193 / 207
修道女、獣に齧られそうになる
2
しおりを挟む
差し出した手を包んでくれたのは、大きな二つの掌だった。
温かい、血の通った手。
ところどころタコがあったり、古傷があったりするが、紛れもなく生きている人間の手だ。
「……っふ」
無様な顔は見せまいとしても、顔面はくしゃくしゃに歪んでしまっているし、涙腺からは壊れたように涙が滴った。
「ああ、そんなに泣かないでください」
そこでさっとアイロンの当たったハンカチが出てくるあたり、胸部の豊かなふくらみ同様極めて女性的なひとなのだ。
「け、怪我をしたと」
「……テトラですね、余計なことを」
「う、腕が……」
視界が涙でとんでもないことになってしまっていたが、確かめるように触れた腕は両方ともしっかりと存在していた。
「すぐに特級のポーションを飲めたので、なんということはありません」
編み込みをしていた髪が、労働者の男性のように短くなっていた。
よく見れば、頬はこけているし、顔色も悪い。彼女が怪我から完全に回復しているわけではない事は、素人目にも確かで。
本人があっけらかんと言うようには、簡単な事態ではなかったのだと思う。
「マロー」
ぼろぼろぼろと涙が頬を伝い、マローの手を伝い。
「マロー」
壊れたように名前を呼ぶメイラに眉を下げ、マデリーン・ヘイズは「はい」と律儀に返事をしながら涙を拭い続けた。
「さあ、横になってもう少しの間お休みください。島を出る手段を整えましたので、日の出にはここを発ちます」
低く柔らかい声で宥められ、子供のようにコクコクと首を上下させた。
長椅子のベッドに横になり、ほほ笑み返してくれるマローの顔を瞬きもせず見上げる。
夢ではないのか。幻影ではないのか。瞼を閉じれば消えてしまうのではないか。
涙で視界が遮られることすら不安で、伸ばした手が握る彼女の服を離すことが出来ない。
大きな手が、そっとメイラの目の上に乗せられた。
男性と遜色のないサイズだが、ダンのものよりもずっと掌は薄く、指も細い。何より柔らかくて、ほっこりと温かい。
「お休みください」
あれほど寝苦しいと思っていたのに、ストンと眠りに落ちた。
ただ、ずっと嗚咽を繰り返している事だけが、最後まで意識に残っていた。
「御方さま」
そっと揺すられて、目が覚めた。
瞼を開けようとしたが、張り付いたように動かない。何度か擦ってようやく目を開け、寝る寸前の事を思い出して慌てて跳ね起きた。
「……マロー!」
「はい、御方さま」
すぐ傍らに、片膝をついたマローがいた。
見慣れない短い髪の彼女は、胸のふくらみさえなければ甘い顔立ちの男性にしか見えない。
髪が短いぶんその印象は増していて、胸に詰め物をした男だと言われても誰も疑わないだろう。
一段と上がった男ぶりに見惚れていると、濡れた布でそっと目元を拭われた。
目ヤニでもあったのかと慌てるが、非常に男前の顔で安心させるように微笑まれ、「瞼が腫れてしまいましたね」と囁かれる。
……駄目だ。何が駄目なのか分からないが、これ以上は駄目だ。
「ほ、本当に無事でよかったわ」
メイラは動揺しそうになるのを押しとどめ、なんとか言葉を発した。
「あなたが死んでしまった夢を見たの。あなただけじゃなく、ユリウスや他のみなも」
幾分掠れた声でそう言うと、マローは励ますようにぎゅっとメイラの手を握った。
「ユリウスも生き延びてピンピンしておりますよ。すでにもう仕事に戻らせています」
「そ、それはちょっと早いんじゃ……」
最後に見た時、血の海の中で瀕死の状態だった。死んではいないと思っていたが、あれだけの怪我から復帰するにはまだ時間がかかるはずだ。
「よろこんで走り回っていましたから、大丈夫です」
絶対に違うだろうと思いつつ、ここでそれを指摘しても仕方がないので曖昧な笑みを作る。
「本当ですよ。あれは今、帝都にいます」
「……帝都」
マローとの再会に喜び、浮足立っていた気持ちが一気に冷えた。
聞きたい。
帝都に襲い掛かったという軍勢はどうなったのか。
陛下はどうされているのか。
しかし、出国手続きなどなにもかもをショートカットしたにちがいないマローが、前者はともかく後者を知っているとは思えない。
迷うメイラの両手を、マローは再びぎゅっと握った。
「ここは危険な地域です。御方さまの身に万が一のことがあってはなりません。一刻も早く帰国しましょう」
