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修道女、獣に齧られそうになる
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隠し部屋を出て、なんとか自分の足で歩かせてもらえたのはほんの数十分間だった。一本道が深い渓谷に突き当り、そこを越えていく際には再び抱き上げられた。マローに。
男性騎士と遜色のない体格をしていても、彼女は女性である。にもかかわらず、メイラを抱き上げて急な斜面を上り下りすることを苦にする様子はまるでない。
確かにメイラは小柄で痩せぎすだが、成人しているのだからそれなりの重量はあるはずだ。
しかしマロー曰く、『男ども』に気安く触れさせるべきではないという主張は正論だった。
怪我をしていた腕に抱きかかえられるのは不本意で、歩けると言ってはみたのだが、彼女の意思を覆すことはできなかった。
深い渓谷を下り、また上り。注意深く見ていても、マローに辛そうあるいは苦しそうな表情は浮かばない。それがかえって無理をさせてしまっている気がして、心底申し訳なくてたまらなかった。
やがて先頭を行くダンが、足元にランプを置いた。
渓谷の端からぐるりと対岸に回り、細い急な斜面を底のほうまで下りて行った絶壁の只中だった。岩で行き止まりになっているように見えたが、その後ろに狭い隙間があって、それを隠すように古びた木の板が立てかけられている。
その板を退けると、黒々とした隙間は奥の方まで続いているようだった。大柄な男だと肩が引っかかりそうな狭さだが、どうやらそこが順路らしい。
足元にランプを置いたダンが、板を先に隙間に入れ、次いで壁に頬を擦りつけるようにして苦労して中に潜り込んだ。
ズリズリと皮膚をする音を立てながらなんとか通り抜け、最後に腕だけ出してランプを回収する。
続いて隙間に入ったのはメイラだ。
もちろんダンよりは余裕で岩の間を通り抜け、温かなランプの光で満ちた空間に到着する。
この先はどうするのかと戸惑っていると、最後に通り抜けてきたテトラが板を隙間に立てかけて、明かりが漏れないようにした。
そうすることによって、なおいっそうこの狭い穴倉の事がよくわかるようになった。
小さなランプひとつで部屋が明るくなったのは、そこがひどく狭かったからだ。
メイラが背伸びをすれば天井に手が届きそうなほどの高さで、幅もそれほどない。五人もの成人男女がいるには狭すぎる空間だった。
ランプのほのかな明かりに周囲の様子を伺っていると、ガラスランプの中の炎が揺れて、ダンの巨躯の向こう側から冷たい空気が流れ込んでくるのがわかった。
首を伸ばしてみてみると、大きめのかまど焚口ほどの長方形の穴が、突き当りの壁にぽっかりと開いていた。ランプの明かりに照らされて、穴のすぐ向こう側にレンガ造りの壁があるのが見てとれる。
「……梯子がなくなっている」
その暗い穴に顔を突っ込み、上下の様子を見てから、ダンが険しい表情で言った。
「切れて下に落ちている様子もないから、昨夜マローが降りてきてから引き上げたんだろう」
用心の為だろうか。それとも、何かあったのだろうか。
メイラは不安な面持ちでダンを見上げた。
「ロープがなければ登れない。スカー、お前はどうだ」
これだけ密集した空間の中であっても、影ほどにしか存在感のなかったスカーが、全員からの視線を受けて無言で首を傾けた。彼の暗がりで光って見える目が、確認するようにメイラを見る。
頷いてやると、どうやってかふらりと皆の間を縫ってダンの真横に立った。
パーソナルスペースなど考慮しないその距離感に、ダンのほうが一歩下がる。
スカーは穴に上半身を突っ込んで確かめるようにレンガ造りの壁面に触れ、次の瞬間……
「……えっ」
消えた。
ダンが慌てず穴の上を見た様子から、落ちたのではなく、ロープなしに登って行ったのだろう。
どれぐらい経っただろうか。何もせず沈黙を保つにはいささか長い時間が経過してから、バサリと重いものが落ちてくる音がした。
