16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第12章 スペードの女王と道化師

アンリ2世の騎馬槍試合

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 カトー・カンブレッジの和議でのフランスの小さくない譲歩もあって、戦争状態はようやく終わった。見方によっては「敗戦」と受け取られかねないものではあったが、フランスは華やかな婚礼の式典で、印象をまるきり変えようとしていた。

 婚礼はふたつあるとさきに述べた。
 まず、スペイン王のフェリペ2世とフランス王長女であるエリザベート、そして、サヴォイア公エマニュエル・フィリベルトとフランス王の妹マルグリットの結婚である。それぞれ、1559年6月22日と7月2日に結婚式が行われることとなっていた。婚約から数日結婚という流れになる。すでに、新郎側2人もフランスに到着していた。フェリペは盛大な歓迎を受けた。
 聖堂の鐘の音は高らかに、王を称える讃美歌が厳かに響き渡る。少し遅れて到着したサヴォイア公の一隊は羽をふんだんに使用した華やかな装束を身に付け、大いに喝采を浴びる。つい先頃までの敵ということはとうに反古にされていた。

 これは和平の祝事なのだ。

 フランス王の長女は16歳になり結婚しても不思議でない年齢だが、夫になるスペイン王はすでに30を越えている。いくばくかの不安があるのも仕方ないところである。そのような不安の出口はすでに王太子フランソワの妃になっているメアリー・ステュアートだった。幼少期から同じ部屋を与えられ、姉妹同然に過ごしてきたふたりなので遠慮することもない。

「どう?支度はだいたい済んだの」
 そう聞かれたエリザベートは寝台にどさっと腰かけるとため息をついた。
「何が済んだのか、済んでいないのか、私にはさっぱりお手上げ。毎日毎日ドレスを試着して、手直しして、また手直しの繰り返し。何でも母さまがイタリアの……えーと、どこだったかしら?どこかに注文した極上の生地がまだ届かないみたい。もう間に合わないんじゃないかしら」
 メアリーはフッと笑う。
「可愛い娘が結婚して遠くへ行くのだから、できるだけのことをしたいと思うのは当然だわ。私は居候のままここでお世話になってしまっているけれど」
 エリザベートは目を丸くする。
「まあ、メアリー!そんな風に思っているの?びっくりだわ。あなたはこれからフランソワとこの国を治めるという大切な役目があるのよ。自分を居候だなんて、二度と言ってはダメよ。たとえ私の前でも」
 エリザベートの言葉はメアリーを微笑ませた。
「いつのまにか、あなたもおチビさんじゃなくなったのね」
「そうよ、これからはスペイン王妃になるんだから」とエリザベートは笑う。
 強がっている、とメアリーは思う。
 いくらお付きの者がたくさん帯同するといっても、よその国のかなり年上の男性に嫁ぐというのは心細いものだ。メアリーもこの宮廷に来たときは言葉も違うしすぐに慣れることはできなかった。それに、嫁ぐ先のフェリペ2世はつい最近まで不倶戴天の敵だったのだからなおさらだ。
 メアリーは優しくエリザベートの頭を撫でる。
「あなたにも、いえ、あなたには特別、幸せになってもらいたいわ。だって、私の大切な人なのだから」
 エリザベートはされるがままになって、不意にメアリーに尋ねる。
「メアリー、お兄さまと結婚して幸せ?」
 メアリーは目をぱちくりさせる。その質問を想定していなかったからだ。そして、宙を見て考えながらいう。
「えーと、それは結婚をどのように考えるかによって少し変わってくるわ。私はとても幸せな環境にいると思うわ。処刑される心配もないし、フランソワとはずっときょうだいのように過ごしてきたから、何の気兼ねもいらない。最高の環境……ただ……」
「ただ?」
「熱烈な恋愛というのではないわね」
 エリザベートはまじまじとメアリーを見る。
「確かに、お兄さまはあなたの弟のようね。ただ、王家に生まれた女子ってそういうものなのだと思うわ。誰それがいいと自分では選べない。お母様もそうだったし……メアリーはもっと情熱的な恋がしたかった?」
 メアリーは人差し指をくちびるにあてる。
「だめよ、誰かに聞かれたらどうするの。フランソワのことは好きよ。ただ、そういう情熱的な恋ってどのようなものか、ちょっとだけ知りたいのよ」
 エリザベートは「あなたの方が少女のようね」と微笑んで次のドレスの試着に呼ばれていった。