事情を知らないのだから、そういうだろう。
ルシエラが怒っていた理由も、陛下に直接任されたメイラが、ふらふらと危ない場所にいるからなのはわかっている。
もちろん再会は喜ばしい事だが、太く大きく頑丈な枷が増えてしまった。
果たして、スカーの故郷のあの湖までたどり着けるのだろうか。
何より不安なのは、もはやメイラの命などどうでもよさそうなあの黒衣の神職だ。確かめたわけではないが、どういう手段を使ってか海賊をけしかけたのはあの男ではないかと疑っている。
神職としてそれはどうかと詰問しても、本人はきっと神の御意思だと都合のいいことを言うのだろう。
これ以上巻き込まれる人を増やすわけにはいかない。
神の御名のもとにと、罪なき人々の魂を狩らせるわけにはいかない。
温かい、血の通った手。
ところどころタコがあったり、古傷があったりするが、紛れもなく生きている人間の手だ。
「……っふ」
無様な顔は見せまいとしても、顔面はくしゃくしゃに歪んでしまっているし、涙腺からは壊れたように涙が滴った。
「ああ、そんなに泣かないでください」
そこでさっとアイロンの当たったハンカチが出てくるあたり、胸部の豊かなふくらみ同様極めて女性的なひとなのだ。
「け、怪我をしたと」
「……テトラですね、余計なことを」
「う、腕が……」
視界が涙でとんでもないことになってしまっていたが、確かめるように触れた腕は両方ともしっかりと存在していた。
「すぐに特級のポーションを飲めたので、なんということはありません」
編み込みをしていた髪が、労働者の男性のように短くなっていた。
よく見れば、頬はこけているし、顔色も悪い。彼女が怪我から完全に回復しているわけではない事は、素人目にも確かで。
本人があっけらかんと言うようには、簡単な事態ではなかったのだと思う。
「マロー」
ぼろぼろぼろと涙が頬を伝い、マローの手を伝い。
「マロー」
壊れたように名前を呼ぶメイラに眉を下げ、マデリーン・ヘイズは「はい」と律儀に返事をしながら涙を拭い続けた。
「さあ、横になってもう少しの間お休みください。島を出る手段を整えましたので、日の出にはここを発ちます」
低く柔らかい声で宥められ、子供のようにコクコクと首を上下させた。
長椅子のベッドに横になり、ほほ笑み返してくれるマローの顔を瞬きもせず見上げる。
夢ではないのか。幻影ではないのか。瞼を閉じれば消えてしまうのではないか。
涙で視界が遮られることすら不安で、伸ばした手が握る彼女の服を離すことが出来ない。
大きな手が、そっとメイラの目の上に乗せられた。
男性と遜色のないサイズだが、ダンのものよりもずっと掌は薄く、指も細い。何より柔らかくて、ほっこりと温かい。
「お休みください」
あれほど寝苦しいと思っていたのに、ストンと眠りに落ちた。
ただ、ずっと嗚咽を繰り返している事だけが、最後まで意識に残っていた。
「御方さま」
そっと揺すられて、目が覚めた。
瞼を開けようとしたが、張り付いたように動かない。何度か擦ってようやく目を開け、寝る寸前の事を思い出して慌てて跳ね起きた。
「……マロー!」
「はい、御方さま」
すぐ傍らに、片膝をついたマローがいた。
見慣れない短い髪の彼女は、胸のふくらみさえなければ甘い顔立ちの男性にしか見えない。
髪が短いぶんその印象は増していて、胸に詰め物をした男だと言われても誰も疑わないだろう。
一段と上がった男ぶりに見惚れていると、濡れた布でそっと目元を拭われた。
目ヤニでもあったのかと慌てるが、非常に男前の顔で安心させるように微笑まれ、「瞼が腫れてしまいましたね」と囁かれる。
……駄目だ。何が駄目なのか分からないが、これ以上は駄目だ。
「ほ、本当に無事でよかったわ」
メイラは動揺しそうになるのを押しとどめ、なんとか言葉を発した。
「あなたが死んでしまった夢を見たの。あなただけじゃなく、ユリウスや他のみなも」
幾分掠れた声でそう言うと、マローは励ますようにぎゅっとメイラの手を握った。
「ユリウスも生き延びてピンピンしておりますよ。すでにもう仕事に戻らせています」
「そ、それはちょっと早いんじゃ……」
最後に見た時、血の海の中で瀕死の状態だった。死んではいないと思っていたが、あれだけの怪我から復帰するにはまだ時間がかかるはずだ。
