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修道女、運命を選択する
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向き合っていたのはほんの数十秒だったと思う。
しかし心臓は喉から飛び出してきそうだし、足元が恐怖で崩れ落ちそうだし、とにかくメイラにとっては永遠にも感じられる時間だった。
その緊張が遮られたのは、ひんやりとした手が顎から離れ、黒衣の神職の視線が脇へとそれたからだ。
彼が何に反応したのか分からなかったし、とっさに何が起こったのかも不明だった。
気づいた時には、ぐいと足元から攫われて、錆びた匂いのする何かにその場所から遠ざけられていた。
「……思っていたより早いね」
黒衣の神職の視線が再びメイラに戻ってきたが、先ほどよりずっと距離が遠く、そう感じた瞬間にもなおその距離は開いていく。
「それはどうも」
メイラは、背後から聞こえてくる聞き覚えのある男の声に、強張っていた身体から力を抜いた。
視界の端で見えている限りだが、今回のユリウスは冒険者風の服装をしていた。旅人用のマントを羽織っていて、そこから鼻が曲がりそうな血の臭いが漂ってくる。
怪我をしているのか? 心配は心配だったが、今それを正せる雰囲気ではない。
大柄な男が、一段高い歩道から飛び降りてきて、黒衣の神職に切りかかった。
さらりとそれを避けた神職は、やはり聖職者というよりも戦うことを知っている人間なのだろう。寸鉄帯びている風ではないが、さして身構える様子もなく冷静に攻撃をかわしていく。
ざっざっと聞こえるのは、飛び降りてきた男が地面を蹴る音だ。
その男は黒髪で、こちらもメイラには見覚えがあった。サッハートの街で、マローとともに行動を共にしたひとだ。
「ダ、ダン!?」
目を凝らして確かめようとしたのだが、ユリウスはその場から離れようとしていて、すぐに顔の判別ができない距離になった。
明らかに、メイラたちから気を逸らせるための陽動であり、逃亡の時間を稼ぐためにあの恐ろしい神職の相手を引き受けてくれたのだろう。
「大丈夫、隊長は強いから心配しないでいいですよ」
運ばれながら、メイラは改めてユリウスの顔を見上げた。
「……っ」
生臭のはマントだけではなく、ユリウスの顔面を斜めに切り裂いた刃物傷から滴る鮮血の臭いだった。額の上の方から切られているらしく、顔面は血まみれで目は半分しか見えなかったが、ちらりとメイラを見下ろす表情はこちらを安心させるためか笑っている。
「ちょーっと失敗しました。大丈夫、ポーションあるので落ち着いたら飲みます」
気づけば、音もなくユリウスに伴走する十数人の男たち。特徴のあまりない彼らは、かつてマローが犬と呼んでいた影者たちだろう。
メイラは、己の為に誰かが傷ついていることに足元が崩れていくほどの恐怖を覚えたが、意地でそれを飲み込んだ。
この恐怖は、実際に命をかけてくれている彼らの前で見せてはいけないものだ。
「お迎えが遅くなってすいません。もう少しご辛抱くださいね」
血まみれなのに、ユリウスが浮かべる表情は笑顔だ。少し揶揄うような、目じりを垂れさせる独特の笑み。メイラを不安がらせないように、あえて浮かべているに違いない。
しばらく走っていると、途中で何人かの脱落者が出た。
素人のメイラには感知できないことだが、おそらくは追手を退ける為だろう。
運ばれる揺れに舌を噛まないよう奥歯を噛み締め、彼らの無事を祈る。
―――どうか、神よ。ご覧になって居るのなら、あなた様の使徒から彼らをお救い下さい。
そうすることしかできない自身の不甲斐なさに、忸怩たる思いをしながらも、改めてこんなことになってしまった元凶に怒りが抑えきれない。
祖父だと名乗っておきながら。さも親身な顔をしておきながら。
教皇猊下が直属の異端審議官の行動を制御できないはずはなく、つまりこの一連のことはあの方も承知しているのだろう。
