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修道女、運命を選択する
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そういえばスカーのことを猊下に相談しておくべきだと思っていたのだが、もはや話すような雰囲気ではなかった。
実際に強硬姿勢を取られているわけではないのだが、メイラの傍付きたちは緊迫した表情をして誰も彼女のそばを離れようとしない。本来であれば交代のはずの時間になっても、護衛の人数は増えるだけで減らないのだ。
彼女たちには何か確信があるようで、一瞬たりとも猊下と異端審議官だという若い神職から目を逸らさなかった。
やがて猊下は苦笑し、諦めたように引き下がったが、それでもなお警戒態勢は続いた。
メイラとしても決めかねていた。
決断を下すには、あまりにも大きな岐路だった。
一番大きいのは、陛下に二度と会うことが出来ないかもしれないという恐怖だ。
離れてしまえば、永遠に道が分かれてしまうのではないか。後宮では美しい妃たちが待っているのだ、今かりそめに陛下の中にあるメイラの居場所が、いつしか奪われてしまう可能性は高いように思う。
陛下を信じていないとかそういう問題ではない。メイラは自身にその隣に相応しくはないという引け目があるから、そんな女が永遠に続く愛という奇跡を享受できるとは思っていないのだ。
メイラは深夜、ひとりベッドで丸くなりながら、結論の出せない迷路の中にいた。
猊下が引き上げた後も、依然として警戒態勢は続き、今も下ろした天蓋布の外には複数の護衛が控えている。
メイラが眠れずにいるのは察せられているだろう。
せめて眠っているふりをして、心配させないよう務めるべきなのに、こみ上げてくる不安で忙しなく寝返りを打ってしまう。
出来るだけ早く決断しなくてはならない。
すでにもう、行かなければならないと分かっているのに、迷ったふりをすることこそ傲慢だ。
行きたくないという本心が、醜い言い訳となってしまっているのは、自分自身にもよくわかっていた。
陛下や帝都の人々の命より、夫の心を失いたくないという気持ちに揺さぶられている事に、酷い自己嫌悪を抱かずにはいられない。
さあっと風の音がした。
不意に、室内の異様な静かさを察知した。
ぎゅっと一度目を閉じて、ゆっくりと震える息を吐く。
「……お迎えに上がりましたよ」
雑踏の中だと聞き逃してしまいそうな柔らかで穏やかな声。
真夜中の風の音にも紛れ、同化してしまうような静かな口調。
メイラはゆっくりと半身を起こした。
天蓋布の向こう側から聞こえてくるのは、黒髪に淡い茶色の目の色をした異端審査官の声だった。
その足元に、夜番の護衛をしていた女騎士たちがうつぶせになって横たわっているのが見えて、ひゅっと喉が鋭く鳴った。
「彼女たちは」
「ご心配には及びません。深く眠っているだけです」
まるで、死神の足元でこと切れているかのような錯覚。
メイラはドクドクと忙しなく鳴る胸の上で両手を握りしめて、これは夢ではなく、決断の時が来たのだと悟った。
「お仕度の必要はありません、なにもかもこちらでご用意いたしますので」
さあ、と差し伸べられた手には、黒い手袋。
昼間に見た神職の白い法衣ではなく、まるで闇からにじみ出てきたような漆黒の装い。
まるで、物語の中に出てくる冥府へのいざない人そのものだ。
その手を取れば、引き返せない。わかっているからこそ、すぐには動くことが出来なかった。
たった数秒間の逡巡。それを躊躇いとらえたのか、拒否ととらえたのか、闇に浮き上がって見えるほど色白の顔がわずかに顰められた。
その時。
「畏れ多くも皇帝陛下の御寵愛深い御方さまの寝所に、何用でしょうか」
聞き慣れた単調な声が、寝室の入り口付近から聞こえてきた。
