16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第12章 スペードの女王と道化師

巨人の物語は旅の伴

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 現代では高速鉄道が走っているので実感はないが、サロン・ド・プロヴァンスからパリへ行くというのはそう簡単ではなかった。
 王侯貴族ならば馬で行くという手段もあるが、700kmあまりの距離を一般の人が行くにはそれなりの決意と支度が必要だ。ミシェル・ノストラダムスは齢50を越えていたし、痛風の持病もあったので往復1400kmあまりの旅は相当厳しいものだったと思われる。自身の旅についてミシェルはさんざん星回りを見ていたらしく、その結果は佳いものではなかったようだ。それはさきに書いた通り異端審問にかけられるのではないかという仄かな恐怖に依るのだが、行っても行かなくても著作が非難されれば同じことである。
 長旅になるので旅費にも不安があったのだが、その点は地元サロンの篤志家からいくらか用立ててもらって事なきを得た。王の招きで赴くのだから、それなりの保証はあるのだろうと予想できたが、万事安心というわけにもいかないのだった。
 
 ミシェルはそれでも旅を楽しむと決めて出発したのだった。
 彼が出発したのは七月十四日で、グレゴリウス暦でズレは生じるみののフランス革命記念日である。まさかミシェルが234年後の革命記念日のもとになる事件を知っていたとは思わないが、現代までフランス人で知らない人はいない、そのような日である。

 馬のはなむけはしないもののミシェルは北に進路をとって、暗記するほど読んだ本のことばを繰り返した。

〈パンタグリュエルはオルレアンで十分に勉強をしてから、名高いパリの大学を訪れようと考えた。しかし、出発するに先立って、このオルレアンの町の聖エニヤン教会内に、大きな図体をした釣鐘が一つ、二百十四年も前から地下に埋めてあるということを聞きおよんだ。と申すのは、なにしろとてつもない大きな鐘だったために、いかなる妙案をもってしても地面に引き出すだけのこともできかねたのであり、ウィトルウィウスの『建築ニツイテ』やアルベルトゥスの『建造術ニツイテ』、エウクレイデス、テオン、アルキメデス、ヘロの『器械ニツイテ』の勧めるありとあらゆる方法を適用してみてもどうにもならなかったからである。すなわち何を持ってきても、てんで歯が立たなかったのである。そこでパンタグリュエルは、この町の市民住民たちのうやうやしい欺瞞を快く容れてやって、この鐘を釣り下げられるべき建楼へ持っていってやることとした。
 事実、その鐘を埋めてある場所へ来て、パンタグリュエルは、皆様が鷂の脚につけた鈴でも持ち上げる時と同じように、やすやすと小指で地下から釣鐘を引き出してしまった。そして、鐘楼に運ぶに先立って町じゅうに朝の調べでも聞かせてやろうと思い、片手でこの鐘を持ったまま通る道々どこへ行ってもがんがんごんごん鳴らしてやることにした〉(※)

 ミシェルは野に立って山を眺める。
「まだようやくアヴィニョンに着いただけだというのに、巨人パンタグリュエルはオルレアンで英雄だ。オルレアンに着く頃は8月になっているだろうさ。私は鐘を持ち上げることなどできないから、人知れず滞在するだけだろうが」
 アヴィニョンはミシェルが物心ついて初めて家から離れて住んだ土地である。実家からもそれほど離れていないのだが、ペスト騒ぎで無期限の休校になったため長くは住めなかった。
 その頃ミシェルは時祷書がたいへん好きだった。そこには人々のすべてが美しく描かれていた。貴賤を問わない人々、耕し、世話をし、食事をし、冠婚葬祭があり、赤や黒の僧衣があり緑や青のドレスがある。時には剣を抜く大天使やペストの患者も現れる。
 不意に子どもたちの遊び歌が聞こえる。

Sur le pont d’Avignon,
l’on y danse, l’on y danse, 
Sur le pont d’Avignon, 
l’on y danse tout en rond.

Les beaux messieurs font comme ça, 
et puis encore comme ça.
Les belles dames font comme ça, 
et puis encore comme ça.

