ドリンクカフェと僕

桃青

文字の大きさ
上 下
12 / 15
11.

己の道を歩むということ

しおりを挟む
 新春と呼べる時期が過ぎ去ったころ、ある夜に自宅でコリコリと小説を書いていたところへ、太一から電話があった。
「光、ちょっとおまえと話をしてもいいか?」
「もちろん構わないよ。何かあったの?」
「最近、あんまりドリンクcafeに来ないな。」
「小説の試し書きで忙しくてさ。時間ができたらまた行くから。」
「そうか。……俺、ちょっと実家に帰るわ。」
「また何か問題でも?」
「問題なのかな。母が退院するから、その手伝いをするためにね。それで、今うっすらと考えていることがあって。」
「それはなんでしょう。」
「あの人たちがこれ以上俺を巻き添えにして、俺が俺らしく生きていくことを邪魔するなら、除籍を、しようかなと。」
「……そうか。そこまで心が乖離してしまったってことか。老後の親の面倒も見ないつもりなんだね。」
「それは正直どうなるか分からない。老人ホームへ入居させる手続きくらいならするかもしれないし。」
「もう後戻りはできないの?」
「無理だよ。そもそも人生に後戻りなんてないでしょう。」
「まあ、そうだな。ドリンクcafeと……、あと奈々のことはどうするつもり?」
「店は続けるよ、あの店とともに歩むのが俺の人生なんだ。それから奈々については……、」
「はっきり言っちゃえよ。」
「俺にとって大切な人だって気付いた。だからその、告白……してみようかな、なんて思ったり。今はまだ俺の心の中で整理がつかない状態なので……。」
「頑張れよ。」
「頑張れよ、か。はは、でも頑張っても特に結果が変わるとも思えないけれど。」
「元気が出ただろう?」
「うん。エールをどうもありがとう。じゃ、光も小説頑張って。」
「バイバイ。」
 そして電話を切った僕は、太一の行く末についてしばらく思いを馳せた。
 … … …
 小説は思い切って百八十度方向性を変えることにした。今までずっとエンターティメント小説を書くことを目指していたのだが、ふと思いついて、父と母がパン屋を開くまでのノンフィクション小説を書いてみたらどうだろう、と考えたのだ。僕は口が軽めの母から滔々と語られる自伝を何度も取材し、無口な父から語られる独自の哲学を何度も傾聴し、物語を構成していった。そしていざ書き始めてみると、それは今まで書いていた文章とは全く違う、新たな喜びを僕に与えてくれたのだ。そこにはこれまでの作品に欠陥していた確かなリアルが存在していた。僕は初めて自分の小説に手応えを感じた。面白いかどうかは分からない。売れる作品になるのかどうかも分からない。でもようやく小説を書くことに、意味を見出せるようになったのだ。これは僕にとって物凄い発見だったと言える。
(僕は小説を書いていいんだ。僕にはできる。きっとできる、僕にしかできないものが……!)
 それからこの話を完成させることに、僕は没頭していき、とても孤独でありながら充足感のある日々を送っていた。
 … … …
 そして二週間の時が流れた。パン屋の店番が終わって自分の部屋へ戻ってくると、それを見計らったように携帯電話のベルが鳴り響き、僕は電話に出た。
「もしもし?」
「あの、……私。」
「奈々か。どうしたの、声のトーンが低いよ。」
「光、会って話すことできないかな、うんと、ドリンクcafeじゃない場所で。」
 その言葉で太一と何かあったのだと、ピンと来た。
「別に構わないけれど、どこで話すのがいい?」
「そうね、開放感のある場所がいいな。公園とか……。」
「じゃあ僕もそこでいいよ。会う日は君に合わせるから。」
「ありがと、光。じゃ、今週末の日曜日に、××駅の東口で。時間は午前九時。」
「分かった、その時に詳しく話を聞こう。」
「じゃあね。」 
 どこか大人しい奈々の口調に、彼女らしくないなと思いながら僕は電話を切った。
 約束の日、待ち合わせ場所である駅へ行くと、人混みの中でぽつんと奈々が立っていた。せわしない人波にまるで取り残されているようで、姿がどこか寂しげだ。
「奈々。」
 僕が声を掛けるとはっとして振り返り、奈々らしくにっかりと笑ってみせた。どうやら思ったより元気そうだ。
「光、○○公園に行こう。」
「うん。なんならそこで食べながら話をしようよ。そう思って店の焼き立てのパンをこっそり何個か盗んできた。」
「いいわね~。じゃあコンビニで飲み物だけ買っていこ。」
「そうしよう。」
 そして僕と奈々は並んで歩きだした。

