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第一章
03
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三日後、ブレンダが再び院長室に呼ばれて行くと、そこに父親の姿があった。
「ブレンダ……」
「――わざわざご足労いただきありがとうございます、侯爵様」
歩み寄ろうとした侯爵は、娘の言葉にピタリと足を止めた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ございません。ですが、もう私のことは忘れてください。私はシスターとして生きていくことに決めましたから」
侯爵を見据えてブレンダは言った。
「……ブレンダ」
侯爵は口を開いた。
「婚約の話はなしとなった。だから帰ってきて……くれないか」
侯爵はその顔をしかめた。
「――私が、悪かった」
ブレンダは驚いた。
父親が謝罪の言葉を口にするなど、思いもよらなかった。
(……でも)
「私が侯爵様の言葉を信用するとお思いですか」
これまでの行いや考えがそう簡単に変わるとは思えなかった。
「――本当だ。今度、年頃の娘を集めて第二王子の婚約者を選ぶことになったのだ」
「つまり家に帰ってそれに参加しろということですね」
「違う、王家にはお前は妃候補にしないと断りを入れた。だから……」
「信用できません」
ブレンダは侯爵の言葉を遮った。
「ブレンダ……本当に悪かった」
顔をこわばらせて侯爵は言った。
「私は……お前に幸せになって欲しいと、そう思っているんだ」
「ならば放っておいてください。私は今、とても幸せですから」
ブレンダは答えた。
「子供たちは可愛いですし、彼らの面倒を見ることはやりがいがある仕事です。それに、皆でおしゃべりしながら食事を取ることが楽しいことだと、ここで初めて知りました」
ブレンダの言葉に侯爵はハッとしたような顔になった。
前世では知っていた。
時に料理を奪い合いながらも賑やかな食卓の楽しさと、幸せな時間を。
けれどこの世界に生まれてから――孤児院にくるまで、ブレンダは食事の時間が楽しいと思ったことは一度もなかった。
給仕をする者はいたけれど、会話をすることはなく。
いつでも黙って食事をしていたのだ。
「幸せを望むというのなら、邪魔をしないでください」
「ブレンダ……」
「そろそろ皆が昼寝から起きる時間なので、失礼いたします」
くるりと背を向けて、ブレンダは部屋から出て行った。
「バルシュミーデ侯爵」
廊下に響いていたブレンダの足音が聞こえなくなると、院長は口を開いた。
「お引き取り願えますか」
「しかし……」
「侯爵が反省しているのは分かります。けれど、心を閉ざしているブレンダさんを帰すことはできません」
侯爵を見つめて院長は言った。
「心を閉ざしている……」
「どうしてか分かりますか? 彼女の心は深く傷ついている、その傷が広がらないよう自分を守るためです」
優しくて気が利くブレンダは孤児院の子供たちに好かれ、シスターたちからの評判も良い。
侯爵令嬢という高貴な身分を鼻にかけることもなく、面倒な仕事も嫌がらず、手が汚れるようなこともためらうことなくできる。
そうしていつも笑顔でいるが――それは、彼女が自分自身を守るためだ。
誰とも親しく接してはいるが、心には固い壁を作り決して他人を踏み込ませない。
その閉ざした心の奥に、寂しさや悲しさといったものを隠しているのに院長やシスターたちは気づいていた。
家族の愛を知らない十四歳の少女の心を癒すには、彼女が望んでいる家族の愛が必要だが――孤児院で子供たちに愛情を持って接することで、その渇望を満たしているのだと院長は感じていた。
本来、ブレンダに愛情を与えられる存在であるはずの父親は、けれど彼女に不信や失望を与えてしまった。
侯爵が娘に手を上げたことを後悔していることは、その様子を見れば分かる。
けれどブレンダがそれを理解し、受け入れられるかはまた別だ。
彼女にとって父親は自分を道具としてしか見ることのない、拒絶するべき存在なのだ。
「今無理に家に帰れば、ブレンダさんの傷はさらに広がってしまうでしょう。ですから帰すわけにはいきません」
「……どうすればその心の傷は消えますか」
「信頼を得てください。彼女が侯爵のことを受け入れて、互いに家族として愛情が持てるようになるのがいいでしょうね」
「……どうやって信頼を得れば」
「ブレンダさんを心から愛してください。十四年間の分も、沢山」
賢いブレンダだ。入れ知恵や表面だけの振る舞いはすぐ見抜くだろう。
心から愛情を与えなければ、彼女も心を開かないだろう。
「ママー」
ブレンダが部屋に戻るとロイが手を挙げながらよちよちと歩み寄ってきた。
「起きたの? ロイ」
ブレンダが抱き上げると、ロイはぎゅっとブレンダの首にしがみついた。
「ロイばっかりズルい!」
四歳になるデボラが後ろからブレンダに抱きついてきた。
「お姉ちゃん、遊ぼう!」
「ぼくもー」
五歳のラルフが駆け寄ってきた。
「じゃあ皆でね」
ブレンダがソファに座ると、デボラとラルフがその左右に腰を下ろした。
「何をして遊ぶの?」
「お話聞かせてー」
「ちっちゃなお姫さまのお話!」
「えー、桃の王子がいい!」
子供たちに前世の絵本に会った昔話を聞かせると、皆とても喜んでくれた。
親指姫や桃太郎など、この国の子たちにも分かるよう内容をアレンジするのだ。
「じゃあ、今日は新しいお話ね」
「新しい?」
「そうよ。昔むかし、あるところに三匹の、ブタの兄弟がいました」
ブレンダが語り始めると、幼い子は目を輝かせながら、大きな子も興味深そうに聴き始めた。
「ブレンダ……」
「――わざわざご足労いただきありがとうございます、侯爵様」
歩み寄ろうとした侯爵は、娘の言葉にピタリと足を止めた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ございません。ですが、もう私のことは忘れてください。私はシスターとして生きていくことに決めましたから」
侯爵を見据えてブレンダは言った。
「……ブレンダ」
侯爵は口を開いた。
「婚約の話はなしとなった。だから帰ってきて……くれないか」
侯爵はその顔をしかめた。
「――私が、悪かった」
ブレンダは驚いた。
父親が謝罪の言葉を口にするなど、思いもよらなかった。
(……でも)
「私が侯爵様の言葉を信用するとお思いですか」
これまでの行いや考えがそう簡単に変わるとは思えなかった。
「――本当だ。今度、年頃の娘を集めて第二王子の婚約者を選ぶことになったのだ」
「つまり家に帰ってそれに参加しろということですね」
「違う、王家にはお前は妃候補にしないと断りを入れた。だから……」
「信用できません」
ブレンダは侯爵の言葉を遮った。
「ブレンダ……本当に悪かった」
顔をこわばらせて侯爵は言った。
「私は……お前に幸せになって欲しいと、そう思っているんだ」
「ならば放っておいてください。私は今、とても幸せですから」
ブレンダは答えた。
「子供たちは可愛いですし、彼らの面倒を見ることはやりがいがある仕事です。それに、皆でおしゃべりしながら食事を取ることが楽しいことだと、ここで初めて知りました」
ブレンダの言葉に侯爵はハッとしたような顔になった。
前世では知っていた。
時に料理を奪い合いながらも賑やかな食卓の楽しさと、幸せな時間を。
けれどこの世界に生まれてから――孤児院にくるまで、ブレンダは食事の時間が楽しいと思ったことは一度もなかった。
給仕をする者はいたけれど、会話をすることはなく。
いつでも黙って食事をしていたのだ。
「幸せを望むというのなら、邪魔をしないでください」
「ブレンダ……」
「そろそろ皆が昼寝から起きる時間なので、失礼いたします」
くるりと背を向けて、ブレンダは部屋から出て行った。
「バルシュミーデ侯爵」
廊下に響いていたブレンダの足音が聞こえなくなると、院長は口を開いた。
「お引き取り願えますか」
「しかし……」
「侯爵が反省しているのは分かります。けれど、心を閉ざしているブレンダさんを帰すことはできません」
侯爵を見つめて院長は言った。
「心を閉ざしている……」
「どうしてか分かりますか? 彼女の心は深く傷ついている、その傷が広がらないよう自分を守るためです」
優しくて気が利くブレンダは孤児院の子供たちに好かれ、シスターたちからの評判も良い。
侯爵令嬢という高貴な身分を鼻にかけることもなく、面倒な仕事も嫌がらず、手が汚れるようなこともためらうことなくできる。
そうしていつも笑顔でいるが――それは、彼女が自分自身を守るためだ。
誰とも親しく接してはいるが、心には固い壁を作り決して他人を踏み込ませない。
その閉ざした心の奥に、寂しさや悲しさといったものを隠しているのに院長やシスターたちは気づいていた。
家族の愛を知らない十四歳の少女の心を癒すには、彼女が望んでいる家族の愛が必要だが――孤児院で子供たちに愛情を持って接することで、その渇望を満たしているのだと院長は感じていた。
本来、ブレンダに愛情を与えられる存在であるはずの父親は、けれど彼女に不信や失望を与えてしまった。
侯爵が娘に手を上げたことを後悔していることは、その様子を見れば分かる。
けれどブレンダがそれを理解し、受け入れられるかはまた別だ。
彼女にとって父親は自分を道具としてしか見ることのない、拒絶するべき存在なのだ。
「今無理に家に帰れば、ブレンダさんの傷はさらに広がってしまうでしょう。ですから帰すわけにはいきません」
「……どうすればその心の傷は消えますか」
「信頼を得てください。彼女が侯爵のことを受け入れて、互いに家族として愛情が持てるようになるのがいいでしょうね」
「……どうやって信頼を得れば」
「ブレンダさんを心から愛してください。十四年間の分も、沢山」
賢いブレンダだ。入れ知恵や表面だけの振る舞いはすぐ見抜くだろう。
心から愛情を与えなければ、彼女も心を開かないだろう。
「ママー」
ブレンダが部屋に戻るとロイが手を挙げながらよちよちと歩み寄ってきた。
「起きたの? ロイ」
ブレンダが抱き上げると、ロイはぎゅっとブレンダの首にしがみついた。
「ロイばっかりズルい!」
四歳になるデボラが後ろからブレンダに抱きついてきた。
「お姉ちゃん、遊ぼう!」
「ぼくもー」
五歳のラルフが駆け寄ってきた。
「じゃあ皆でね」
ブレンダがソファに座ると、デボラとラルフがその左右に腰を下ろした。
「何をして遊ぶの?」
「お話聞かせてー」
「ちっちゃなお姫さまのお話!」
「えー、桃の王子がいい!」
子供たちに前世の絵本に会った昔話を聞かせると、皆とても喜んでくれた。
親指姫や桃太郎など、この国の子たちにも分かるよう内容をアレンジするのだ。
「じゃあ、今日は新しいお話ね」
「新しい?」
「そうよ。昔むかし、あるところに三匹の、ブタの兄弟がいました」
ブレンダが語り始めると、幼い子は目を輝かせながら、大きな子も興味深そうに聴き始めた。
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