい、メトロノームのような寝息。小さく丸まって寝るのが朱鷺の癖らしかった。
髪に触れる。柔らかい。猫を触っているみたいだ。色素が薄い癖毛。彼の瞳は髪と揃えたように虹彩が薄い。外国の少年みたいだ。

朱鷺を見つめている途中、ころん、と朱鷺が寝返りをうって胸の中に収まった時には心拍数が上がった。そっと前髪をかき上げ朱鷺の顔を眺める。均整のとれた綺麗な顔。

左目の目元に泣きぼくろを見つける。
たくさん泣かせた。
俺と会ってから泣かせてばかりじゃないかと思う。

鼻筋も通って口唇はいつも少し赤い。

見つめるだけだけれど、幸せだった。自分にこんな穏やかな幸福感をくれる朱鷺に感謝した。
思い返してみる。こんなに自分に満ち足りた時間をくれた他人がいただろうか。

鷹は、違う。一緒にいて楽しいけれど、この一抹の幸福感を感じたことはない。
今まで関係を結んだ誰もが、満たしたのは身体だけだった。
俺はただ寂しかった。
それを満たすにはこの容姿とピアニストの看板は役に立った。でも、それだけだ。
鷹に何処かしら似ていて、すぐ寝れて、なるべく別れが面倒じゃなかったら、誰でも良かった。

朱鷺の無防備に薄く開いた唇に触れる。
柔らかくて、
温かくて、
湿っている。俺は目を細め、そっと口づけた。触れるだけのキス。幸福な罪悪感。

「ごめん。朱鷺くん。約束守れなかった」

暫くし、抱き枕と間違えているのか、朱鷺は俺に腕を回し、胸に顔を埋めた。薄地の部屋着ごしの胸元の傷痕に、朱鷺の唇が触れる。温かな、湿った吐息がかかる。さすがに自分の理性の限界だった。

ゆっくりと朱鷺の温かな腕をほどいた。

「おやすみ」

囁くような小さな声で言う。
彼の眠りを邪魔したくなかった。朱鷺は何か嬉しそうに、もぐもぐと小さく口を動かしていた。幸せな夢を見ているといい。

静かに、ドアを閉めた。
─────
今日まともにピアノを弾いていなかったことに気づく。
防音の練習室に入り、棚から楽譜をだそうとして、しまう。
一昨日眼鏡を壊してから楽譜がぼやけて読めない。暫くして俺は今更ながら苦笑する。『スペア』があるはずだ。
何故今まで気づかなかったのか。こんな不便な生活をして。

少し前にごく一部の批評家に

『──技術はいつも通り最高の出来。しかし何処か乾いた内面世界を感じさせ──』

と評されたことがあった。作曲家の心情や、その時の境遇などそのくらい全部細かく調べてある。それに楽譜の読解は出来ていると自負していた。だから
『勝手に言っていろ』
と思っていた。今ならその意味が解る。
俺は弾くだけ。中身がない。
しかし朱鷺と出会って変わった。
今、幸せな曲や温かな曲を弾きたい。

指ならしを丹念にして、リストの『愛の夢』を弾いた。
弾き終わると拍手が聴こえた。入り口を見ると、朱鷺が立っていた。俺の貸した部屋着がぶかぶかで、可愛らしかった。朱鷺は嬉しそうに笑っていた。

「やっぱり先輩はピアニストなんですね。見惚れました」

「そんなところにいないでこっちにおいで。それにしても『やっぱり』って言うのは少し引っ掛かるな。これまで君の前でもピアノを弾いたことはあったと思うけど?」

悪戯っぽく先輩は言う。

「それは、そうですけど。改めて思って」

朱鷺は言う。喜び上手だと思う。
子供のように屈託のない笑顔を浮かべ、俺が曲を弾く度に拍手をする。俺は朱鷺か好きそうな曲を選んで弾いた。

「何を弾こうか──暗譜してない曲は駄目だけど、リクエストはある?」

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