ロープの梯子だ。
軽く視線を交わしただけで会話はなく、まずはダンが狭そうなその穴に身体をねじ込ませた。
「さあ、御方さま。姉の背中にお回りください」
この年になって背負い紐のお世話になるとは思わなかった。
テトラの手でひょいと抱えられ、マローの背中に降ろされて、抵抗する間もなく布で十字に結わえ付けられた。確かにそうすればマローの両手が使えるだろうが、羞恥心の意味で死ねる。
「マ、マロー」
「しっかりつかまっていてください」
彼女は病み上がりなのだし、自分で上がれると言い張るべきだったかと後悔していると、背後からテトラに頭をぐっと抑えられた。
穴をくぐる際にぶつけないようにとの配慮だろうが、力が強すぎて首がぐきりと鳴った。
かろうじて声を上げるのを堪え、涙目になってマローの首にしがみつくと、彼女は逡巡もなく狭い穴をくぐり、その奥に垂れ下がっている縄の梯子を掴んだ。
「行きますよ」
穴の中の梯子に全体重を掛け、マローは上へと昇り始めた。
負担をかけているのではと気遣う必要もないほどに、ふらつきのないしっかりとした動きだった。
メイラがこの不安定な梯子を昇るより確実に素早く、するすると上の方に向かっていく。
梯子の長さは、かなりのものだった。
背負われているだけなのに、ギシギシ鳴る梯子の揺れに息が上がる。
上を見ると、ぽっかりと青白い外の明かりが見えた。すでにダンの姿はない。
下にいるテトラに視線を向けることはしなかった。これだけ長い距離を昇ってきたのだ、下を見れば、テトラを視認する前に目が回る。
あと少し、もう少しで昇り切る……そう思って安堵の息をつこうとしたその時。
「おつかれさん」
低い、若干かすれた渋い声が真上から降ってきた。
マローの動きは素早かった。
梯子を昇り切るや、穴の縁を蹴って距離を開け、不自由な体勢から身体の前に括りつけていた剣を引き抜いたのだ。
「無駄な抵抗はしない事だ」
何が起こっているのか、理解するのを頭が拒んだ。
ダンがうつ伏せになって土の上に倒れている。
スカーが複数の男に組み伏せられている。
そして何より……明け方のほのかな明るさの中、燦然と輝く銀髪が、朝露に湿る下草の上に滝のように流れ広がっていた。
男性騎士と遜色のない体格をしていても、彼女は女性である。にもかかわらず、メイラを抱き上げて急な斜面を上り下りすることを苦にする様子はまるでない。
確かにメイラは小柄で痩せぎすだが、成人しているのだからそれなりの重量はあるはずだ。
しかしマロー曰く、『男ども』に気安く触れさせるべきではないという主張は正論だった。
怪我をしていた腕に抱きかかえられるのは不本意で、歩けると言ってはみたのだが、彼女の意思を覆すことはできなかった。
深い渓谷を下り、また上り。注意深く見ていても、マローに辛そうあるいは苦しそうな表情は浮かばない。それがかえって無理をさせてしまっている気がして、心底申し訳なくてたまらなかった。
やがて先頭を行くダンが、足元にランプを置いた。
渓谷の端からぐるりと対岸に回り、細い急な斜面を底のほうまで下りて行った絶壁の只中だった。岩で行き止まりになっているように見えたが、その後ろに狭い隙間があって、それを隠すように古びた木の板が立てかけられている。
その板を退けると、黒々とした隙間は奥の方まで続いているようだった。大柄な男だと肩が引っかかりそうな狭さだが、どうやらそこが順路らしい。
足元にランプを置いたダンが、板を先に隙間に入れ、次いで壁に頬を擦りつけるようにして苦労して中に潜り込んだ。
ズリズリと皮膚をする音を立てながらなんとか通り抜け、最後に腕だけ出してランプを回収する。
続いて隙間に入ったのはメイラだ。
もちろんダンよりは余裕で岩の間を通り抜け、温かなランプの光で満ちた空間に到着する。
この先はどうするのかと戸惑っていると、最後に通り抜けてきたテトラが板を隙間に立てかけて、明かりが漏れないようにした。
そうすることによって、なおいっそうこの狭い穴倉の事がよくわかるようになった。
小さなランプひとつで部屋が明るくなったのは、そこがひどく狭かったからだ。
