月誓歌

有須

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修道女、獣に齧られそうになる

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 作業台の下に隠された木の蓋を退けると、、明かりひとつない真っ暗な穴が真下に向かって続いていた。
 まずテトラが迷いのない動きで梯子を降りていき、しばらくしてから底の方でランプの明かりが灯る。
 かなり深い。
 乾燥地帯である故郷とは違い、穴の周囲はしっとりと湿っていて、滲み出た水滴がランプの明かりをぬらりと照り返していた。
 狭い穴から漂ってくるのは、かなり強烈なさび止めの臭いだ。頑丈そうな金属製の梯子にペンキを塗ってそれほど経っていないのだろう。
 地下深くに続く梯子を降りる……という体験は、実は初めてではない。
 修道女時代に人買いから子供たちを守るための避難場所として、枯れ井戸を使っていたからだ。
 食料や水をストックする為に一日に何度も往復したし、小さな子供を背負って闇の中を降りて行ったこともある。
 それでも、片腕抱きされて梯子を降りていくのは、鳩尾がひゅっと縮まるような恐怖感があった。
 ダンが梯子を掴む手は片手なのだ。メイラの手はしっかりとその太い首にしがみついているが、足はブラブラと宙に浮いている。いくらしっかり抱えられているからと言っても、怖いものは怖い。
 それほど時間をかけず下まで降りて、ほっとしたところで、頭上でズリズリと重いものが動かされる音がした。薬屋の主人が入り口を塞いだのだ。
 合図をすれば開けてくれることになっているが、閉じ込められた感がすごくて肝が冷える。
 改めてきゅっとダンの首にしがみつくと、宥めるように背中に手を置かれた。
 寸前まで眩いばかりの夕日にさらされていたので、小さなランプひとつの乏しい明りだけでは心許なく、周囲から闇が迫ってくるようだった。
 カチカチと火を起こす音がして、しばらくしてもう一つのランプも灯される。
 それにより、ようやくおぼろげに周囲の様子がわかるようになった。
 薬草の保存場所としても利用しているのだろう、広くはない空間の左右には棚が設置され、所狭しと薬草が吊るされている。
 その薬草のカーテンをかき分けた先に、岩の形状を利用した隠し部屋への入り口があった。
 一見ただの岩があるだけだが、その背後には人一人通れる程度の隙間があって、入り組んだその入り口を抜けると床が簡素な板間になった保管庫に続いていた。
「今夜はここで休みましょう」
 木製の長椅子に丸められたマットレスを広げると一人分のベッドになる。
 テトラが手際よく即席の寝台を用意し、ダンはその上にメイラを下ろした。
「……スカーに襲撃の様子を探らせています。戻れば何かわかるでしょう。それまでお身体をお安め下さい」
「そうですよ。顔色が随分と悪い」
 二人して横になるように勧めるものだから、仕方なく長椅子ベッドの上に身体を横たえた。
 マットレスの薄さに寝苦しさを感じて初めて、恵まれた生活に身体が慣れてしまったのだと気づいた。十八年間、似たような硬い寝台を使ってきた。ずっとそれが当たり前で、不満にも思っていなかった。それなのに、たった数か月高級なベッドに寝ただけで、すでにもう身体がそれに慣れてしまっている。背中に当たる硬い板の感覚に、寝苦しいと思ってしまっている。
「洞窟を少し調べてくる」
「一本道ですが、途中で深い地下渓谷に突き当たります。足元に気を付けてください」
 目を閉じて、ダンとテトラの会話に耳を澄ませた。
 あれだけ頻繁だった大砲の音は、いつのまにか聞こえなくなっていた。
 それが地下深くに潜ったせいか、襲撃が終わったせいかはわからない。
 ぴちゃん、ぴちゃん……と、どこかで水が滴る音がする。
 鼻先をくすぐるのは、湿った土の匂いと、薬草の匂い……こんなに湿度の高い洞窟内で保管して、吊るした薬草類は痛んだりしないのだろうか。メイラの認識だと薬草は乾燥させ、ドライ状態で保存しておくものなのだが。
「少し冷えますね」
 テトラが重ね掛けしてくれた掛布からは、嗅ぎなれない薬草の匂いがした。
 不快なものではなく、茶葉に甘味を持たせたような匂いだ。
 それはそうだろう。国も気候も違うのだから、採れる薬草もその保存方法にも違いがあるのは当たり前だ。
 改めて、ものすごく遠い場所まで来てしまったのだと自覚した。
 故郷からも、愛する夫からも。
 物理的な距離だけではない。かつて一介の修道女として子供たちの為に粉骨砕身した年月が、陛下の後宮で悪意にさらされた日々が、今はこんなにも遠い。
 陛下はご無事だろうか。
 負傷などなさっていないだろうか。
 そんなことを考えていると、じわりと目に涙が浮かびそうになって、慌てて寝返りを打つふりをした。泣きそうになっているのを知られたくなくて、固く瞼を閉じる。
 しばらく静かな沈黙が続いた。
「……?」
 何かが聞こえたわけではない。
 それでも、メイラの眠りに落ちかけていた意識が急に覚めた。
 視線の先で、テトラが椅子に座って仮眠をとっているのが見える。小洒落たワンピース姿のまま、長剣を抱え込むように太腿の間に挟んで目を閉じている。
 眠りに落ちかけていたのではなく、いつの間にか寝っていたようだと結論付けたのは、燭台のロウソクが随分と短くなっていたからだ。
 ダンはまだ戻ってきていない。
 上半身を起こそうとして、視界の片隅にひと際深い闇があるのに気づいた。
「スカー?」
 メイラの声が聞こえたのだろう、テトラがぱっちりと目を開けた。
 間を置かず、素人目にはいつ抜いたのかわからない速度で抜刀し、長剣の切っ先をメイラの脇へと向けていた。
「……なんだ、お前か」
 普段とは違い、誰がどう聞いても男性の声だった。
 見た目ほっそりと嫋やかな美女が、長剣を繰り出しドスの効いた声を出す……視覚と聴覚に猛烈な違和感がある。
「距離が近い」
 テトラは思わずスカーに縋りつきそうになったメイラにではなく、暗い色の服を身にまとい普段よりなお一層闇に溶け込んでいるスカーに不服の声を投げかけた。
「報告を」
 スカーは長剣の切っ先にもテトラの男声にも頓着したようすはなく、じっとメイラの顔を見降ろしてから一歩だけ身体を遠ざけ、かすかに首を上下させた。
「襲撃はどうなった?」
「撃退した」
「敵は?」
「三つの海賊団の連合のようだ」
「グレイスの商船は?」
「右舷後方に被弾した。すぐには出航できそうにない」
 メイラの喉がひゅっと鳴った。口元を押さえ、泣き言が零れないようきつく抑える。
 右舷後方は、メイラがこの航海中寝起きしていた場所だ。もし食事に出ず部屋にこもったままでいたら、死んでいたかもしれない。
「グ、グレイスは? 無事なの?」
「はい」
 スカーはこっくりと首を上下させた。
「被弾時に少し火が出たので、その対処に忙しそうでした」
 グレイスは無事でも、他の乗組員たちは怪我をしたかもしれない。あるいは死んだかも……そう考えただけで、顔から血の気が引いた。。
 誰ひとりとして傷つかない世界など、この世のどこにもないと知っている。
 しかしそれが己のせいかもしれないと思う度に、心が深く削られていくのだ。
「どうやって迎撃した? 三つの海賊団が連合を組んで襲撃してきたのなら、簡単に引くはずはないだろう」
「それは……」
 不意に、テトラが隠し部屋の入り口に目を向け警戒する仕草をした。
 スカーもそちらの方をじっと見て、いつのまにかメイラを庇うような位置に立っている。
 静まり返った洞窟内に、かすかに足音が聞こえた気がした。
 誰かがここに近づいて来ているのだ。ダンだろうか。
「御方さま!」
 恐怖のあまり、キーンと耳鳴りがしそうになってきたところで、力強い、はっきり通る女性の声が聞こえた。
 どくり、と心臓が大きく脈打った。
「……あ」
 弱々しく震える唇から、頼りなく細い声が零れる。
「ああ……」
 長椅子の上で上半身を起こしただけで、立ち上がろうという気すら起こらなかった。
 ぶわりと視界が緩み、頬が熱くなる。
 伸ばした手を、懐かしい温もりが包んだ。
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