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第五章
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今年も温室での茶会には大勢の貴族が集まっていた。
ブレンダは両親と共に植物園へ到着したが、馬車を降りると出迎えた王太子の侍従によって別室へと連れて行かれた。
「待たせた」
しばらく待っているとクリストフが現れた。
「ああ、今日も綺麗だな。そのドレスもよく似合っている」
クリストフはブレンダの姿に目を細めた。
昼用の、首元をレースで飾った露出のないクリーム色のドレスは今日のためにクリストフから贈られたものだ。
イヤリングとブローチは赤いルビーで、クリストフの色ではないが、王家に伝わるものだという。
化粧も薄めだが、それがよりブレンダ本来の美しさを際立たせていた。
「ありがとう……」
「抱きしめていいか」
「え?」
唐突な言葉にブレンダは目を丸くした。
「何で……」
「人前で笑顔を見せないために、今のうちにブレンダを堪能しておかないとな」
クリストフはブレンダの目の前までくるとその手を取った。
「こんなに綺麗な姿で隣にいられると、顔が緩むのを抑えられなくなりそうだ」
見る間に顔が赤くなったブレンダに、笑顔になるとクリストフはブレンダを抱き寄せた。
(わ……)
腕の中に閉じ込められ、クリストフの感触と体温が伝わってくる。
香水の香りが鼻をくすぐる。
体温が上がり心臓の音が大きく鳴るのをブレンダは感じた。
「君はいい匂いがするな」
耳元で囁くようなクリストフの声が聞こえ、何かが耳に触れた。
「――愛している、ブレンダ」
クリストフはブレンダを強く抱きしめた。
クリストフとブレンダが温室へ姿を現すと、会場内の視線が一斉に集まった。
「王太子殿下だわ」
「お隣の方はバルシュミーデ侯爵令嬢よね」
「先日も一緒に観劇されたそうよ」
「婚約の噂は本当なのね……」
騒めきと共に声が聞こえてくる。
ブレンダが婚約者候補となっていることは周知の事実らしい。
(……まあ、他の人が婚約者に選ばれるのも……嫌なんだけれど)
先日の観劇で抱いた気持ちを改めて自分の心に問い直して、ブレンダは気づいた。
今の『クリストフにとって特別な存在』という立場を、他の人に奪われるのは嫌なのだと。
素の自分を見せるのも笑顔を見せるのも、触れたり抱きしめられたりするのも。
全て自分だけであって欲しいと。
クリストフが、ブレンダがダミアンやレアンドロと親しくするのを嫌がるのも分かる気がする。
(これが恋だとしたら……厄介で欲深いものなのね)
恋というのは、もっとロマンチックなものだと思っていたけれど。
(マーガレットみたいにふわふわした感じではないのよね……)
先日、マーガレットとダミアンは二人で街へ出かけた。
ドロテーアの教えてくれたカフェに行き、その後は街を散策したという。
ケーキがとても美味しかったこと、けれど腹が満たされなかったダミアンが、屋台で豪快に買い食いしたことなどをマーガレットはとても楽しそうに教えてくれた。
その時のマーガレットの表情は、いかにも恋する乙女という顔だったけれど。
(私は……あんな顔でクリストフを見られているのかしら)
「どうした?」
考え込んでいるとクリストフが声をかけた。
「緊張しているのか」
「あ……いいえ」
ブレンダは小さく首を振った。
「陛下と王妃には君のことは既に伝えてある。心配しなくてもいい」
今日はまず、クリストフのパートナーとして主催である国王夫妻に挨拶することになっている。
そのせいで緊張していると思われたのだろう。
国王夫妻は去年ブレンダたちがいた、建物のテラス席に座っていた。
「陛下」
まずクリストフが二人の前に立つと軽く会釈をし、それからブレンダを招いた。
「こちらがブレンダ・バルシュミーデ嬢です」
「初めてお目にかかります」
ブレンダはドレスの裾をつまむと膝を折った。
「バルシュミーデ嬢、話は聞いている」
髭を生やし威厳のある国王は五十歳くらい。その顔立ちはクリストフに似ていた。
「愛想のない息子だがよろしく頼む」
「……はい」
「お綺麗なお嬢さんね、王太子が一目惚れするのも分かるわ」
王妃は四十代には見えないほど若々しい、レアンドロによく似た美しい女性だった。
「二年前に家出をしたと聞いた時は心配したけれど。結果、あの話はなくなって良かったのでしょうね」
「そうだな、他に王太子妃に相応しい者もいないようだ」
国王と王妃は顔を見合わせた。
「あの時は……ご迷惑をおかけいたしました」
ブレンダは慌てて深く頭を下げた。
第二王子との婚約話を拒否して家出したのは、考えれば不敬罪として罰せられてもおかしくはないくらいだ。