裏切られたと感じるのは、少なからず信じる気持ちがあったからだ。
父に、気を許すなと忠告されていたのに。
祖父などと、何か思惑があっての虚言に違いないと、最初に思ったはずなのに。
メイラがきちんと対応していれば、避けられたかもしれない状況だった。
素直に従い中央神殿に行くと言っていれば。あるいは行けないと即答していれば。
中途半端に迷っていたから、神殿側はメイラの身を確保できると判断したのだろうし、護衛はその対処に後手に回ってしまったのだろう。
ユリウスの出血はひどく、みるみる間にメイラのマントを汚していく。
周囲の影者たちも、ひとりまたひとりと数を減らしていく。
目を逸らしてはならない。怯えてもならない。
これはまさしく、メイラの罪だ。
しばらくして、走る速度はそのままに、ユリウスは裏路地の角を曲がり、大きく引き戸を開かれた古びた家屋の中に飛び込んだ。
メイラの目には、ユリウスと全く同じ背格好の男が、大きな荷物を抱えてその先の角を曲がっていくのが見えた。
一瞬後には真っ暗闇の納屋の片隅に押しやられ、上から覆いかぶさられる。
更に近くなった血の臭いが生々しくて、暗くて見えないだろうと泣きそうに顔をゆがめてしまった。
「しー」
ひくり、と嗚咽が零れてしまった口を、手でふさがれる。
「大丈夫、ほんの少しの間だけですから我慢してください」
耳元で囁かれる声は、ありえないほどに近い。
思い出すのは、誘拐された先の地下での出来事。あの時も、メイラをこうやって押し倒したのはこの男だ。
掛かっているのが己の命だけではないことが、その時以上に恐ろしかった。
ぼたりぼたりと、滴る血が石床の上に落ちる音がやけに大きく聞こえる。
頭部の怪我は出血が多いと聞くが、こんなに血が出ていて大丈夫なのだろうか。
出血を止めるために傷口をおさえるにしても、メイラの両手はがっしりとユリウスの腕に阻まれて動かせないし、ユリウスもぴくりとも動こうとしない。
沈黙の中に、風の音のような、足音のようなものが聞こえてくる。
メイラはきゅっと目を閉じて、乱れそうになる呼気を内心で数字を数えながら抑えた。
しかし心臓は喉から飛び出してきそうだし、足元が恐怖で崩れ落ちそうだし、とにかくメイラにとっては永遠にも感じられる時間だった。
その緊張が遮られたのは、ひんやりとした手が顎から離れ、黒衣の神職の視線が脇へとそれたからだ。
彼が何に反応したのか分からなかったし、とっさに何が起こったのかも不明だった。
気づいた時には、ぐいと足元から攫われて、錆びた匂いのする何かにその場所から遠ざけられていた。
「……思っていたより早いね」
黒衣の神職の視線が再びメイラに戻ってきたが、先ほどよりずっと距離が遠く、そう感じた瞬間にもなおその距離は開いていく。
「それはどうも」
メイラは、背後から聞こえてくる聞き覚えのある男の声に、強張っていた身体から力を抜いた。
視界の端で見えている限りだが、今回のユリウスは冒険者風の服装をしていた。旅人用のマントを羽織っていて、そこから鼻が曲がりそうな血の臭いが漂ってくる。
怪我をしているのか? 心配は心配だったが、今それを正せる雰囲気ではない。
大柄な男が、一段高い歩道から飛び降りてきて、黒衣の神職に切りかかった。
さらりとそれを避けた神職は、やはり聖職者というよりも戦うことを知っている人間なのだろう。寸鉄帯びている風ではないが、さして身構える様子もなく冷静に攻撃をかわしていく。
ざっざっと聞こえるのは、飛び降りてきた男が地面を蹴る音だ。
その男は黒髪で、こちらもメイラには見覚えがあった。サッハートの街で、マローとともに行動を共にしたひとだ。
「ダ、ダン!?」
目を凝らして確かめようとしたのだが、ユリウスはその場から離れようとしていて、すぐに顔の判別ができない距離になった。
明らかに、メイラたちから気を逸らせるための陽動であり、逃亡の時間を稼ぐためにあの恐ろしい神職の相手を引き受けてくれたのだろう。
「大丈夫、隊長は強いから心配しないでいいですよ」
