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第12章 スペードの女王と道化師
隠者も子育てをする
しおりを挟むミシェルは書いた本以外に、自分を引き立てるものを持っていなかった。
例えば素晴らしい駿馬であるとか、名家の紋章が入った剣であるとか、素晴らしく大きなエメラルドなど、自身に箔を付けるようなものがないのである。そのように思うのは、自身が英雄のように美しく逞しい若者ではなく、プロヴァンス地方の初老の男であるという自覚が十分にあったからであろう。もちろん、王に謁見するのに必要だと思われる礼服は持参するし(礼服とはいってもきらびやかではない黒い長衣である)、占星術師が持っているような道具も鞄に詰めてあった。それでも、「私がノストラダムスです」と言った場合、信じてもらえないのではないかという恐れは消えない。そもそも、サロン(ド・プロヴァンス)では皆が顔見知りのようなもので、特に自分の証明をする必要がない。
誰も自分を知る人がいない町に行くときに、どのように自分の証明をしたらよいのだろう。ミシェルの場合、著書がそれにあたると思うのだがそこさえ疑われたらもう何もなくなってしまう。
ミシェルは自分を証明するためにいくらか奇妙な方法を採用しようと決めた。それは周囲から見れば奇妙だということで、本人は大真面目そのものだった。
1555年8月15日、聖母被昇天の日にミシェルはパリに到着し、真っ先にノートルダム大聖堂に向かった。そして、ここまでの旅を無事に終えたことに対し感謝の祈りを捧げるのだった。これは口うるさい人から見れば仰々しい儀式だったが、ミシェルにとっては自分の身の証しであった。言い換えれば聖母の守護がどうしても必要だったのだ。
そこには国王アンリ2世の側近であるモンモランシー元帥ら数名がミシェルを出迎える。モンモランシーはイタリア戦争の数々の戦いで武功を立てて元帥に上り詰めた武人なので、護衛としては最高の人選だが、捕縛するのには大げさでやや不適切であった。肩書を聞いて内心仰天していたミシェルはまだどちらに転ぶか判然としないので、表情を変えず静かに、導かれるままにミシェルは提供された馬に乗ってパリの町を進んでいった。
ああ、元帥はまるでトリオンフィ(タロットカード)の剣の王のようだ。そして従者はさながら剣のカードの集まりだろうか。
ミラノに旅した際に古いトリオンフィを見せてもらったことのあるミシェルはカードを思い出したことにわずかな滑稽さを感じながら想像を進めていた。だとすると王は『皇帝』で王妃は『女帝』か。あるいは他のスートの王と女王だろうか。
トリオンフィは15世紀のイタリアに見られ、ヴィスコンティ家、スフォルツァ家、デステ家に伝来するものがある。1枚1枚彩色された手描きのカードで御守りやまじない札の用途で作られていたという。それがいつフランスに伝わったかは定かでないが、ラブレーの『第一の書』にはすでに『Tarau』という記載が見られる。トリオンフィからの派生か別に由来するかははっきりしない。ただ、この種のものは以後長くタロー、タロットと呼ばれるようになる。伝播していくなかで、世界における人の姿を表したカードは御守りやまじないから、ゲーム、占いや秘儀を込めたものに変わっていったのである。ちなみに、ゲームカードの『トランプ』にはトリオンフィの名残が見てとれる。
ミシェルはふと、自分はカードの何にあたるのだろうと思った。学者や著述家のカードはあっただろか。すぐには思い浮かばなかったので、黒い服を着ているのなら『隠者』だろうとあてはめている。隠者は滅多に姿を現さないし、隠された智恵を知っている存在である。ミシェルは著述家なので、本来は何らかをつまびらかにするものである。それをあえて隠された智恵として書いているので、隠者はおあつらえ向きだと考えたのである。もっとも、いかにも軍人風情の人々のなかで多く語る必要もなかった。
静かに一行は王宮にたどり着いた。
