永遠のクロッカス

須藤慎弥

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…  …  …


 あれから数日。

 飲みにも行かず、男とも交わらず、家に帰ってシャワーとご飯を済ませて、テレビを見て意味も分からず笑っていたら寝落ちするという、至極健全な生活を送った。
 そのおかげもあって、今のところあの日のような疲労困憊状態にはなっていない。 冴島からも三隈からも「安心した」と言ってもらえた。
 確かに頑張り過ぎていたのは自覚していたので、考え抜いた末に一日の指名予約客は減らす事にした。
 仕事なのだから頑張れよとキツめの叱咤激励を予想していたのに対し、乃蒼の客達は揃って「いつなら空いているかしら?」と優しくお伺いを立ててくる穏やかなマダムばかりでとてもありがたい。

 乃蒼は、自分を指名してくれている客達一人一人へ素直に白状したのだ。

『自分は見ての通りガリで、体力まったくないくせに頑張り過ぎてました。 なので一日の予約数を減らす方向で考えてます。 もしかしたら次の予約を取る時に希望に添えない事もあるかもしれません。 それでも……いいですか』

 バカ真面目にありのままを語る乃蒼の隣で「本当の事を言い過ぎだろ」と冴島は苦笑し、客から呆れられ、果ては怒鳴られる事もある程度覚悟していた。

 だが先述の通り優しいマダム達は「乃蒼くん疲れた顔してたから心配だったのよ~」と気遣い、栄養ドリンクや甘いものを差し入れしてもらえるほど乃蒼は絶大なる信頼を得ていた。
 疲労回復にいいからと有名どころの店のケーキやクッキーなどを、まるで毎日がバレンタインデーかのようにいくつも貰い受け、「へへ…」と照れたように笑う乃蒼にマダム達はイチコロだった。
 仕事では普段の倍は話せるようになる乃蒼は、屈託なく会話はするが決しておざなりではない。 時には皆に内緒で悩み相談に近い事まで熱心に聞いてやっている。
 真剣な眼差しで鏡越しに見詰め、真摯に頷いてやると、女性客は一気に頬を染めて視線をそらす者までいるのだ。
 人間素直が一番だと、乃蒼は無理をし過ぎていた自身を恥じた。


「おい佐伯ー、ロッカーずっとブーブー言ってたぞ? 急用だったらいけねーから出てきたら?」


 休憩から戻ってきた三隈が、シャンプー変わるからと手振りで合図してきた。
 そう言われると無視も出来ず、客に断ってからロッカールームに入ると、例の振動音が響き渡っている。
 相手は確かめるまでもない。


「また月光だ……。 こいついつ寝てんの?」


 夜は電源が落ちるまで、昼もこうして夕方近くまで延々と鳴らされ続けるバイブ音。
 それはもうしつこく、こちらが辟易するほどなのである。

 乃蒼はたった二分弱の会話など覚えてもいなければ、電話をしてしまった事すらも早く忘れたいのだ。
 こうも毎日だと、「精神的に病みそうなほど電話をかけまくってくるストーカーが居るんですけど」と通報したくなる。


「あ、そうだ。 電源落としときゃいいんだ」


 振動を続けるスマホ片手に呟く。
 なぜこんなにも簡単な事を思い付かなかったのだろう。
 この数日間、振動音と共に生活していた乃蒼は、自らの閃きに目か鱗だ。
 鳴り止まないスマホの電源を落とすと、急に室内が静かになる。 ようやくヤツから逃れられたような気がした。


「よし、次の休みにスマホ買いに行こう」


 仕事の連絡も入るので、電源を落としたままにしておくわけにはいかない。
 携帯会社を乗り換え、どうせなら新しい機種を、購入してやる。 ヤツの鬼電から逃れることが出来るなら金は惜しまない。

 これでも必死な思いでお別れしたのだ。
 ───今さら月光なんかに振り回されてたまるものか。



…  …  …



 スマホを新調して三日後、あの恐怖の振動音を聞かなくて済む生活にようやく慣れ始めた頃。
 仕事終わりの駅までの道すがらだった。

 ───ブー、ブー、ブー、ブー。


「ヒィッっ」


 すでに振動音すら怖くなっていたところに、また着信があった。
 友人や職場も専らLINEでのメッセージのやり取りが主なので、着信は珍しい。
 しかもこの時間だ。 嫌でも、相手が誰なのか一発で悟った。


「なんで? なんでだよ……ッ」


 三日前に新しくしたばかりなのに、何故バレているのかと、信じられない思いで画面に煌々と表示された名前を見詰める。
 何故だ何故だと頭をフル回転させて画面を見ると、なんと月光からの “LINE” 着信だった。


「あーっ、くっそーー! 盲点だった!」


 既存のスマホを解約した後、新たに会社を変えて新規で契約したあの一日がかりの手続きは結構大変だったのだ。


「あの長時間の拘束はなんだったんだ……!」


 掴み取った苦労と安堵は水の泡。 途中解約だったので違約金まで払わされた事を考えると、周囲など気にせず叫びたい気持ちを抑えきれなかった。
 番号を変えても乃蒼が不便ないよう、大人しく店員さんの任せていたらLINEはそのまま使えるように設定してくれたらしい。
 余計な事を……と奥歯を噛み締めても、携帯ショップのお姉さんに何の罪もない。
 恨むべきは、すっぽり抜け落ちていた自分の迂闊さである。


「と、とりあえず電源落として……月光が掛けてこない時間にブロックするしかない」


 振動が途切れない。 途切れても、また一瞬で振動を始める。
 これまで月光の文字に指をやる事もなかった。
 当然LINE上にいるのも知っていたが関わらないようにしていた。
 思い出さないようにするしか、乃蒼の平穏な日々は保たれなかった。

 いや、そもそも未練がましく月光の番号を残していたのがいけなかった。
 削除する機会はいくらでもあったはずなのに、なぜだかそれは出来ず……「月光」の文字は離れていた七年の間も、ずっと乃蒼のスマホに在った。


「……ビンちゃんにこないだのお金払いに行って、一杯だけ飲みに行こ……」


 まだ駅構内に入る前だったので、乃蒼は回れ右してビンちゃんのお店に向かった。
 今日もまた、懲りない乃蒼は酔いたい気分だったのだ。




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