「ふふ、いいのよ。私も昔、婚約の話を聞いた時は嫌だと言って部屋に閉じこもったもの」
王妃は微笑んだ。
「……そうだったのか?」
「女の子なら、恋愛もしたいし結婚は好きな人としたいと思うわ。ねえブレンダさん?」
初めて聞かされたことに目を見開いた国王に答えて、王妃は再びブレンダを見た。
「……はい」
ブレンダが拒否したのは破滅を恐れたからだが、それを他の人には説明できない。
ブレンダは曖昧に頷いた。
「色々と不安もあるでしょうし、実際大変なことも多いけれど。でも何とかなるものだから、気楽にね」
笑顔で王妃はそう言った。
「王妃様は優しい方ね」
挨拶を終えて戻りながらブレンダは言った。
「大らかで公正な方だ。私が王太子となった時も最初に賛成してくれた」
「そうだったの。素敵な方ね」
自分の息子が王太子になった方が嬉しいだろうに。
「ああ。お陰で母も自由に暮らせている」
そう言って、クリストフは立ち止まった。
「だが、ブレンダに王妃のような振る舞いは求めないし、私は側妃を取るつもりはないからな」
ブレンダを見つめてクリストフは言った。
「子が産まれなくとも、レアンドロもいるし問題はないだろう」
「あ……ありがとう」
「私は生涯ブレンダ一人だけだ」
言い切るクリストフに、ブレンダの耳が赤く染まった。
「ほら見て、王太子殿下とバルシュミーデ侯爵令嬢よ」
「美男美女ね……」
「お似合いだわ」
クリストフとブレンダが、学芸員から植物の説明を受けているのを遠巻きに見ながら貴族たちは噂話をしていた。
王太子の婚約者選びは、家柄と年齢を考えてもブレンダが最有力候補だとされていた。
「でも、バルシュミーデ侯爵令嬢は泣かされたりしていないのかしら」
「王太子殿下のあのお顔……美しいけれど怖いですものね」
「お妃になるのは憧れますけど……あの王太子殿下と夫婦になると思うと恐ろしいですわ」
説明を受けるクリストフの表情には何の感情も見えず、その色彩のせいで氷のような印象を与える。
何人もの令嬢が彼の態度と表情に泣かされてきたのだ。
「バルシュミーデ侯爵令嬢はとても優しい方と聞いていますわ」
「既に孤児院への支援活動を行っているのでしょう。勉強熱心だとミュラー伯爵夫人が誉めていらしたわ」
「お優しいからお断りできないのでしょうね……」
(ああ、やっぱり)
聞こえてきた夫人たちの噂話に、近くにいたレアンドロは手を握りしめた。
「ブレンダ嬢を……兄上から救わないと」
目の前に咲く、薄紅色のバラを見つめてレアンドロは呟いた。
第五章おわり
ブレンダは両親と共に植物園へ到着したが、馬車を降りると出迎えた王太子の侍従によって別室へと連れて行かれた。
「待たせた」
しばらく待っているとクリストフが現れた。
「ああ、今日も綺麗だな。そのドレスもよく似合っている」
クリストフはブレンダの姿に目を細めた。
昼用の、首元をレースで飾った露出のないクリーム色のドレスは今日のためにクリストフから贈られたものだ。
イヤリングとブローチは赤いルビーで、クリストフの色ではないが、王家に伝わるものだという。
化粧も薄めだが、それがよりブレンダ本来の美しさを際立たせていた。
「ありがとう……」
「抱きしめていいか」
「え?」
唐突な言葉にブレンダは目を丸くした。
「何で……」
「人前で笑顔を見せないために、今のうちにブレンダを堪能しておかないとな」
クリストフはブレンダの目の前までくるとその手を取った。
「こんなに綺麗な姿で隣にいられると、顔が緩むのを抑えられなくなりそうだ」
見る間に顔が赤くなったブレンダに、笑顔になるとクリストフはブレンダを抱き寄せた。
(わ……)
腕の中に閉じ込められ、クリストフの感触と体温が伝わってくる。
香水の香りが鼻をくすぐる。
体温が上がり心臓の音が大きく鳴るのをブレンダは感じた。
「君はいい匂いがするな」
耳元で囁くようなクリストフの声が聞こえ、何かが耳に触れた。
「――愛している、ブレンダ」
クリストフはブレンダを強く抱きしめた。
クリストフとブレンダが温室へ姿を現すと、会場内の視線が一斉に集まった。
「王太子殿下だわ」
「お隣の方はバルシュミーデ侯爵令嬢よね」
「先日も一緒に観劇されたそうよ」
「婚約の噂は本当なのね……」
騒めきと共に声が聞こえてくる。
ブレンダが婚約者候補となっていることは周知の事実らしい。
(……まあ、他の人が婚約者に選ばれるのも……嫌なんだけれど)
先日の観劇で抱いた気持ちを改めて自分の心に問い直して、ブレンダは気づいた。
今の『クリストフにとって特別な存在』という立場を、他の人に奪われるのは嫌なのだと。
素の自分を見せるのも笑顔を見せるのも、触れたり抱きしめられたりするのも。
全て自分だけであって欲しいと。
クリストフが、ブレンダがダミアンやレアンドロと親しくするのを嫌がるのも分かる気がする。
(これが恋だとしたら……厄介で欲深いものなのね)
恋というのは、もっとロマンチックなものだと思っていたけれど。
(マーガレットみたいにふわふわした感じではないのよね……)
先日、マーガレットとダミアンは二人で街へ出かけた。
ドロテーアの教えてくれたカフェに行き、その後は街を散策したという。
ケーキがとても美味しかったこと、けれど腹が満たされなかったダミアンが、屋台で豪快に買い食いしたことなどをマーガレットはとても楽しそうに教えてくれた。
その時のマーガレットの表情は、いかにも恋する乙女という顔だったけれど。
(私は……あんな顔でクリストフを見られているのかしら)
「どうした?」
考え込んでいるとクリストフが声をかけた。
「緊張しているのか」
「あ……いいえ」
ブレンダは小さく首を振った。
「陛下と王妃には君のことは既に伝えてある。心配しなくてもいい」
今日はまず、クリストフのパートナーとして主催である国王夫妻に挨拶することになっている。
そのせいで緊張していると思われたのだろう。
国王夫妻は去年ブレンダたちがいた、建物のテラス席に座っていた。
「陛下」
まずクリストフが二人の前に立つと軽く会釈をし、それからブレンダを招いた。
「こちらがブレンダ・バルシュミーデ嬢です」
「初めてお目にかかります」
ブレンダはドレスの裾をつまむと膝を折った。
「バルシュミーデ嬢、話は聞いている」
髭を生やし威厳のある国王は五十歳くらい。その顔立ちはクリストフに似ていた。
「愛想のない息子だがよろしく頼む」
「……はい」
「お綺麗なお嬢さんね、王太子が一目惚れするのも分かるわ」
王妃は四十代には見えないほど若々しい、レアンドロによく似た美しい女性だった。
「二年前に家出をしたと聞いた時は心配したけれど。結果、あの話はなくなって良かったのでしょうね」
「そうだな、他に王太子妃に相応しい者もいないようだ」
国王と王妃は顔を見合わせた。
「あの時は……ご迷惑をおかけいたしました」
ブレンダは慌てて深く頭を下げた。
第二王子との婚約話を拒否して家出したのは、考えれば不敬罪として罰せられてもおかしくはないくらいだ。
「ふふ、いいのよ。私も昔、婚約の話を聞いた時は嫌だと言って部屋に閉じこもったもの」
王妃は微笑んだ。
「……そうだったのか?」
「女の子なら、恋愛もしたいし結婚は好きな人としたいと思うわ。ねえブレンダさん?」
初めて聞かされたことに目を見開いた国王に答えて、王妃は再びブレンダを見た。
「……はい」
ブレンダが拒否したのは破滅を恐れたからだが、それを他の人には説明できない。
ブレンダは曖昧に頷いた。
「色々と不安もあるでしょうし、実際大変なことも多いけれど。でも何とかなるものだから、気楽にね」
笑顔で王妃はそう言った。
「王妃様は優しい方ね」
挨拶を終えて戻りながらブレンダは言った。
「大らかで公正な方だ。私が王太子となった時も最初に賛成してくれた」
「そうだったの。素敵な方ね」
自分の息子が王太子になった方が嬉しいだろうに。
「ああ。お陰で母も自由に暮らせている」
そう言って、クリストフは立ち止まった。
「だが、ブレンダに王妃のような振る舞いは求めないし、私は側妃を取るつもりはないからな」
ブレンダを見つめてクリストフは言った。
「子が産まれなくとも、レアンドロもいるし問題はないだろう」
「あ……ありがとう」
「私は生涯ブレンダ一人だけだ」
言い切るクリストフに、ブレンダの耳が赤く染まった。
「ほら見て、王太子殿下とバルシュミーデ侯爵令嬢よ」
「美男美女ね……」
「お似合いだわ」
クリストフとブレンダが、学芸員から植物の説明を受けているのを遠巻きに見ながら貴族たちは噂話をしていた。
王太子の婚約者選びは、家柄と年齢を考えてもブレンダが最有力候補だとされていた。
「でも、バルシュミーデ侯爵令嬢は泣かされたりしていないのかしら」
「王太子殿下のあのお顔……美しいけれど怖いですものね」
「お妃になるのは憧れますけど……あの王太子殿下と夫婦になると思うと恐ろしいですわ」
説明を受けるクリストフの表情には何の感情も見えず、その色彩のせいで氷のような印象を与える。
何人もの令嬢が彼の態度と表情に泣かされてきたのだ。
「バルシュミーデ侯爵令嬢はとても優しい方と聞いていますわ」
「既に孤児院への支援活動を行っているのでしょう。勉強熱心だとミュラー伯爵夫人が誉めていらしたわ」
「お優しいからお断りできないのでしょうね……」
(ああ、やっぱり)
聞こえてきた夫人たちの噂話に、近くにいたレアンドロは手を握りしめた。
「ブレンダ嬢を……兄上から救わないと」
目の前に咲く、薄紅色のバラを見つめてレアンドロは呟いた。
第五章おわり
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