運ばれながら、メイラは改めてユリウスの顔を見上げた。
「……っ」
生臭のはマントだけではなく、ユリウスの顔面を斜めに切り裂いた刃物傷から滴る鮮血の臭いだった。額の上の方から切られているらしく、顔面は血まみれで目は半分しか見えなかったが、ちらりとメイラを見下ろす表情はこちらを安心させるためか笑っている。
「ちょーっと失敗しました。大丈夫、ポーションあるので落ち着いたら飲みます」
気づけば、音もなくユリウスに伴走する十数人の男たち。特徴のあまりない彼らは、かつてマローが犬と呼んでいた影者たちだろう。
メイラは、己の為に誰かが傷ついていることに足元が崩れていくほどの恐怖を覚えたが、意地でそれを飲み込んだ。
この恐怖は、実際に命をかけてくれている彼らの前で見せてはいけないものだ。
「お迎えが遅くなってすいません。もう少しご辛抱くださいね」
血まみれなのに、ユリウスが浮かべる表情は笑顔だ。少し揶揄うような、目じりを垂れさせる独特の笑み。メイラを不安がらせないように、あえて浮かべているに違いない。
しばらく走っていると、途中で何人かの脱落者が出た。
素人のメイラには感知できないことだが、おそらくは追手を退ける為だろう。
運ばれる揺れに舌を噛まないよう奥歯を噛み締め、彼らの無事を祈る。
―――どうか、神よ。ご覧になって居るのなら、あなた様の使徒から彼らをお救い下さい。
そうすることしかできない自身の不甲斐なさに、忸怩たる思いをしながらも、改めてこんなことになってしまった元凶に怒りが抑えきれない。
祖父だと名乗っておきながら。さも親身な顔をしておきながら。
教皇猊下が直属の異端審議官の行動を制御できないはずはなく、つまりこの一連のことはあの方も承知しているのだろう。
裏切られたと感じるのは、少なからず信じる気持ちがあったからだ。
父に、気を許すなと忠告されていたのに。
祖父などと、何か思惑があっての虚言に違いないと、最初に思ったはずなのに。
メイラがきちんと対応していれば、避けられたかもしれない状況だった。
素直に従い中央神殿に行くと言っていれば。あるいは行けないと即答していれば。
中途半端に迷っていたから、神殿側はメイラの身を確保できると判断したのだろうし、護衛はその対処に後手に回ってしまったのだろう。
ユリウスの出血はひどく、みるみる間にメイラのマントを汚していく。
周囲の影者たちも、ひとりまたひとりと数を減らしていく。
目を逸らしてはならない。怯えてもならない。
これはまさしく、メイラの罪だ。
しばらくして、走る速度はそのままに、ユリウスは裏路地の角を曲がり、大きく引き戸を開かれた古びた家屋の中に飛び込んだ。
メイラの目には、ユリウスと全く同じ背格好の男が、大きな荷物を抱えてその先の角を曲がっていくのが見えた。
一瞬後には真っ暗闇の納屋の片隅に押しやられ、上から覆いかぶさられる。
更に近くなった血の臭いが生々しくて、暗くて見えないだろうと泣きそうに顔をゆがめてしまった。
「しー」
ひくり、と嗚咽が零れてしまった口を、手でふさがれる。
「大丈夫、ほんの少しの間だけですから我慢してください」
耳元で囁かれる声は、ありえないほどに近い。
思い出すのは、誘拐された先の地下での出来事。あの時も、メイラをこうやって押し倒したのはこの男だ。
掛かっているのが己の命だけではないことが、その時以上に恐ろしかった。
ぼたりぼたりと、滴る血が石床の上に落ちる音がやけに大きく聞こえる。
頭部の怪我は出血が多いと聞くが、こんなに血が出ていて大丈夫なのだろうか。
出血を止めるために傷口をおさえるにしても、メイラの両手はがっしりとユリウスの腕に阻まれて動かせないし、ユリウスもぴくりとも動こうとしない。
沈黙の中に、風の音のような、足音のようなものが聞こえてくる。
メイラはきゅっと目を閉じて、乱れそうになる呼気を内心で数字を数えながら抑えた。
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