メイラが背伸びをすれば天井に手が届きそうなほどの高さで、幅もそれほどない。五人もの成人男女がいるには狭すぎる空間だった。
ランプのほのかな明かりに周囲の様子を伺っていると、ガラスランプの中の炎が揺れて、ダンの巨躯の向こう側から冷たい空気が流れ込んでくるのがわかった。
首を伸ばしてみてみると、大きめのかまど焚口ほどの長方形の穴が、突き当りの壁にぽっかりと開いていた。ランプの明かりに照らされて、穴のすぐ向こう側にレンガ造りの壁があるのが見てとれる。
「……梯子がなくなっている」
その暗い穴に顔を突っ込み、上下の様子を見てから、ダンが険しい表情で言った。
「切れて下に落ちている様子もないから、昨夜マローが降りてきてから引き上げたんだろう」
用心の為だろうか。それとも、何かあったのだろうか。
メイラは不安な面持ちでダンを見上げた。
「ロープがなければ登れない。スカー、お前はどうだ」
これだけ密集した空間の中であっても、影ほどにしか存在感のなかったスカーが、全員からの視線を受けて無言で首を傾けた。彼の暗がりで光って見える目が、確認するようにメイラを見る。
頷いてやると、どうやってかふらりと皆の間を縫ってダンの真横に立った。
パーソナルスペースなど考慮しないその距離感に、ダンのほうが一歩下がる。
スカーは穴に上半身を突っ込んで確かめるようにレンガ造りの壁面に触れ、次の瞬間……
「……えっ」
消えた。
ダンが慌てず穴の上を見た様子から、落ちたのではなく、ロープなしに登って行ったのだろう。
どれぐらい経っただろうか。何もせず沈黙を保つにはいささか長い時間が経過してから、バサリと重いものが落ちてくる音がした。
ロープの梯子だ。
軽く視線を交わしただけで会話はなく、まずはダンが狭そうなその穴に身体をねじ込ませた。
「さあ、御方さま。姉の背中にお回りください」
この年になって背負い紐のお世話になるとは思わなかった。
テトラの手でひょいと抱えられ、マローの背中に降ろされて、抵抗する間もなく布で十字に結わえ付けられた。確かにそうすればマローの両手が使えるだろうが、羞恥心の意味で死ねる。
「マ、マロー」
「しっかりつかまっていてください」
彼女は病み上がりなのだし、自分で上がれると言い張るべきだったかと後悔していると、背後からテトラに頭をぐっと抑えられた。
穴をくぐる際にぶつけないようにとの配慮だろうが、力が強すぎて首がぐきりと鳴った。
かろうじて声を上げるのを堪え、涙目になってマローの首にしがみつくと、彼女は逡巡もなく狭い穴をくぐり、その奥に垂れ下がっている縄の梯子を掴んだ。
「行きますよ」
穴の中の梯子に全体重を掛け、マローは上へと昇り始めた。
負担をかけているのではと気遣う必要もないほどに、ふらつきのないしっかりとした動きだった。
メイラがこの不安定な梯子を昇るより確実に素早く、するすると上の方に向かっていく。
梯子の長さは、かなりのものだった。
背負われているだけなのに、ギシギシ鳴る梯子の揺れに息が上がる。
上を見ると、ぽっかりと青白い外の明かりが見えた。すでにダンの姿はない。
下にいるテトラに視線を向けることはしなかった。これだけ長い距離を昇ってきたのだ、下を見れば、テトラを視認する前に目が回る。
あと少し、もう少しで昇り切る……そう思って安堵の息をつこうとしたその時。
「おつかれさん」
低い、若干かすれた渋い声が真上から降ってきた。
マローの動きは素早かった。
梯子を昇り切るや、穴の縁を蹴って距離を開け、不自由な体勢から身体の前に括りつけていた剣を引き抜いたのだ。
「無駄な抵抗はしない事だ」
何が起こっているのか、理解するのを頭が拒んだ。
ダンがうつ伏せになって土の上に倒れている。
スカーが複数の男に組み伏せられている。
そして何より……明け方のほのかな明るさの中、燦然と輝く銀髪が、朝露に湿る下草の上に滝のように流れ広がっていた。
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