 ○○公園に着き、芝生の上にべたっと座った僕たちは、心地よい風に吹かれながらホットコーヒーを飲み、パンをもぐもぐ食べた。空は快晴で、遠くでロウバイの花が咲き始め、黄色くけむっている。いい日だなと思いつつ奈々の出方を窺っていると、いきなり彼女は言った。
「私、怒っているのよ。」
「?」
「あのね、私太一に告白されたの。」
「よかったじゃない。OKしたの?」
「したわよ。でも問題はそこじゃないわ。太一はちょっと実家に帰っていて――、」
「うん、知っている。」
「お母さんから散々、今の仕事をやめて家に帰ってきてほしいって言われたんですって。太一が側にいれば私が安心できるからって。」
「うん。」
「そうしたらあの、……あの人、その弱っている母親に向かって、じょっ、じょ、除籍したいって言ったっていうの!」
「うん、その話もうっすら知っている。」
「酷い話じゃない、太一が面倒を見なくて誰が親の面倒を見るの? って話よ。そりゃドリンクcafeはいいお店だけれど、」
「奈々。」
「何?」
「もし、親と自分の人生のどちらか一つしか選べないとしたら、君はどっちを選ぶ?」
「私は二つとも選ぶ。両方を両立してみせるわ。」
「でもね、太一にはそれができないんだよ。そして親を選ぶことは、あいつにとって『自分の死』を意味しているんだ。」
「そんな……、そんなの私、よく分からないわ。」
「そこを分かってやってくれ。あいつはそのことで僕らの想像をはるかに超えるほど苦しんで、自虐もしてきた。」
「でも光。親は大事だと思うの。」
「そりゃそうだよ。」
「結婚式を挙げるときに、親がいないのはとても寂しいことでしょ? それに何かの保証人を頼むときにも親がいると助かるし、自ら進んでみなしごになるなんて、そんなバカな話――、」
「なら僕が、太一の親代わりになる。」
「光が? どうやって?」
「結婚式には、親がやるべきところを僕が肩代わりするし、保証人には僕がなるし、必要な時には僕があいつの側にいる。」
「私じゃなくて光が、まるで太一の恋人みたいよ。……それに、あの人と深く話をしてみて分かったことなんだけれど、結局私は彼の上っ面だけを見て、友達だの親友だのと言っていたのね。想像を遥かに超える重いものを背負って生きている人だっていう事実を、全然知らなかった。」
「それで太一のことが嫌いになった?」
「ううん、そんなことはない。むしろ少しでも彼の重荷を私が背負えたらいいな、って思う。」
「僕は何があろうとあいつを見捨てたりしないよ。」
「私だってそうよ。ああ、なんだか光と話していたら、あの人に対して怒っていた感情をすっかり忘れちゃった。」
「ハハ、怒りの感情なんて基本的に長続きするものではないからね。恨みはしつこいけれど。」
「私は太一を恨む理由はないもの。」
「今度ドリンクcafeで、じっくり話し合おうぜ。そうそう、俺にも彼女ができたんだよ。」
「うそー! どんな人?」
「すっごい美人だ。」
「光が凄い美人と付き合う……。ごめん、うまく想像できない。」
「何だか気に障る発言だな。ま、彼女には色々込み入った事情がありまして。」
「訳ありなのね。ますます興味深いわ。」
 それから僕と奈々は笑顔を取り戻し、軽い会話の応酬をしばらく繰り広げたのだった。
しおりを挟む

処理中です...