「よろこんで走り回っていましたから、大丈夫です」
絶対に違うだろうと思いつつ、ここでそれを指摘しても仕方がないので曖昧な笑みを作る。
「本当ですよ。あれは今、帝都にいます」
「……帝都」
マローとの再会に喜び、浮足立っていた気持ちが一気に冷えた。
聞きたい。
帝都に襲い掛かったという軍勢はどうなったのか。
陛下はどうされているのか。
しかし、出国手続きなどなにもかもをショートカットしたにちがいないマローが、前者はともかく後者を知っているとは思えない。
迷うメイラの両手を、マローは再びぎゅっと握った。
「ここは危険な地域です。御方さまの身に万が一のことがあってはなりません。一刻も早く帰国しましょう」
事情を知らないのだから、そういうだろう。
ルシエラが怒っていた理由も、陛下に直接任されたメイラが、ふらふらと危ない場所にいるからなのはわかっている。
もちろん再会は喜ばしい事だが、太く大きく頑丈な枷が増えてしまった。
果たして、スカーの故郷のあの湖までたどり着けるのだろうか。
何より不安なのは、もはやメイラの命などどうでもよさそうなあの黒衣の神職だ。確かめたわけではないが、どういう手段を使ってか海賊をけしかけたのはあの男ではないかと疑っている。
神職としてそれはどうかと詰問しても、本人はきっと神の御意思だと都合のいいことを言うのだろう。
これ以上巻き込まれる人を増やすわけにはいかない。
神の御名のもとにと、罪なき人々の魂を狩らせるわけにはいかない。
0
あなたにおすすめの小説
裏切りの先にあるもの
マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。
結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。
【完結】ずっと、ずっとあなたを愛していました 〜後悔も、懺悔も今更いりません〜
高瀬船
恋愛
リスティアナ・メイブルムには二歳年上の婚約者が居る。
婚約者は、国の王太子で穏やかで優しく、婚約は王命ではあったが仲睦まじく関係を築けていた。
それなのに、突然ある日婚約者である王太子からは土下座をされ、婚約を解消して欲しいと願われる。
何故、そんな事に。
優しく微笑むその笑顔を向ける先は確かに自分に向けられていたのに。
婚約者として確かに大切にされていたのに何故こうなってしまったのか。
リスティアナの思いとは裏腹に、ある時期からリスティアナに悪い噂が立ち始める。
悪い噂が立つ事など何もしていないのにも関わらず、リスティアナは次第に学園で、夜会で、孤立していく。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
【完結】王妃を廃した、その後は……
かずきりり
恋愛
私にはもう何もない。何もかもなくなってしまった。
地位や名誉……権力でさえ。
否、最初からそんなものを欲していたわけではないのに……。
望んだものは、ただ一つ。
――あの人からの愛。
ただ、それだけだったというのに……。
「ラウラ! お前を廃妃とする!」
国王陛下であるホセに、いきなり告げられた言葉。
隣には妹のパウラ。
お腹には子どもが居ると言う。
何一つ持たず王城から追い出された私は……
静かな海へと身を沈める。
唯一愛したパウラを王妃の座に座らせたホセは……
そしてパウラは……
最期に笑うのは……?
それとも……救いは誰の手にもないのか
***************************
こちらの作品はカクヨムにも掲載しています。
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
冷徹公爵の誤解された花嫁
柴田はつみ
恋愛
片思いしていた冷徹公爵から求婚された令嬢。幸せの絶頂にあった彼女を打ち砕いたのは、舞踏会で耳にした「地味女…」という言葉だった。望まれぬ花嫁としての結婚に、彼女は一年だけ妻を務めた後、離縁する決意を固める。
冷たくも美しい公爵。誤解とすれ違いを繰り返す日々の中、令嬢は揺れる心を抑え込もうとするが――。
一年後、彼女が選ぶのは別れか、それとも永遠の契約か。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる