160 / 207
修道女、運命を選択する
4
しおりを挟む
メイラは分厚いマントを身体に巻き付けて、薄い夜着が見えないように身なりを整えた。丈が長すぎるので足首よりも長く、気を付けなければ裾を踏んでしまいそうだ。
雨風もしのげそうな軍用のマントを引きずるようにして、寄り添いあっている兄妹から離れた。
最後の瞬間にティーナが縋るようにこちらに手を伸ばしてきたが、即座に義兄が引き留めて暗がりに下がらせる。
そう、そのままそこでじっとしていれば見つからないはずだ。
あえてそちらを見ないようにして顔を上げると、今夜は二つの綺麗な満月が天中にかかり雲一つない晴天の夜だった。
「ああ、いらっしゃいましたね。かくれんぼは楽しかったですか?」
木製の波止場の上に立つ黒衣の聖職者は、魔道灯よりも明るい月の下に現れたメイラを見下ろして、邪気の感じさせない表情で笑った。
メイラはその朗らかさに吐き気がこみ上げてくるのを感じながら、逃げ出したくなる両足を踏ん張る。
「……どうしてこんなことを?」
「どうして? もちろん貴女様をお招きする為です」
「わたくしのことはまだしも、皆を傷つける必要があったのですか?」
風上に立つ彼の方から血の臭いがする。
今現在護衛たちが傍にいない事と、周囲に濃厚に漂っている生臭さが、最悪の事態を予想させた。
「おや、周囲に守られているだけの可愛らしい雛鳥だと思っていましたが」
その通りなので、言い返しはしない。しかし、彼の口調は明らかにメイラを見下したもので、事態があまり良くないことを知らしめている。
「もし万が一、彼女たちの命を奪ったというのであれば、わたくしはあなたを許しません」
「そんなことはしませんよ。軽く……撫でてあげただけです。彼女たちも偉大なる御神の慈悲に触れ、喜んでいる事でしょう」
黒衣の神職は、必死で強がる彼女をあざ笑うかのように笑みを深くし、まるで気軽な挨拶をするように片手を上げて見せた。先ほどは黒い手袋をはめていたはずのその手は素手で、肌の色の白さが黒衣とのコントラストをなしている。
それを見たメイラは、なおいっそう顔面から血の気を失せさせた。血まみれになったから手袋を脱いだのではと、そう感じたからだ。
「御神の名を出せば何もかも許されると、本気で思っているのですか?」
こみ上げてきた怒りが、恐怖を凌駕した。
震える足を踏みしめて、キッと細身の男を見上げる。
「それが真に正しい事だと、御神の御前でもそう言い切れるのですか?」
「何を仰っているのか……神の使徒とは思えない発言ですね」
黒衣の神職は、心底不審そうな顔をして、小さく首を左に傾けた。
「神はすべてを見守っておられます。偉大なる御神の御為に、我らはこの世に存在するのです」
「神が善良な者を傷つけ排除せよと仰いましたか?」
「偉大なる御神は、そのような些事は気になさりません。多少の流血など、大いなる信仰のもとにはささいなこと」
「先ほどとは言っている事が違いますね。御神はすべてを見守っておられるのではなかったのですか? あなたの耳には、神の嘆きが届かないのですか」
「……なにを」
「罪深い事です」
暗がりからでも、黒衣の神職が顔を顰めたのがわかった。
メイラは背筋を伸ばして、押し寄せてくる恐怖に負けまいと相手を睨み据えた。
「あなたがしていることを、御神がお認めになるとは到底思えません。それは単なる偽善です。よきことと信じ込んでいるだけの憐れな盲信です」
不意に、黒衣の神職の身体がぶれて見えた。
その次の瞬間には、異様なほどの至近距離に彼はいて、触れそうなほどの近さから小柄なメイラを見下ろしていた。
冷たい素手が顎を掴み、グイと真上に持ち上げられる。
「悪しき者どもが大勢の命を喰おうとしている事態に、知らぬふりを決め込む貴女様はどうなのです?」
悲鳴を上げそうなのをなんとか堪えて、黒髪にミルクティ色の瞳というちぐはぐな取り合わせの男の顔をまっすぐに見上げた。
「わたくしの弱さを神はご存知です。迷い怖れるのが人間です」
「弱さを正当化するのですか? それで何万という命が失われようとも?」
「人間とは弱き生き物です。わたくしも……そしてあなたも」
顎を掴まれた手に力がこもる。
その痛みに顔を歪めながら、メイラは男の目をまっすぐに見上げた。
「それでもわたくしは、迷いながらでも、常に正しい道を選択したいと思っています」
掴まれたところはきっと、痣になる。
骨まで砕かれそうな痛みに声が震えるが、意地でも涙は零さなかった。
「……猊下のお言葉に従わぬとは申しておりません」
メイラ自身には利用価値があるので、殺されるという事はあるまい。そう己に言い聞かせながら、害の無さそうな見目にそぐわぬ恐ろしい男の視線に耐える。
「ですが、やみくもに他者を傷つけ、さもそれが神の御意志なのだと妄言を吐く者に付いていくことはできません」
ここでメイラが毅然としていなければ、彼女に命をかけてくれている者たちに申し訳ない。
言われるがままこの男に従ってしまえば、主人を守れなかった傍付きたちがどれほど落胆するか。
「被害を確認し、明日の朝猊下の方に正式に抗議させていただきます」
ああ、ルシエラは、マローは、テトラたちは無事だろうか。
取り返しのつかない事態になっていないことを切に祈りながら、さほど大柄でもないのにものすごく威圧感のある黒衣の神職から目を逸らさない。
「話は、それからです」
今この瞬間に、メイラは彼女を守っている者たちの主なのだと自覚した。
もはや己は力ないただの修道女ではない。安穏と守られているだけのお荷物でいるわけにもいかない。たとえ必要とされるだけの能力をもっていなくとも、せめて両手を広げて庇護すべき者たちを守らなければ。
「お引き取り下さい」
後から考えると、よくそれだけの事が言えたものだ。
相手は中央神殿の異端審議官。神殿内部の者にも畏れられる者だ。神職としての階位も高く、振る舞いを見るに、行使できる力も強いのだろう。ルシエラたちを退けたやり口から言っても、手段を選ぶようにも見えない。
しかしその時のメイラは、たとえ腕の一本二本奪われようとも、引き下がるつもりはなかった。
雨風もしのげそうな軍用のマントを引きずるようにして、寄り添いあっている兄妹から離れた。
最後の瞬間にティーナが縋るようにこちらに手を伸ばしてきたが、即座に義兄が引き留めて暗がりに下がらせる。
そう、そのままそこでじっとしていれば見つからないはずだ。
あえてそちらを見ないようにして顔を上げると、今夜は二つの綺麗な満月が天中にかかり雲一つない晴天の夜だった。
「ああ、いらっしゃいましたね。かくれんぼは楽しかったですか?」
木製の波止場の上に立つ黒衣の聖職者は、魔道灯よりも明るい月の下に現れたメイラを見下ろして、邪気の感じさせない表情で笑った。
メイラはその朗らかさに吐き気がこみ上げてくるのを感じながら、逃げ出したくなる両足を踏ん張る。
「……どうしてこんなことを?」
「どうして? もちろん貴女様をお招きする為です」
「わたくしのことはまだしも、皆を傷つける必要があったのですか?」
風上に立つ彼の方から血の臭いがする。
今現在護衛たちが傍にいない事と、周囲に濃厚に漂っている生臭さが、最悪の事態を予想させた。
「おや、周囲に守られているだけの可愛らしい雛鳥だと思っていましたが」
その通りなので、言い返しはしない。しかし、彼の口調は明らかにメイラを見下したもので、事態があまり良くないことを知らしめている。
「もし万が一、彼女たちの命を奪ったというのであれば、わたくしはあなたを許しません」
「そんなことはしませんよ。軽く……撫でてあげただけです。彼女たちも偉大なる御神の慈悲に触れ、喜んでいる事でしょう」
黒衣の神職は、必死で強がる彼女をあざ笑うかのように笑みを深くし、まるで気軽な挨拶をするように片手を上げて見せた。先ほどは黒い手袋をはめていたはずのその手は素手で、肌の色の白さが黒衣とのコントラストをなしている。
それを見たメイラは、なおいっそう顔面から血の気を失せさせた。血まみれになったから手袋を脱いだのではと、そう感じたからだ。
「御神の名を出せば何もかも許されると、本気で思っているのですか?」
こみ上げてきた怒りが、恐怖を凌駕した。
震える足を踏みしめて、キッと細身の男を見上げる。
「それが真に正しい事だと、御神の御前でもそう言い切れるのですか?」
「何を仰っているのか……神の使徒とは思えない発言ですね」
黒衣の神職は、心底不審そうな顔をして、小さく首を左に傾けた。
「神はすべてを見守っておられます。偉大なる御神の御為に、我らはこの世に存在するのです」
「神が善良な者を傷つけ排除せよと仰いましたか?」
「偉大なる御神は、そのような些事は気になさりません。多少の流血など、大いなる信仰のもとにはささいなこと」
「先ほどとは言っている事が違いますね。御神はすべてを見守っておられるのではなかったのですか? あなたの耳には、神の嘆きが届かないのですか」
「……なにを」
「罪深い事です」
暗がりからでも、黒衣の神職が顔を顰めたのがわかった。
メイラは背筋を伸ばして、押し寄せてくる恐怖に負けまいと相手を睨み据えた。
「あなたがしていることを、御神がお認めになるとは到底思えません。それは単なる偽善です。よきことと信じ込んでいるだけの憐れな盲信です」
不意に、黒衣の神職の身体がぶれて見えた。
その次の瞬間には、異様なほどの至近距離に彼はいて、触れそうなほどの近さから小柄なメイラを見下ろしていた。
冷たい素手が顎を掴み、グイと真上に持ち上げられる。
「悪しき者どもが大勢の命を喰おうとしている事態に、知らぬふりを決め込む貴女様はどうなのです?」
悲鳴を上げそうなのをなんとか堪えて、黒髪にミルクティ色の瞳というちぐはぐな取り合わせの男の顔をまっすぐに見上げた。
「わたくしの弱さを神はご存知です。迷い怖れるのが人間です」
「弱さを正当化するのですか? それで何万という命が失われようとも?」
「人間とは弱き生き物です。わたくしも……そしてあなたも」
顎を掴まれた手に力がこもる。
その痛みに顔を歪めながら、メイラは男の目をまっすぐに見上げた。
「それでもわたくしは、迷いながらでも、常に正しい道を選択したいと思っています」
掴まれたところはきっと、痣になる。
骨まで砕かれそうな痛みに声が震えるが、意地でも涙は零さなかった。
「……猊下のお言葉に従わぬとは申しておりません」
メイラ自身には利用価値があるので、殺されるという事はあるまい。そう己に言い聞かせながら、害の無さそうな見目にそぐわぬ恐ろしい男の視線に耐える。
「ですが、やみくもに他者を傷つけ、さもそれが神の御意志なのだと妄言を吐く者に付いていくことはできません」
ここでメイラが毅然としていなければ、彼女に命をかけてくれている者たちに申し訳ない。
言われるがままこの男に従ってしまえば、主人を守れなかった傍付きたちがどれほど落胆するか。
「被害を確認し、明日の朝猊下の方に正式に抗議させていただきます」
ああ、ルシエラは、マローは、テトラたちは無事だろうか。
取り返しのつかない事態になっていないことを切に祈りながら、さほど大柄でもないのにものすごく威圧感のある黒衣の神職から目を逸らさない。
「話は、それからです」
今この瞬間に、メイラは彼女を守っている者たちの主なのだと自覚した。
もはや己は力ないただの修道女ではない。安穏と守られているだけのお荷物でいるわけにもいかない。たとえ必要とされるだけの能力をもっていなくとも、せめて両手を広げて庇護すべき者たちを守らなければ。
「お引き取り下さい」
後から考えると、よくそれだけの事が言えたものだ。
相手は中央神殿の異端審議官。神殿内部の者にも畏れられる者だ。神職としての階位も高く、振る舞いを見るに、行使できる力も強いのだろう。ルシエラたちを退けたやり口から言っても、手段を選ぶようにも見えない。
しかしその時のメイラは、たとえ腕の一本二本奪われようとも、引き下がるつもりはなかった。
0
お気に入りに追加
656
あなたにおすすめの小説
王子殿下の慕う人
夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。
しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──?
「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」
好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。
※小説家になろうでも投稿してます
あなたには、この程度のこと、だったのかもしれませんが。
ふまさ
恋愛
楽しみにしていた、パーティー。けれどその場は、信じられないほどに凍り付いていた。
でも。
愉快そうに声を上げて笑う者が、一人、いた。
【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
忘却令嬢〜そう言われましても記憶にございません〜【完】
雪乃
恋愛
ほんの一瞬、躊躇ってしまった手。
誰よりも愛していた彼女なのに傷付けてしまった。
ずっと傷付けていると理解っていたのに、振り払ってしまった。
彼女は深い碧色に絶望を映しながら微笑んだ。
※読んでくださりありがとうございます。
ゆるふわ設定です。タグをころころ変えてます。何でも許せる方向け。
王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました
さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。
王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ
頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。
ゆるい設定です
愛することをやめたら、怒る必要もなくなりました。今さら私を愛する振りなんて、していただかなくても大丈夫です。
石河 翠
恋愛
貴族令嬢でありながら、家族に虐げられて育ったアイビー。彼女は社交界でも人気者の恋多き侯爵エリックに望まれて、彼の妻となった。
ひとなみに愛される生活を夢見たものの、彼が欲していたのは、夫に従順で、家の中を取り仕切る女主人のみ。先妻の子どもと仲良くできない彼女をエリックは疎み、なじる。
それでもエリックを愛し、結婚生活にしがみついていたアイビーだが、彼の子どもに言われたたった一言で心が折れてしまう。ところが、愛することを止めてしまえばその生活は以前よりも穏やかで心地いいものになっていて……。
愛することをやめた途端に愛を囁くようになったヒーローと、その愛をやんわりと拒むヒロインのお話。
この作品は他サイトにも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID 179331)をお借りしております。
王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!
gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ?
王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。
国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから!
12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。
〈完結〉八年間、音沙汰のなかった貴方はどちら様ですか?
詩海猫
恋愛
私の家は子爵家だった。
高位貴族ではなかったけれど、ちゃんと裕福な貴族としての暮らしは約束されていた。
泣き虫だった私に「リーアを守りたいんだ」と婚約してくれた侯爵家の彼は、私に黙って戦争に言ってしまい、いなくなった。
私も泣き虫の子爵令嬢をやめた。
八年後帰国した彼は、もういない私を探してるらしい。
*文字数的に「短編か?」という量になりましたが10万文字以下なので短編です。この後各自のアフターストーリーとか書けたら書きます。そしたら10万文字超えちゃうかもしれないけど短編です。こんなにかかると思わず、「転生王子〜」が大幅に滞ってしまいましたが、次はあちらに集中予定(あくまで予定)です、あちらもよろしくお願いします*
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる