16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第12章 スペードの女王と道化師

アンリ2世が逝く

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 馬上槍試合の事故について、カトリーヌがふっと思い出したように、ミシェル・ノストラダムスの詩編を思い出した者はいたらしい。現代までそのように捉えられてもいるようだ。

 彼の著書『予言書』は16世紀当時も広く流布していたし、そこに異端の尻尾を掴もうと熟読している人も多くいたからである。それに実のところをいえば、たくさんの人が見る必要もない。あちこち吹聴するわずかの喧伝者がいれば十分、平たくいえば「噂」や「風評」があればいいのだ。王妃がそれを思い出したとなれば、他にも結びつける人がいただろう。

 当初、アンリ2世の怪我はそれほど重くないと思われた。運び込まれたときは意識もあったし、気力を振り絞った結果であろうが、自ら立ち上がりもしたという。折れた槍先の傷も頭部貫通はしていなかったという。しかし、手当てを受ける前に国王は意識を失った。ある医師が王の傷の度合いを知るために他の遺体で実証を行ったと伝わるが、この頃は脳の中を開かずに見る方法などなかったし、そもそも頭部を開く手術などなかったので、実証すれば救えたというわけではない。
 結局は外傷の手当をするのがせいいっぱいだった。
 昏睡状態の王を皆が見守っていた。
 もちろん、王の病室に入れたのは医師や近臣、家族は妻のカトリーヌと長男のフランソワ、そしてその妻のメアリーだけだった。長女エリザベートはスペインに旅立たなければならなかったし、王の妹のマルグリットも結婚を控えているのだった。傍に付いていなかったとしても、皆は一様に息を潜めるように見守っていた。

 カトリーヌは衝撃に打ちのめされていた。

 アンリは死んでしまうかもしれない。
 その日が来るのはもっと先のことだと思っていた。命に関わるような持病もなく、頑丈とはいえないけれど健康な人だったのに。何がいけなかったのだろう。戦場で命を落とすこともあるだろうけど、まさか戦争の和議がなった祝宴の場でこんなことになるなんて。
 まだ50歳になったばかりなのに。

 宮廷の人間はいくらか思っていただろうし、現代でも通説のようになっているが、アンリとカトリーヌは不仲だったという。それは無理もない。アンリは幼い頃からの憧れの貴婦人、ディアンヌが付いていて、正妻のカトリーヌは当初まったく重きを置かれていなかったからである。それに加えて、カトリーヌはしばらく懐妊しなかったので楽しい日々というより、針のむしろに座っているような時期が続いた。それでも、子どもをたて続けに産んでいくうちに、彼女とアンリの関係も少しずつ変わっていった。王は王妃に政策について相談するようになり、カトリーヌは明晰に自身の考えを述べられるようになった。国を治める者として、確かな協力関係を結ぶようになったのである。舅の前国王フランソワ1世もかつて褒めていたが、カトリーヌがよく本を読み学んでいたのが奏効したのだ。
 そして、二人の関係を強固にしたのは「イタリア戦争」だった。アンリは戦争の人質となってスペインに送られ、カトリーヌはフィレンツェ包囲の際に軟禁状態の日々を過ごした。二人ともまだほんの子どもだった。
 この戦争が二人に与えたものは他からは計り知れないほど大きかった。だからこそ、戦費が枯渇したのを機に(実質的には敗北に近いとしても)和議を結んで戦争を終わらせたのである。

 まるでそれが生涯の仕事であったかのように、ようやく区切りのついた時、アンリは倒れてしまった。

 カトリーヌはアンリにすがり付いて、その名を呼び続けたいと思った。そうすれば不意に何事もなかったかのように目覚めるかもしれない。妻という立場だけならばそうしたかもしれない。ただ彼女は王妃であり、今は王の代行をしなければならなかった。

「王妃さま。少しお休みになられては。とても顔色がお悪いですわ。その間、フランソワと私で付いていますから。王妃さままで倒れてしまいます。どうかお休みになってください」とメアリーがカトリーヌに声をかける。
 カトリーヌは息子の背の高い嫁をぼんやりと見上げる。フランソワも背後でうなずいている。そして、さらにその後ろに立つギーズ公に視線を投げた。神妙にうつむいている近臣を見てカトリーヌはひどく虚しい気分になった。ギーズ公はメアリーの伯父である。アンリがみまかった場合、フランソワが次の国王になる。そして王妃はメアリーになる。それはカトリーヌもわかっている。
 しかし、それはメアリーの血縁であるギーズ公の力が増すことにもなろう。

 もう今後のことを周りは考えているのかもしれない。

 そう思うとカトリーヌは嘆き悲しんでいるわけにはいかなかった。
「そうですね。もう3日も寝ていないせいかしら。少しめまいがします。メアリーの言うとおり休ませてもらいますが、何かあったらすぐに起こしてちょうだい」
 メアリーは心からの同情を込めて、「もちろんですわ、王妃さま」と優しく告げた。

 アンリの意識が戻ったのは翌日のことだった。もちろん、カトリーヌもその場に戻っていた。王は苦痛に呻きながらも、マルグリットの婚礼のことや教皇宛てに戦争の終結を知らせる手紙を口述させたり、ユグノー(プロテスタント)に加わる高等法院の数名に対して死刑に処する命を発したり、王の職務を忠実に執行しさえした。それが済むと苦痛の下から王妃を呼んだ。

「婚礼はつつがなく済ませてくれ」
「御意にございます」
「フランソワはまだ幼い。成長するまで守ってやってほしい」
「……御意にございます」
「ディアンヌはここにいないのだな。さよならを言いたかったが……」
 カトリーヌはうなずいて涙を浮かべる。
「どうか、お許しください……」
 アンリはしばらく黙っていたが、ぽつりと言った。
「いや、許してほしいのは私の方だ。ずいぶん苦しんだと思うが……あなたが王妃でよかった。私に欠くことのできない大切な人だ。ありがとう」
 カトリーヌは去っていく人の優しい言葉に応えることもできず、ただぽろぽろと涙をこぼした。

 王の苦痛は意識のある間際限なく続き、ついに司祭が呼ばれる。

 マルグリットの結婚式は1559年7月9日の夜、当初の予定とは異なるサン・ポール教会でひっそりと行われた。華やかな催しはいっさいなく、王妃は出席しなかった。

 翌日の7月10日にフランス国王アンリ2世の死が公表された。正確に亡くなった日は諸説あって現在まではっきりしていない。

 そして、フランスには次の大きな嵐が襲来する気配があらわれていた。
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