メイラはギクリと身をすくめ、黒衣の異端審議官は長々と溜息をついた。
「……どうするべきなのかは貴女もわかっているはずだ」
「ええ、もちろん。真夜中に女性の寝所に潜んでくる不埒者など、殺されても文句は言えませんね」
「そんな身体で何ができると?」
「ルシエラ!?」
メイラは、暗がりで細身の人影がよろめき壁に手をつくのを見て、ベットから飛び降りた。
夜着の裾が絡まり足を取られながら、今にも倒れてしまいそうな彼女に駆け寄る。
「……少なくとも貴方よりは御方さまの人となりにについてよく存じておりますので」
その細身の身体に両手を伸ばしたところで、抗えない力で引き寄せられ文字通り『捕まった』。
「ル、ルシエ……」
「迷いましたね?」
「えっ?」
「今、あの男の手を取ろうとしましたね?」
「そ、そんな事より……」
「陛下には、しっかりお伝えせねば」
そのほっそりとした肢体からは考えられないほどの力で引き寄せられ……否、正確には小脇に抱えられて出口のドアのところまで下げられた。
「孕んでいればさすがに神殿に行こうなどとおっしゃらないはず」
ものすごく不穏な台詞を聞いた気がしたが、きっと聞き間違いだろう。
「待って、待ってルシエラ」
「将来の皇帝陛下のお腹さまになるやもしれぬ御方を、おめおめと奪われるわけにはまいりません」
メイラは、わずかに開いたドアの向こうに押しやられた。
隙間から伸びて来た手がひったくるようにメイラを引き取り、バタン、と音を立てて扉が閉ざされる。
「ルシエラ!!」
ふわり、と分厚い布で身体を包まれた。同時に視界も閉ざされて、その場からものすごい勢いで遠ざかっている事しか分からない。
布越しだが、メイラを抱え運んでいる相手の見当はついた。
何故なら、押し当てられている胸のふくらみが、覚えのある弾力だったのだ。
「マロー!」
必死でふくよかなその胸を押す。
「戻って! ルシエラが!!」
「舌を噛みますよ」
低めの女性の声でそう言われた瞬間に、ガキッと奥歯が舌を挟んで錆びた鉄の味が咥内に広がる。
「彼女のことはご心配なく。離宮は囲まれておりますので、とりあえず脱出します」
痛みに唸っている間に、言うべき事も言えずに事は進んでしまった。
気づいた時には屋外にいて、隣には心配そうな表情のティーナがいた。
「……血が!」
間抜けにも舌を噛んだのだとは言えず、あやふやな笑みを返すと、気弱な姪はその大きな目にぶわりと涙を浮かべた。
「すぐにお医者さまを!!」
「しっ、静かに」
ティーナの声は細いが良く通る。徐々に声が大きくなるのを慌てて制したのは、彼女の義理の兄だ。
人差し指を口の前で立てて、注意深く周囲を見回している。
メイラは、ぐるぐる巻きになっている布から逃れようと必死でもがいた。
ようやく片腕が自由になったので芋虫状態から半身を起こすと、そこは運河に作られた波止場の一角だった。季節柄もっとも水位が低い時期で、厳冬期になれば凍り付いてしまうが、今はまだ小舟で海へ下っていく事は可能だ。
逃亡する経路としては比較的安全で早いのだろうが、いかんせん、誰もが考え付く道だった。
素人のメイラにも、追ってくる者たちの気配がわかる。
「……ティーナさん」
冷たい夜の気配の中に、鉄がぶつかり合う音が遠く聞こえて。
メイラはよりそってくれている姪を、巻き込んでしまった事を悔いた。
「今ならまだ、無関係を装って対岸に行けるわ。……ほら、あそこにも逢引をしている恋人たちがいる」
ここは、夜になると運河を照らす魔道灯が幻想的な光を反射させるので、大人の散歩道として観光名所になっている。
堰き止められた運河なので流れも穏やかで、誰にも邪魔されたくない恋人たちがふたりきりでボートに乗るのも定番だった。
「そんな! ボートは一艘しかありませんのに!」