 身の振り方を考えるのと、見聞を広めるためにフランスをほうぼう旅したのはそこからだった。そのあと、モンペリエ大学に入学しなおして医学を学ぶことになった。モンペリエは医学で有名な学校だった。
 その時期にミシェルはフランソワ・ラブレーを知ったのだった。ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語を書いた人である。物語もなかなか荒唐無稽だが、書いた本人も他に類のない人だった。フォントネー・ル・コント村で出会って、おもむろに議論を吹きかけられ、そのまま村の賢者であるチラコー先生の家まで連れていかれてしまったのである。まだまだ世間を知らない青年にとって最高に刺激的な出会いだった。以降、ミシェルはずっとラブレーに惹かれてきたのである。

「旅ばかりで人生の半分を過ごしてきた」とミシェルは思う。
 そしてパリまで行くような長い旅はこれで最後なのかとも思う。今に比べれば青年の頃は何という軽い翼があったことか!そのような嘆きもあったが、何より旅は過去と未来を行き来できる現在なのであると感じていた。それを承知していたのだが、旅を止めると忘れてしまって再開すると再び思い出すのだった。

 同じようなことを古代ギリシア人も書いていたし、400年後の詩人も書くだろう。

Because I do not hope to turn again
Because I do not hope
Because I do not hope to turn
Desiring this man's gift and that man's scope
I no longer strive to strive towards such things
(Why should the agèd eagle stretch its wings?)
(なぜ老いた鷲が翼を広げる必要があろうか?)
Why should I mourn
The vanished power of the usual reign?

 Thomas Stern Eliott『Ash Wednesday』
   URL:http://famouspoetsandpoems.com/poets/t__s__eliot/poems/15133

 パリへは8月15日の聖母被昇天の日までに到着すると知らせを出している。
 700kmを1カ月かけて歩く(時には馬を雇うにしても)ので、いくらか急ぐ区間を設ければ長めに滞在できるとミシェルは踏んでいた。8月15日といえば、パリのモンマルトルでイエズス会が結成の誓願を行なった日でもあるが、キリスト教徒の記念日としてたいへん重要な日である。この日にパリに入るというのは、自身が経験なカトリック教徒であると理解してもらうためだった。ミシェルはそこから外れたことはなかったので、過度に気を回さなくともよかった。それほどまでに「異端」という謗りを恐れていたのである。確かに、王宮行きかと思ったら裁判所(異端審問)行きという場合も絶対にないとは言えない。ひたすら慎重だったのである。

〈その後のこと、パンタグリュエルはお供の連中と一緒にパリへ着いたが、パンタグリュエルが町へ入ってゆくと、ありとあらゆる人々がその姿を仰ぎみようと屋外に飛び出して来た。これは皆々様もご存じのとおりのことだが、パリの市民と申すものは生まれつき阿呆で、本位記号をつけてみても変調記号をつけてみてもどうにもならぬからである。一同は、びっくり仰天しながらパンタグリュエルに眺め入った。そして、その父ガルガンチュワがノートル・ダム寺院の釣鐘を牝馬の首につけようとして持ち去ったためしもあるというので、今度はパンタグリュエルが法院をよそへ、どこか偏僻の地域に持っていってしまいはせぬかと、大いに恐れたしだいである〉(※)

 あの人は歯に衣着せずだったし、庶民の好みをよく分かっていたからパリの市民が生まれつき阿呆などとからかった書き方ができたが、それを諧謔と捉えない階層に嫌われた……。
 ノートル・ダム寺院には行かないといけない。何しろ私の苗字と同じだからな。間違っても鐘楼から鐘を持ち出したりはしないと分かってもらわねばならない。

 ミシェルはひとり頭の中でいろいろつぶやきながら進んでいく。偉大な先人の物語は旅の格好の友であったし、それがあって自身の道を決めたのだから、迷いなく進まねばならないと改めて感じたのである。日は高く長くなった。あまりに暑いときは木陰で休み、腹が空けば農夫に食事を頼み次の宿を見つけるまで繋いで、ゆっくりと旅を続けていった。

(※)『第二之書 パンタグリュエル物語』フランソワ・ラブレー/渡辺一夫訳(筑摩世界文学大系12『チョーサー ラブレー』)より引用

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