剣の王のごときモンモランシー元帥は王妃の前に膝をつき、「客人、サロンの医師、占星術師、著述家のミシェル・ノストラダムスをお連れいたしました」とうやうやしく述べた。
ミシェルは王妃の姿をしずしずと仰ぐ。
「このたびはお招きいただき、たいへんな喜びとともに罷りこしましてございます。サロン・ド・プロヴァンスのミシェル・ノストラダムスにございます」
王妃カトリーヌは微笑んで彼の言葉を聞く。
「ずいぶん待ちましたよ。初めにお呼びしたのはもう何年も前のことです。あなたはその間にいくつも本を著されて、私もまた子どもを産みました。今ではパリでもあなたの本がたくさん読まれるようになった。リヨンの版元はさぞかし大喜びしているのではないかしら」
「はい、ありていに申しますと大層喜んでおります」とミシェルはてらいなく答える。
「そうでしょう。でもその前からあなたとは会ってみたかったのですよ。アルマナックを見てから」
「アルマナックに何か特筆すべきことがございましたでしょうか」
カトリーヌはうなずいてから、まずはミシェルに旅の疲れを癒すよう告げた。
「今日は食事を用意させるわ。一緒にと言いたいところだけれど、子どもたちがとても賑やかで落ち着かないと思います。また改めて会わせるけれど、今夜はゆっくり休みなさい」
ミシェルはふっと微笑む。
「王妃さま、実は我が家も毎年子どもが生まれておりまして、まだ上は6歳で……それはもうたいへんな有り様です。特に下の子はまだ生まれたばかりですから夜泣きするのを毎晩妻の代わりにあやして、とても眠れたものではありません。ですので今日は休ませていただきますが、あまりお気遣いはなさらないでください」
「あら、意外」とカトリーヌは目を丸くする。
アルマナック、『化粧品とジャム論』、『予言書』にしても気難しく孤独のうちに、加えて怪しげに執筆をしている老人という印象があったようだ。それはトリオンフィの『隠者』と同じでミシェルが自身を模しているものでもあったが、その印象は一気に崩れたようだ。
「楽しくお話ができそうね、ミシェル。これからいろいろご指南くださいね」とカトリーヌは微笑んで去っていった。
子の話を出したのはよかったのか悪かったのかミシェルには分からなかったが、いきなり異端審問にかけられることはないように思えた。子の夜泣きよりそちらの方が不安の種だったので、今夜はよく眠れそうだとミシェルは安堵した。ただ、すぐに眠るわけにはいかない。
「王さま、王妃さま、王太子さまたち、王女さまたちのお誕生日、生まれた時間まで正確に知りたいのです。これから王妃さまとお話するのに必要な情報です。分かる範囲で結構ですので、今日のうちにいただきたい」
ミシェルは世話役の女官たちに伝える。ひとりの女官が「かしこまりました。ただちに」と言って急ぎ去っていく。それを見ていた一人がミシェルを労るように言う。
「今日ご到着されたばかりなのですから、王妃さまが仰せの通りゆっくりお休みになられてもよろしいですのに」
ミシェルはうなずいてからいう。
「やはりお話をするからにはきちんと調べておかないと。あ、あとこちらの宮殿で星の観察もさせていただきたいのですが、外に出て差し支えない場所はありますか」
「バルコニーがございますが」
「そちらに出る許可もいただけると幸いです」
「かしこまりました」
誕生日の一覧表はすぐに用意された。
ミシェルは女官に礼を言って机に座ると、自身の帳面を荷物から引きずりだして、一覧表の人々の出生時のホロスコープを書きはじめた。彼は現在でいうところの恒星表を自作して持っていた。それと照合すれば、それぞれの生まれた時にあった星の位置が分かる。現在のものとは少しずれがあるが、ずれているのは日付の方で星の動き自体は変わらない。ミシェルが地球をどう捉えていたかは定かでないが、定点で星の観測をするのは人がずっと続けてきた営みであった。
さて、フランス王家のホロスコープはどのようになるのだろうか。
ミシェルの部屋のほのかな灯りはしばらく点いたままだった。
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