「いいのよ。お行きなさい」
「いいえ、いいえ!」
メイラは少し息をついて、難しい顔をしている彼女の義理の兄を見上げた。
「……お行きなさい」
「貴女様を置いていくわけにはまいりません。横たわっていれば見えませんので、ご一緒に」
「わたくしと共にいなければ、危険はありません。あなたは兄として妹を守らなければ」
確かに、主家の娘であり皇帝陛下の妾妃でもあるメイラを見捨てたと言われると、後々厄介なことになるのかもしれない。しかしそれよりも、彼には守らなければならない大切なものがあるはずだ。
あきらかに逡巡するそぶりをみせた男に、更に説得をつづけようとして、追っ手らしき人影が距離をつめてきたのに気づいた。
鉄がぶつかり合う音は聞こえなくなっている。
メイラは顔面から血の気を失せさせて、震える唇を噛み締めた。
マローたちはどうなったのだ。まさか、まさか……
「そこにいらっしゃいますね」
闇から聞こえてくる穏やかな声。
ひっと小さな悲鳴を上げたのは姪だったが、同様にメイラも息ができないほどの恐怖にさらされて震えあがっていた。
「出ておいでなさい」
メイラたちがいるのは、波止場の影のくぼみになっている部分。夏になれば川の水に浸かってしまうところで、歩道からは見えない。
向こうから見えないという事は、メイラからも相手の位置が把握できず、次第に声が近づいて来るのが恐ろしかった。
不意に風向きが変わって、鉄さびの臭いがした。
メイラは震えてしまう唇に歯を立てて、なんとか肺に息を取り込み落ち着こうと肩を上下させる。
「……ここから動いては駄目よ」
淡い月明かりと街灯の光の中、寄り添いあって震えている兄妹。
やはりメイラの幼少期よりもずっと恵まれていると改めて思いながら、蒼白になったティーナに微笑みかけた。
逃げ出すことが許される二人に羨望の想いを抱きながら、固く彼女を拘束していた布を解く。
「しーっ、静かに」
何かを言いかけた兄の方に、人差し指を向け。
「この事を、お父さまに伝えて」
その手で、震えている姪の頬をそっと撫でた。
実際に強硬姿勢を取られているわけではないのだが、メイラの傍付きたちは緊迫した表情をして誰も彼女のそばを離れようとしない。本来であれば交代のはずの時間になっても、護衛の人数は増えるだけで減らないのだ。
彼女たちには何か確信があるようで、一瞬たりとも猊下と異端審議官だという若い神職から目を逸らさなかった。
やがて猊下は苦笑し、諦めたように引き下がったが、それでもなお警戒態勢は続いた。
メイラとしても決めかねていた。
決断を下すには、あまりにも大きな岐路だった。
一番大きいのは、陛下に二度と会うことが出来ないかもしれないという恐怖だ。
離れてしまえば、永遠に道が分かれてしまうのではないか。後宮では美しい妃たちが待っているのだ、今かりそめに陛下の中にあるメイラの居場所が、いつしか奪われてしまう可能性は高いように思う。
陛下を信じていないとかそういう問題ではない。メイラは自身にその隣に相応しくはないという引け目があるから、そんな女が永遠に続く愛という奇跡を享受できるとは思っていないのだ。
メイラは深夜、ひとりベッドで丸くなりながら、結論の出せない迷路の中にいた。
猊下が引き上げた後も、依然として警戒態勢は続き、今も下ろした天蓋布の外には複数の護衛が控えている。
メイラが眠れずにいるのは察せられているだろう。
せめて眠っているふりをして、心配させないよう務めるべきなのに、こみ上げてくる不安で忙しなく寝返りを打ってしまう。
出来るだけ早く決断しなくてはならない。
すでにもう、行かなければならないと分かっているのに、迷ったふりをすることこそ傲慢だ。
行きたくないという本心が、醜い言い訳となってしまっているのは、自分自身にもよくわかっていた。