 エリザベートの結婚式はつつがなく終了し、フェリペは先に自国に発った。27日にはマルグリットとサヴォイア公の婚約の調印式があり、その後で祝宴の宴が持たれた。その後、王宮の庭園で祝事の余興として馬上槍試合が開催された。これはフランス王アンリ2世が勇敢な騎士と一騎うちをするという筋書きで、祝事の際にしばしば行われる「模擬試合」だった。王の相手は義弟になるサヴォイア公、重臣のギーズ公、そしてモンゴメリー伯であった。
 サヴォイア公とギーズ公までが終了し、あとはモンゴメリー伯との一戦を残すのみとなった。モンゴメリー伯も万事わきまえているので、はじめは果敢に向かっていき槍をぶつけ合った後で、王に勝利の栄冠を与えるという筋立てを立てていた。すぐ負けると観客が盛り上がらないと予想できたからである。
 試合は予想通りに進んでいた。キーン、ガシャンと槍のぶつかる音が周囲に響く。しかしその時変事が起こった。
 モンゴメリー伯の槍先が突然折れたのだ。
 その先には王の盾を越えて兜があった。
 間合いを計算して引き戻す間がない。
 重心を失った槍はあらぬ方へ動く。

 モンゴメリー伯の槍は兜の隙間からアンリ2世のこめかみを突きさした。
 王はよろけて馬からゆっくりと落ちる。
 凍りつくような静寂。
 走り出す家臣たち。
 それから一瞬遅れての悲鳴。
 呆然と馬に乗ったままのモンゴメリー伯。
 家族は皆目の前で起こっていることを理解できない。
 王は直ちに部屋に運ばれ、医師も駆けつけて手当てを受ける。

 時間の流れが止まって、1秒が1分に感じられるようだ。カトリーヌはしばらく呆然としていた。本人にしたら1時間ぐらいだったかもしれないが、実際はほんのわずかだった。カトリーヌはハッと我に返って、側近たちに伝えた。

「今日の祝宴は終了です。
 王がケガの手当てをしている間に何かあった場合、必要とあらば私が判断しますので申し出るように」

 カトリーヌは自分の発している言葉を、赤の他人の言葉のように聞いていた。頭の芯はぼんやりとしているのだが、するべきことはてきぱきと指示している。それほどさきの光景は衝撃的だった。観客の退出を待たず、王の一家は部屋に戻り医師の見立てを聞く。
 こめかみの傷はそれほど深くないようだ。
 王は呻いていたので意識があった。
 カトリーヌは少し安堵した。
 数年前、王が遠征で不在の間、その代行を務めたことがあった。今度もそうなるのだろうか。
「王妃さま、エリザベートさまの婚儀は万事済んでおり、あとはスペインにご出立いただくのみにございます。さて、マルグリットさまの結婚式についてはいかがいたしましょう。このような事故が起こっては……王のご容態が落ち着くまで延期した方がよいのかと……」
 カトリーヌは唇を軽く噛んで考えている。
 そこに途切れ途切れの声が響いた。
「こんなケガは大したことではない。結婚は平和の証しなのだ。私や王妃も長らく望んできたことなのだ。私はしばらく寝付くかもしれぬが、王妃をその間の王代行に指名する。その上で結婚式をつつがなく済ませてくれ。カトリーヌ、頼んだぞ」
 カトリーヌは自分の目に涙があふれるのに気づいたが、こぼさないように気をつけながらはっきりと答えた。
「御意。仰せの通りにいたします。どうか早く回復されますよう、一同忠心よりお祈りします」
 アンリはそうつぶやくと、意識を失うように眠り始める。医師の投薬が効いたのだろう。カトリーヌはすぐさま別室に控えるサヴォイア公と会談することにした。
 ふっと振り向くと回りにはカトリーヌの産んだ子どもたち、王太子妃のメアリー、王の側近たちが見えた。カトリーヌはそこにいる人びとの向こうにフランスの国土に住む無数の人々の姿を見た。たとえいっときにせよ、国家を持つ者の責任を強く感じたのだ。彼女は背筋を伸ばして子どもたちに告げる。
「お父さまは大丈夫よ。予定はその通りに進めます」
 そして脇に呆然と立っているギーズ公に「モンモランシーとディアンヌはこの部屋に入れないでください。王が感情を乱すかもしれないから」ときっぱり言い放った。このような場において、愛人と同調者は真っ先に遠慮してもらうべき存在だった。
「かしこまりました」というギーズ公の声を背中に聞きながら、カトリーヌは部屋を出た。

 歩くカトリーヌの頭の中にふっと、本で見つけた短い詩が浮かんだ。それは古の王の史実を4行詩にしたものかと思われたが、現在の状況に似ているとも取れた。


 若き獅子は老人に打ち勝たん
 いくさの庭にて 一騎討ちのはてに
 黄金の檻の中なる双眼をえぐり抜かん
 酷き死を死ぬため二の傷は一とならん

 ノストラダムスの詩編の一である。
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