陛下や帝都の人々の命より、夫の心を失いたくないという気持ちに揺さぶられている事に、酷い自己嫌悪を抱かずにはいられない。
さあっと風の音がした。
不意に、室内の異様な静かさを察知した。
ぎゅっと一度目を閉じて、ゆっくりと震える息を吐く。
「……お迎えに上がりましたよ」
雑踏の中だと聞き逃してしまいそうな柔らかで穏やかな声。
真夜中の風の音にも紛れ、同化してしまうような静かな口調。
メイラはゆっくりと半身を起こした。
天蓋布の向こう側から聞こえてくるのは、黒髪に淡い茶色の目の色をした異端審査官の声だった。
その足元に、夜番の護衛をしていた女騎士たちがうつぶせになって横たわっているのが見えて、ひゅっと喉が鋭く鳴った。
「彼女たちは」
「ご心配には及びません。深く眠っているだけです」
まるで、死神の足元でこと切れているかのような錯覚。
メイラはドクドクと忙しなく鳴る胸の上で両手を握りしめて、これは夢ではなく、決断の時が来たのだと悟った。
「お仕度の必要はありません、なにもかもこちらでご用意いたしますので」
さあ、と差し伸べられた手には、黒い手袋。
昼間に見た神職の白い法衣ではなく、まるで闇からにじみ出てきたような漆黒の装い。
まるで、物語の中に出てくる冥府へのいざない人そのものだ。
その手を取れば、引き返せない。わかっているからこそ、すぐには動くことが出来なかった。
たった数秒間の逡巡。それを躊躇いとらえたのか、拒否ととらえたのか、闇に浮き上がって見えるほど色白の顔がわずかに顰められた。
その時。
「畏れ多くも皇帝陛下の御寵愛深い御方さまの寝所に、何用でしょうか」
聞き慣れた単調な声が、寝室の入り口付近から聞こえてきた。
メイラはギクリと身をすくめ、黒衣の異端審議官は長々と溜息をついた。
「……どうするべきなのかは貴女もわかっているはずだ」
「ええ、もちろん。真夜中に女性の寝所に潜んでくる不埒者など、殺されても文句は言えませんね」
「そんな身体で何ができると?」
「ルシエラ!?」
メイラは、暗がりで細身の人影がよろめき壁に手をつくのを見て、ベットから飛び降りた。
夜着の裾が絡まり足を取られながら、今にも倒れてしまいそうな彼女に駆け寄る。
「……少なくとも貴方よりは御方さまの人となりにについてよく存じておりますので」
その細身の身体に両手を伸ばしたところで、抗えない力で引き寄せられ文字通り『捕まった』。
「ル、ルシエ……」
「迷いましたね?」
「えっ?」
「今、あの男の手を取ろうとしましたね?」
「そ、そんな事より……」
「陛下には、しっかりお伝えせねば」
そのほっそりとした肢体からは考えられないほどの力で引き寄せられ……否、正確には小脇に抱えられて出口のドアのところまで下げられた。
「孕んでいればさすがに神殿に行こうなどとおっしゃらないはず」
ものすごく不穏な台詞を聞いた気がしたが、きっと聞き間違いだろう。
「待って、待ってルシエラ」
「将来の皇帝陛下のお腹さまになるやもしれぬ御方を、おめおめと奪われるわけにはまいりません」
メイラは、わずかに開いたドアの向こうに押しやられた。
隙間から伸びて来た手がひったくるようにメイラを引き取り、バタン、と音を立てて扉が閉ざされる。
「ルシエラ!!」
ふわり、と分厚い布で身体を包まれた。同時に視界も閉ざされて、その場からものすごい勢いで遠ざかっている事しか分からない。
布越しだが、メイラを抱え運んでいる相手の見当はついた。
何故なら、押し当てられている胸のふくらみが、覚えのある弾力だったのだ。
「マロー!」
必死でふくよかなその胸を押す。
「戻って! ルシエラが!!」
「舌を噛みますよ」
低めの女性の声でそう言われた瞬間に、ガキッと奥歯が舌を挟んで錆びた鉄の味が咥内に広がる。
「彼女のことはご心配なく。離宮は囲まれておりますので、とりあえず脱出します」
痛みに唸っている間に、言うべき事も言えずに事は進んでしまった。
気づいた時には屋外にいて、隣には心配そうな表情のティーナがいた。
「……血が!」
間抜けにも舌を噛んだのだとは言えず、あやふやな笑みを返すと、気弱な姪はその大きな目にぶわりと涙を浮かべた。
「すぐにお医者さまを!!」
「しっ、静かに」
ティーナの声は細いが良く通る。徐々に声が大きくなるのを慌てて制したのは、彼女の義理の兄だ。
人差し指を口の前で立てて、注意深く周囲を見回している。
メイラは、ぐるぐる巻きになっている布から逃れようと必死でもがいた。
ようやく片腕が自由になったので芋虫状態から半身を起こすと、そこは運河に作られた波止場の一角だった。季節柄もっとも水位が低い時期で、厳冬期になれば凍り付いてしまうが、今はまだ小舟で海へ下っていく事は可能だ。
逃亡する経路としては比較的安全で早いのだろうが、いかんせん、誰もが考え付く道だった。
素人のメイラにも、追ってくる者たちの気配がわかる。
「……ティーナさん」
冷たい夜の気配の中に、鉄がぶつかり合う音が遠く聞こえて。
メイラはよりそってくれている姪を、巻き込んでしまった事を悔いた。
「今ならまだ、無関係を装って対岸に行けるわ。……ほら、あそこにも逢引をしている恋人たちがいる」
ここは、夜になると運河を照らす魔道灯が幻想的な光を反射させるので、大人の散歩道として観光名所になっている。
堰き止められた運河なので流れも穏やかで、誰にも邪魔されたくない恋人たちがふたりきりでボートに乗るのも定番だった。
「そんな! ボートは一艘しかありませんのに!」
「いいのよ。お行きなさい」
「いいえ、いいえ!」
メイラは少し息をついて、難しい顔をしている彼女の義理の兄を見上げた。
「……お行きなさい」
「貴女様を置いていくわけにはまいりません。横たわっていれば見えませんので、ご一緒に」
「わたくしと共にいなければ、危険はありません。あなたは兄として妹を守らなければ」
確かに、主家の娘であり皇帝陛下の妾妃でもあるメイラを見捨てたと言われると、後々厄介なことになるのかもしれない。しかしそれよりも、彼には守らなければならない大切なものがあるはずだ。
あきらかに逡巡するそぶりをみせた男に、更に説得をつづけようとして、追っ手らしき人影が距離をつめてきたのに気づいた。
鉄がぶつかり合う音は聞こえなくなっている。
メイラは顔面から血の気を失せさせて、震える唇を噛み締めた。
マローたちはどうなったのだ。まさか、まさか……
「そこにいらっしゃいますね」
闇から聞こえてくる穏やかな声。
ひっと小さな悲鳴を上げたのは姪だったが、同様にメイラも息ができないほどの恐怖にさらされて震えあがっていた。
「出ておいでなさい」
メイラたちがいるのは、波止場の影のくぼみになっている部分。夏になれば川の水に浸かってしまうところで、歩道からは見えない。
向こうから見えないという事は、メイラからも相手の位置が把握できず、次第に声が近づいて来るのが恐ろしかった。
不意に風向きが変わって、鉄さびの臭いがした。
メイラは震えてしまう唇に歯を立てて、なんとか肺に息を取り込み落ち着こうと肩を上下させる。
「……ここから動いては駄目よ」
淡い月明かりと街灯の光の中、寄り添いあって震えている兄妹。
やはりメイラの幼少期よりもずっと恵まれていると改めて思いながら、蒼白になったティーナに微笑みかけた。
逃げ出すことが許される二人に羨望の想いを抱きながら、固く彼女を拘束していた布を解く。
「しーっ、静かに」
何かを言いかけた兄の方に、人差し指を向け。
「この事を、お父さまに伝えて」
その手で、震えている姪の頬をそっと撫でた。
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